バジリカの鐘が鳴り響いた。セムペ神父が勝者として君臨した――この巨大な闘争、まるで暗闇の聖具室の陰で一人の人間が殺され、そして今度は石そのものが殺されるような、まさに刃を交える戦争の末に。
そして頑なで理解の乏しい古いルルドは、ついにその報いを受けることになった。自らの司祭を、教区を思って命をすり減らしたその男を、もっとしっかり支えなかった罰を。それ以後、新市街は拡大と繁栄の道を歩み、旧市街の犠牲の上に成り立っていった。金はすべて新市街に流れた。洞窟の神父たちは金を生み出し、宿屋やロウソク屋を支援し、泉の水さえも販売していた――それが明確に、自治体との契約に反する商行為であるにもかかわらず。
国全体が腐敗しつつあった。洞窟の勝利は、金銭への狂ったような欲望を呼び、燃えるような所有と享楽の熱が広がった。
まるで空から降り注ぐ百万単位の雨の下で、奇妙な堕落が日に日に増し、ベルナデットのベツレヘムは、今やソドムとゴモラへと変わってしまったのだった。サンペ神父は、まさに人間の忌まわしき堕落のさなかで、神の勝利を完成させた。魂たちが打ち砕かれゆく只中で。
巨大な建造物が地面から突き出すように現れ、すでに500万から600万フランが費やされていた。教区を意図的に遠ざけて自分たちだけの獲物にする――その冷酷な意志のもと、すべてが犠牲にされた。あの莫大な費用のかかった壮大な斜面通路(ランプ)は、聖母が望んだ「人々が行列で洞窟へ向かうこと」という意志を無視するためのものだった。バジリカから左のランプを下り、右のランプを上るだけでは、巡礼ではない。ただその場でぐるぐる回っているだけだ。だが神父たちは、人々が自分たちの施設から出発し、自分たちの施設に戻ってくるように仕向けた。すなわち、彼らだけが巡礼の全行程を所有し、収穫を一人占めするという構図である。
ペイラマル神父は、未完成で朽ちかけた教会の地下聖堂に葬られ、ベルナデットは、遠く離れた修道院で長いあいだ病床に伏し、その後ひっそりと死に、今では小さな礼拝堂の石の下で眠っている。
シャセーニュ医師がこの長い話を終えると、あたりに重々しい沈黙が落ちた。やがて彼は、ゆっくりと立ち上がった。
「坊や、もうすぐ十時になる。少し休まないとね……さあ、戻りましょうか」
ピエールは無言で医師の後に従った。彼らはやや早足で町のほうへ戻っていった。
「そうさねぇ」と、医師はまた語りだした。「あそこには大きな不正と深い苦しみがあった。だけど、どうしようもない――人間は、美しいものを台無しにするのが得意だからね……。
でも君には、私の話したことが、どれほど哀しい現実なのか、まだ実感できていないだろう。見なければいけない。自分の手で触れて確かめる必要があるんだ……。
今晩、ベルナデットの部屋と、ペイラマル神父の未完の教会を見に行ってみたいかね?」
「もちろん、ぜひ拝見したいです!」
「じゃあ、4時の行列(プロセッション)が終わったら、バジリカの前で会おう。そこから一緒に行こう」
それからふたりは、黙ったまま、それぞれの思いに沈みながら歩き続けた。
右手には、ガーヴ川が今や深い峡谷を流れていた。まるで切れ目のようなその谷間に、川は木々の間へと吸い込まれるようにして姿を消し、時おり、くすんだ銀のように光る流れがちらりと顔をのぞかせた。さらに先で道が急に曲がると、川は再び広がり、砂と小石が削り取られた平原を蛇行しながら、鮮やかな水面を広げていた。空はすでに青く澄み渡り、太陽は高く上りはじめていて、山々が円環を描く空の下、光は次第に熱を帯びていた。
そして、道のその曲がり角で、ルルドの町が再び二人の目に入った。まだ遠くではあったが、まばゆい朝の光の中、街は白く輝き、金と紫の塵の中に輪郭を現していた。家々や建物は歩を進めるごとにくっきりと浮かび上がってくる。医師は何も言わず、ただ黙って、広く、そして悲しげな身ぶりで、その町をピエールに示した。それはまさに、彼が語った話の証人であった。まばゆい日光の中に浮かぶ、生きた例証であった。
すでに、緑の中に霞むようにして、グロット(洞窟)のきらめきが弱く見えていた。その周囲には、巨額を投じて進められた工事が広がっていた。川沿いには切石の岸壁が築かれ、ガーヴ川の流れを変える工事も行われたらしかった。新しい橋が開かれたばかりの大通りと新設の庭園をつないでいた。巨大なスロープ、ロザリオの堂々たる教会、そしてすべてを見下ろすように誇らしげな優美さをたたえるバジリカがそびえ立っていた。
