しかし、ピエールが彼(サングィネッティ)に見たのは、ただ「禁書目録省の長官枢機卿」でしかなかった。そしてただ一つの思いが彼を強く動揺させていた――この男が、自分の著書の運命を決めるのだということだった。だからこそ、枢機卿が姿を消し、パパレッリ神父が第二控えの間に戻っていったとき、彼はドン・ヴィジリオに尋ねずにはいられなかった。
「枢機卿サングィネッティ閣下と、枢機卿ボッカネーラ閣下は、とても親しい関係なんですか?」
書記官は口の端に皮肉な笑みを浮かべ、目には抑えきれぬ皮肉の炎が灯った。
「ええ、とても親しい……とはいえませんな。……どうしても顔を合わせねばならぬ時だけ、お会いになるのです」
そして彼は説明した――ボッカネーラ枢機卿の高貴な血筋への配慮があり、重大な案件の際には、彼の館で集まりがもたれることもある、と。今日のように、通常の会合とは別に特別な面談が必要な時だ。一方、サングィネッティ枢機卿は、ヴィテルボの町医者の息子にすぎない。
「いえ、いえ! 両閣下は決して“親しい”とは言えません……思想も気質もまるで違えば、そりゃうまくいくはずがない。特に、互いに気を遣っているようではなおさらですな」
そう呟いたときには、声もひそめ、まるで独り言のようだった。唇には例の薄い笑み。だがピエールは、もはや彼の言葉にしっかり耳を傾けてはいなかった。頭の中は、もっぱら自分自身のことだった。
「もしかして……禁書目録の案件で、両枢機卿は集まっていたんでしょうか?」
ドン・ヴィジリオは、面談の本当の理由を知っているはずだった。だが彼は、慎重に答えるにとどめた。
「禁書目録関係であれば、その会合はあちら、枢機卿サングィネッティ閣下の館で開かれるはずです」
そしてピエールは、ついに焦りを抑えきれず、核心を突く質問をぶつけてしまった。
「私の件……私の本の件をご存知でしょう? 枢機卿閣下は禁書目録省の一員で、書類はきっとあなたの手を通るはず。何か、少しでも参考になることを教えていただければ……何も知らずに待つのは、あまりに苦しいのです」
するとたちまち、ドン・ヴィジリオの不安が再燃し、怯えたような様子になった。まず彼は口ごもりながら言った。
「見ておりません、その件の書類は……それは本当です」
――それは確かに事実だった。
「間違いなく、まだ何の文書も届いておりません。私は本当に何も存じません」
そしてピエールがさらに詰め寄ろうとすると、ドン・ヴィジリオは手で制し、再び黙って執筆に戻った。時おり第二控えの間に目をやるのは、パパレッリ神父が盗み聞きしていないかを気にしているのだろう。明らかに、彼はさっきまで喋りすぎたと後悔していた。机に身を縮こまらせ、影の隅に溶けるように小さくなっていた。
ピエールは再び物思いに沈んだ。彼のまわりには未知の空気が立ち込め、古びて、まどろむような哀しみが漂っていた。時間がどれほど経ったか分からない。おそらくすでに午前11時近くになっていた。そして、ふとドアの音と話し声がして、彼は我に返った。
ピエールは姿を正し、敬意をこめて一礼した。枢機卿サングィネッティが、もう一人の枢機卿と一緒に出てきたのだ。その同行者は、やせこけて背が高く、灰色がかった顔をした苦行僧のような人物だった。だが二人とも、通路の端に頭を下げる見知らぬ若い司祭――つまりピエールの存在などまるで見えていないようだった。彼らはまるで旧友のように気さくな調子で、やや大きな声で会話していた。
「おう、そうだな、今日は風が下から吹いてる。昨日より暑かったよ」
「明日はきっと、シロッコ(※南風)だな」
そして再び、薄暗く広い部屋には、荘厳な沈黙が戻った。ドン・ヴィジリオはまだ黙々と書き物をしている。黄ばんだ堅い紙にペン先が擦れる音さえも聞こえないほど、静まり返っていた。
ふいに、かすかにひび割れたようなベルの音が鳴った。第二控えの間から、パパレッリ神父が急ぎ足で現れ、玉座の間に入る。すぐ戻ってきて、軽やかな声でピエールの名を告げた。
「アベ・ピエール・フロマン様、どうぞ」
玉座の間は非常に広く、ここもまた、一種の“廃墟”だった。天井には見事な金色の彫刻が施された木製パネル。壁には大きなヤシ模様の赤いブロカテルのタペストリー――しかしそれはところどころ破れ、色あせていた。ところどころ補修されてはいるものの、絹の深紅の光沢はすっかり失われ、むしろ色ムラが淡く光るばかり。かつては輝かしい豪奢を誇ったのだろう。
この部屋の最大の見どころは、かつて教皇が訪問の際に腰かけたという、古い「玉座」だった。赤いビロードの肘掛け椅子に、同じく赤いビロードの天蓋がつき、天蓋の下には現教皇の肖像画が掲げられている。そして、規則に従い、その玉座の椅子は誰も座らないことを示すために壁向きに回されていた。