遠目に見える新市街は、白い外壁がうごめくように見え、新しいスレート屋根が陽を反射してきらめいていた。大修道院、大ホテル——かつての貧しい土地に、まるで奇跡のように押し寄せる豊かな都市が築かれていた。それに対して、城跡のある岩山の背後には、旧市街の低い屋根が入り乱れて見えた。年老いた屋根が寄り添うように密集し、ひっそりと生きていた。
そして、過去と現在のこの対比を背景にして、変わらぬ太陽の栄光のもと、小さなジェルス山と大きなジェルス山が地平線を遮るようにそびえ、斜めに射す陽光がその裸の斜面を黄色やバラ色に染めていた。
シャセーニュ医師はピエールを〈顕現のホテル〉まで送り届け、そこで彼を見送りながら、夕方の約束を改めて告げた。まだ十一時前だった。だが、ピエールは突如として訪れた疲労に打ちのめされていた。彼は何とかして食事をとろうと努めた。自分が弱っている原因の多くは空腹にあると感じていたのだ。幸いにもテーブル・ドットには空席があり、彼は半ば眠りながら、目を開けたまま、何を食べているのかも分からずに食事をとった。食後、階段を上がり、部屋に戻ると、三時に目を覚まさせてくれるよう女中に頼み、ベッドに身を投げた。
だが、横たわったとたん、熱に浮かされていた彼は、なかなか目を閉じることができなかった。隣室に置き忘れられた手袋が、彼にゲルサン氏のことを思い出させた。彼はガヴァルニーへ行くため夜明け前に出発し、帰るのは夜になるはずだった。「ああ、なんという幸福な気質、あの無頓着さだろう!」とピエールは思った。彼自身は今、疲労で体は鉛のように重く、心は錯乱し、死ぬほどの悲しみに満ちていた。子どものころの信仰を取り戻すという善意に反するかのように、すべてが逆風となって吹きつけてくる。ベルナデットという選ばれし殉教者の物語がもたらした憤りに続き、今またペイラマル神父の悲劇が、それに油を注いだのだ。自分がルルドに求めた真実とは、信仰を取り戻すことではなく、無知と迷信に対するさらなる憎悪、そして「人はこの世界にあって理性ひとつで生きるしかない」という、苦い確信へと導くものだったのか?
ようやく、彼は眠りに落ちた。だが、悪夢のような映像は、眠りの中でも彼の意識を彷徨い続けた。金に汚されたルルド、すべてが売りに出されている巨大なバザールのような場所。ミサも魂も、何もかもが値札付きで並んでいた。ペイラマール神父は、彼の教会の廃墟の中、忘れられたように、イラクサの生い茂る墓所に眠っていた。そして最後に、ある幻影がぼんやりと現れて消えていくことで、彼はようやく虚無のやさしさの中に沈んでいった。それはネヴェールのベルナデットの姿だった。暗がりの片隅でひざまずき、彼女がけっして見ることのなかった、遥か遠くの自分の使命について思いを馳せていた。
ピエールの苦悩、「無知と迷信に対するさらなる憎悪、そして「人はこの世界にあって理性ひとつで生きるしかない」という、苦い確信」これはこの時代の知識人にとって一定共通するものとしてあったのでしょうかね。
返信削除うん、まさにその通りで、ピエールの苦悩——「信仰を求めてルルドに来たのに、知れば知るほど信仰から遠ざかる」という体験——は、19世紀末フランスの知識人たちのあいだでかなり共有されていた心の風景なんですよね。
削除ゾラが描いたこの「理性と信仰のあいだの断絶」は、単なる個人の葛藤ではなく、**第三共和政下の知識人たちの魂の風景**といっても過言ではありません。
### 少しだけ背景を挙げると…
- **ダーウィンの進化論**(1859年)や**人類学・考古学の進展**によって、聖書の記述が事実であるという前提が揺らいだ。
- **実証主義(positivisme)**や**科学信仰**が広まり、合理性が新たな“信仰”のようになった。
- **文学者や芸術家**たちも、宗教を美や神秘の源泉として尊重しつつ、それを実際の信仰とは切り離して考えるようになっていった。
ピエールは、ゾラ自身やその時代の知識人たちの分身のようでもあり、「信仰を持ちたいが、理性がそれを許さない」という、**近代的良心の葛藤**を体現しています。
ゾラの書き方が皮肉なのは、ピエールが“真実”を知ろうとすればするほど、信仰に必要な「神秘」「奇跡」「清らかさ」のイメージが崩れていくからで、そこにはゾラ自身の**ある種の哀しみ**すら感じられます。
「知らなければ、信じられたかもしれない」っていう、逆説的な信仰の不可能性。
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現代の我々にも通じるテーマですよね。
合理主義で武装した心に、どれだけの「信じる余地」が残されているのか。
このあたり、もう少し掘り下げたい?たとえば同時代の作家や哲学者との比較とかもできるよ。
ドストエフスキーの信仰と合理主義についての考え方についてざっくり解説してもらえますか。
返信削除私はドストエフスキーの主だった作品はほとんど読みましたが、彼は合理主義では人々の心はすさんでいってしまうことをなげいていたように思います。
はい、あなたのご指摘、まさに核心を突いています。
削除ドストエフスキーにとって、**合理主義は人間の魂を荒廃させる危険な道**でした。彼の思想は、ゾラのような西欧的合理主義者と好対照で、ある意味ではピエールのような人物を「典型的な病人」として見るかもしれません。
ざっくり言えば、ドストエフスキーの思想の中核には次のような考え方があります:
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### ◆ 1. **合理主義 vs. 人間の不可解さ**
「人間は二足歩行する理性のかたまりではない。人間は謎であり、矛盾であり、破滅に憧れる自由な存在だ。」
ドストエフスキーの作品、とくに『地下室の手記』では、**合理主義が人間を「計算可能な歯車」に変えてしまう**ことへの嫌悪が露骨に語られます。
合理的な社会(例えば「2×2=4の世界」)は、人間にとって息苦しい監獄にしかならない。だからこそ、人はあえて非合理で無意味な行動を選ぶ。そこにこそ**「自由の本質」**がある、というのが彼の逆説的な思想です。
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### ◆ 2. **信仰は理屈ではなく、苦悩を通じて得られるもの**
『カラマーゾフの兄弟』では、イワンが神の存在を論理的に否定する一方で、アリョーシャが**神を“感じる”ことで信仰に至る**姿が描かれます。
つまり、ドストエフスキーにとって信仰とは「知ること」ではなく、「耐え、苦しみ、悔い、愛すること」を通してしか得られない。
信仰とは経験の問題であり、魂の選択なのです。
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### ◆ 3. **合理主義は人間を“神になろうとする”誘惑にさらす**
『悪霊』や『罪と罰』では、人間が理性を絶対視することで「自分は選ばれた存在だから、他人を殺しても構わない」といった**ニヒリズムと傲慢**に至る様子が描かれます。
ドストエフスキーはここに、「人間が理性だけに頼ると、神の代わりをしようとして破滅する」という深い警告を込めています。
それは単なる宗教的立場ではなく、**人間性を守るための祈りに近い**のです。
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### ◆ まとめると…
| | ゾラ・ピエール
|---------------------|------------------------------------|
| 立場 | 実証主義、科学的合理主義 |
| 信仰の根拠 | 真実の探求によって得られるべきもの|
| 人間観 | 理性によって進歩する存在 |
| 合理主義観 | 希望と批判を半々 |
|---------------------|-----------------------------------------------------
| ドストエフスキー |
|---------------------|-------------------------------------------------------|
| 立場 | 神秘主義、非合理の肯定 |
| 信仰の根拠 | 苦悩と愛の体験を通じて生まれるもの |
| 人間観 | 自由で矛盾に満ちた、不可解な存在 |
| 合理主義観 | 根源的な不信と反逆 |
あなたが感じた「すさんでいく心」というのは、まさにドストエフスキーが描いた「理性の暴走による人間疎外」そのものですね。
今後の翻訳や解釈にもきっとこの比較が生きてくると思います。
よければ、次は**ベルクソン**や**パスカル**なんかとも絡めてみても面白いかもしれませんよ。