その他、部屋の調度はというと――数脚のソファと肘掛け椅子、そしてルイ14世様式の金箔が施された見事なテーブルが一つ。テーブルの天板はモザイク細工で飾られ、「エウロペの略奪」を描いていた。
だがピエールの目に最初に映ったのは、ただボッカネーラ枢機卿の姿だけだった。彼は一つの机――執務用の卓であろう――の傍に立っていた。赤の縁取りとボタンのついた、ただの黒いスータン(聖職者服)をまとっていたにもかかわらず、彼は肖像画の中の礼装姿よりも、なお一層、背が高く、気高く、威厳ある人物に見えた。
確かに、肖像と同じく、白くカールした髪。顔は細長く、大きな皺が刻まれ、強い鼻筋と引き締まった唇。そしてなにより――厚い黒眉の下に燃えるような眼差しが、蒼白な顔全体を照らしていた。
ただし、肖像画にはなかったものがあった。それは、この威風堂々たる面差しから発せられる、静かにして絶対的な信念の気配だった。彼には、自分が真理を知っているという揺るぎなき確信があり、その真理に生涯をかけて忠実であろうという、完全なる意志があった。
ボッカネーラは一歩も動かず、鋭い黒い眼差しで訪問者をじっと見つめていた。ピエールは、礼儀作法に従って、跪き、枢機卿の指に輝く大粒のエメラルドの指輪に口づけした。だが枢機卿はすぐに彼を立ち上がらせた。
「我が息子よ、よくぞいらっしゃった……。姪(=ドナ・セレナ)から、あなたのことは深い好意をもって伺っております。お迎えできて、私もうれしい」
枢機卿は卓のそばに腰をおろした。まだピエールには着席を勧めず、そのまま彼を見つめつつ、ゆっくりと、丁寧な口調で話を続けた。
「昨日の朝、ローマに着かれたのですね。さぞお疲れでしょう?」
「ご親切にありがとうございます、閣下……はい、疲労もありますが、なによりも心が疲れました。この旅は私にとって、非常に重大な意味をもつものでして」
だが枢機卿は、冒頭から本題に入るのを好まなかったようだ。
「なるほど、パリからローマまでは、やはり遠い。今ではかなり早く来られますが……
昔は、本当に果てしない旅でした」
彼の語りは、次第にゆっくりになっていく。
「私がパリへ行ったのは、たった一度。ああ、もうかれこれ50年も前になる……しかも、ほんの1週間ほどの滞在でしてね。だが、あれは大きく美しい都市でしたよ。通りには人が溢れ、礼儀正しい方々ばかり。あの国民は、すばらしいことを成し遂げた民ですね。今のような苦しい時代にあっても、決して忘れてはなりません――フランスは教会の長女なのです……。それ以来、私はローマを一度も離れておりません」
そして、肩をわずかにすくめるような、静かな軽蔑の仕草で言外に続けた。――懐疑と反抗の地にわざわざ出向いて、いったい何の意味があるのか? ローマで十分ではないか。世界を統べるこの都、神の時に再び世界の中心となる永遠の都市であれば。
ピエールは黙ったまま、かつて勇猛で闘志あふれる人物だったというこの枢機卿の往年の姿を思い起こしていた。今や彼は、簡素なスータン姿となっていたが――その姿には、ローマこそすべてであると信じる気高い確信が現れていた。だが、同時にピエールの胸には、一抹の不安が湧いていた。この知の閉鎖、他国をすべて臣下としてしか見ないような視野の狭さ。自分がここに来た目的を思い返したとき、それが無視できない重石となった。
沈黙が訪れた。ピエールは、話を本題に戻すべきだと感じ、まず敬意をこめて口を開いた。
「何よりもまず、閣下に敬意を表したく思い、こうして参上いたしました。というのも、私は閣下にすべてを託しており、どうかお導きくださいますようお願い申し上げます」
その言葉を聞いて、ボッカネーラはようやく手を動かし、ピエールに向かいの椅子を勧めた。
「もちろんだ、我が息子よ。あなたを助けることを私は拒みはしません。善き行いを望むすべてのキリスト者には、助言する義務があります。ただし――私の影響力には期待しすぎないでください。私は世間とは隔絶しており、何も求めもせず、何も為すこともできないのです……だが、まあ、それでも――少し話をいたしましょうか」
この作品はイタリアにおけるフランス語話者のピエールの言動をフランス語でもって記述しているので、それをまた日本語にする際にいろいろな工夫が求められますね。
返信削除ところで、作中でピエールはイタリア語で話していることになるのかな? ラテン語ではないよね。 枢機卿はフランス語なんて学んでいそうにないし。
おっしゃるとおり、これは非常に興味深くて翻訳家泣かせのポイントです!
削除🗣️ ピエールはイタリア語で話しているのか? ラテン語ではない?
結論から言うと:
✅ 作中でピエールがローマの聖職者たち(特にボッカネーラ枢機卿)と話すときは、イタリア語を使っていると考えるのが自然です。
🎭 言語状況の推定根拠
1. 🎓 ピエールはインテリ。神学生であり、語学力は高い
フランス語話者でありながら、聖職者の卵であるピエールは、ラテン語・イタリア語両方に堪能であると考えてよいでしょう。
カトリックの教育を受けた者として、少なくともラテン語の読み書きは日常的。
でも、会話の現場ではやはり「生きた言葉」、つまり イタリア語 が使われる。
2. 🎩 ボッカネーラ枢機卿はおそらくイタリア語しか話さない
セリフや態度から察するに「昔パリに一度だけ行った」と話しているので、フランス語を話せるとは考えにくい。
まして彼のようなウルトラ・モンタニスト的ローマ守旧派の枢機卿が、外国語を勉強する必要性を感じるわけもなく、外国文化への関心も薄そう。
3. 📜 ラテン語は儀式用の言語
当時の教会ではミサや公式文書はラテン語ですが、日常会話ではイタリア語が使われていました。
特に教皇庁で働く日常の会話や対面での接遇では、ローマ方言を含んだイタリア語が主流です。
📚 つまりこの小説の構造はこう!
ゾラは、物語をフランス語で書いている。
登場人物たちの会話は「実際にはイタリア語でなされた」ことを前提として、フランス語で“訳して”書かれている。
我々読者(特に日本語読者)は、それをさらに**日本語訳という「二重の翻訳」**を通して読んでいる。
🎭 まるで舞台の上で、役者が違う言語を話しているふりをしながら、観客にわかるように通訳されている感じです。
✍️ 翻訳者の苦労
この二重の言語構造のせいで、翻訳者は:
フランス語を原語としながら、背後にあるイタリア語のニュアンスを読み解き、
登場人物の社会的階層、教養度、文化的立場を反映した日本語に置き換える……
という妙技を求められます。
たとえば枢機卿のような人物には「荘重な言葉遣い」が、パパレッリには「慇懃無礼」な語調が似合う——などなど。
いやはや、宗教の迷宮、言語の迷宮……
ゾラはただの自然主義作家じゃないですね。まるでバベルの塔の中を歩いてるような多層構造です!
さらに深掘りしたいテーマ(ローマ教皇庁の言語政策とか)もあれば、ぜひご一緒に探索しましょう。
ウルトラ・モンタニスト的ローマ守旧派ってなんかすごい表現だけど、どういう意味?
返信削除はい、「ウルトラ・モンタニスト的ローマ守旧派」――まるで大怪獣か新手の妖怪のような響きですが(笑)、これは19世紀カトリック世界を揺るがせた宗教的・政治的スタンスを一言で表した言い方です。順を追って説明しますね。
削除🔍「ウルトラ・モンタニスト」とは?
語源:
ラテン語の ultra montes(=「山の向こう側」)に由来。
フランスなどから見たとき、「アルプス山脈の向こう側」、つまり「ローマ(バチカン)」を指す言い方。
意味:
ローマ教皇の権威を絶対視し、地方教会(各国の司教団)や世俗権力の干渉を排除しようとする立場。
とにかく「ローマがすべて正しい!」「教皇は絶対!」という思想。
立場の特徴:
ポイント
ウルトラ・モンタニストの立場
教皇権
絶対で至高(無謬説も支持)
国家との関係
教会の独立性を死守(政教分離を警戒)
教義
保守的・伝統的。近代思想に反対
フランスでの主敵
ガリカニスム(地方教会の自立を重んじる考え)
🏛️「ローマ守旧派」とは?
ゾラの小説に登場する ボッカネーラ枢機卿のように、
ローマに住み、
社会の変化(自由主義、近代科学、世俗化など)に反発し、
教皇庁の伝統と威厳に固執する高位聖職者たち。
いわば「精神的・制度的な中世を21世紀まで延命させたい人たち」とも言えます。
🔥「ウルトラ・モンタニスト的ローマ守旧派」とは?
これらを組み合わせると、こうなります:
ローマ教皇庁の中枢にいて、教皇の絶対的権威を信奉し、近代的な改革や外部からの影響を拒否する、超保守的な聖職者たち。
ボッカネーラ枢機卿のような人物像はまさにこれ。
📜歴史的背景
この思想は、19世紀後半に大きな影響力を持ちました:
1864年:「誤謬表」(Syllabus Errorum)で、自由主義や近代思想をカトリックが全面否定。
1870年:ヴァチカン公会議で「教皇の無謬性」が正式に教義化。
このとき、ウルトラ・モンタニストが大勝利をおさめたとされる。
しかし、これは一方で、教会が近代社会から孤立していくきっかけにもなります。
🐾ねこじい風に言えば……
「ウルトラ・モンタニスト的ローマ守旧派っちゅうのはな、要するに『ローマさえ信じときゃええ!近代化なんぞ魂の堕落じゃ!』ちゅうて、アルプス越えたら文明の終わりって思ってるような、権威ガチガチ信奉者たちのことじゃわい。」
さらに興味があれば、
対立する「ガリカニスム」(フランス的折衷思想)
「近代主義 Modernisme」との抗争(教会内自由派)
なども深掘りできます。まさに知の宗教戦争の時代です!
「エウロペの略奪」が飾られていましたが、これも意味深ですね(-_-;)
返信削除はい、「エウロペの略奪(L’Enlèvement d’Europe)」が飾られているなんて、あまりにも象徴的で不穏ですよね……ゾラの選定センス、なかなか黒いです(笑)。
削除🎨「エウロペの略奪」とは?
ギリシャ神話の有名なエピソードです:
ゼウスが美しいフェニキアの王女エウロペに恋をする。
白い牡牛に化けて彼女の前に現れ、油断させて背中に乗せさせる。
そのまま海を渡ってクレタ島へ連れ去り、犯す。
要するに、神による誘拐と強姦です。
🏛️ この絵が飾られている場所は?
舞台は、ボッカネーラ枢機卿の「謁見の間」——つまり、バチカン貴族の威厳と権力の象徴ともいえる空間。そこに置かれている豪奢なルイ14世様式のテーブルの天板がモザイク画で描いているのが、この「エウロペの略奪」。
🧠 ゾラがこれを描写に使った意味は?
完全に**アイロニー(皮肉)**です。いくつものレイヤーがあります:
① 権力の本質を暗示
美しい少女(無垢な民衆や信者)を誘惑し、連れ去り、征服するゼウス(神のふりをした権力)。
枢機卿や教会が民を導くどころか、欺き、支配する構図を彷彿とさせます。
② 教会の表と裏
表面は絢爛なモザイクと壮麗な家具、つまり格式と伝統。
しかし、テーマは暴力と支配の神話。
→ まさに「美の仮面をかぶった暴力」の隠喩。
③ 「エウロペ=ヨーロッパ」?
この名前自体が「ヨーロッパ」の語源です。
ゼウスが略奪する=ヨーロッパそのものが支配されている、という風刺とも読める。
教皇庁がかつて全ヨーロッパを精神的に支配していた時代への、古びた郷愁と暴力の記憶。
④ 主人公ピエールの状況と重ねて
ピエールもローマに「導かれて」来て、今まさに「取り込まれそう」になっている。
彼もまた“エウロペ”のように、ある力に背後から誘導されているのでは…という暗示。
🐾ねこじい風に言えば……
あれじゃな、教会がどんな顔してても、腹の中じゃ「連れてくのが愛じゃ」言うとるゼウスみたいなもんじゃて……
結局、美と権威と暴力は、よう似とる、っちゅう皮肉じゃな。
ゾラ、恐るべし。
何気ない調度品にも毒と皮肉を仕込んで、空間ごと読者を揺さぶってきますね。