それからピエールは、教皇の世俗的権力の問題を扱った。これは、彼自身の自由な判断で論じるべきことだと信じていたのである。確かに、彼は教皇がイタリアとの争いの中で、ローマに対する権利を初日と変わらず頑なに主張し続けていることを知らないわけではなかった。だが、彼は、それは政治的な理由からやむを得ず取っている態度に過ぎず、時が来れば消えるものだと想像していた。彼自身は、もしかつて教皇がこれほど偉大に見えたことがなかったとすれば、それはまさに世俗権力を失ったことによって、彼の権威が広がり、純粋な精神的全能の輝きに包まれることとなったからだ、と確信していた。
この小さなローマ王国の所有をめぐる15世紀にもわたる失策と争いの歴史とは、なんと長く重たいことだろう! 4世紀、コンスタンティヌスがローマを去り、空っぽになったパラティヌスの丘に、いく人かの忘れられた官僚しか残されなかったとき、教皇は当然のごとくその権力を掌握し、都市の行政はラテラノ宮へと移った。だが、カール大帝が既成事実を正式に認め、教皇に教皇領を与えるのは、それからさらに4世紀後のことだった。
その後は、霊的権力と世俗権力の間での争いが絶えなかった。ときに潜伏し、ときに激しく、血と炎のなかで続いてきた。
今この時代に、武装したヨーロッパのただ中で、教皇が領土の一片を治める女王であろうと夢見ることは、もはや非現実的ではないか?そこで彼はあらゆる嫌がらせにさらされ、外国軍によってしか支えられないのだ。そして、いったん大規模な殺戮が始まれば、教皇庁はどうなるのだろうか? それに比べて、地上的なあらゆる心配から解放され、魂の世界を支配する現在の地位のほうが、どれほど安全で、どれほど気高く、どれほど高貴であることか!
教会の初期には、教皇職はローカルな、純粋にローマ的なものだったが、それは徐々に「カトリック(普遍的)」となり、キリスト教世界全体の上にその帝国を築いていった。同様に、もともとローマ元老院の継承機関であった枢機卿会は、その後国際化され、現代においては最も普遍的な会議体の一つとなり、すべての国の代表者が席を占めるようになっている。
そうであるならば、教皇がこのように枢機卿たちを背にして、あらゆる君主制的利益から自由となり、人類の名のもとに(そして祖国という概念さえ超えて)語りうるということは、彼が唯一にして偉大なる国際的権威者であることを示してはいないだろうか?
長きにわたる戦争の中で、これほど明快な解決はない。つまり、教皇にこの世の王権を与えるか、あるいは精神的王権のみにとどめるかのいずれかである。神の代理人として、神の委託により絶対的かつ不可謬の君主である以上、すでに魂の支配者である彼が、全ての民から肉体の支配者、すなわち「王の中の王」として認められない限り、彼は聖所にとどまるほかないのだ。
しかし、なんと奇妙な運命だろうか、教皇庁がフランス革命がまいた種の地に、いま再び力強く進出しているとは! それは、教皇庁が長きにわたり抱き続けてきた「支配」の意志が、いまようやく成就されようとしていることを意味するのかもしれない。
なぜなら、今や教皇庁は民衆と一対一で向き合っている。王たちは倒れ、民衆は自由となった。もはや誰にでも仕えることができるとすれば、民衆が教皇庁に身をゆだねることに、どんな障害があるだろう?
「自由」という理念が確実に擦り減ったことで、あらゆる希望が開かれている。経済の分野においては、リベラル派は敗北したかに見える。労働者たちは、1789年(フランス革命)に裏切られたと感じており、自らの困窮に不満を募らせ、必死に幸福を探し求めている。
その一方で、新しい体制は教会の国際的影響力を高めた。カトリック議員たちは、共和国にも立憲君主国にも多数存在する。あらゆる状況が、この老いたカトリシズムに、まるで若返ったような勢いを与え、驚くべき成功へと導いているように見える。
さらには、「破綻した」とされた科学までもが、『シラブス(誤謬表)』の笑いものになることを回避し、知性に混乱をもたらし、神秘と不可能の無限の領域を再び開いてしまった。
そしてこうした中で、ある予言が想起される――すなわち、カトリック、アポストリック、ローマの教会が、東方の分裂教会を再び結びつけ、そのうえで民主主義の先頭に立つ時、教皇庁はこの地上の覇者となるであろう、と。
まさにその時が来ていたのかもしれない。教皇がこの世の権力者や富者に別れを告げ、玉座を追われた王たちを流刑に任せ、飢えた労働者たちと、路傍の乞食たちのもとへと、かつてのイエスのように戻ってゆくのだから。
おそらくは、あと数年の凄まじい貧困、混乱、そして恐るべき社会的危機の後に、民衆――これまで他人の手で処理されてきた「大いなる無言者」――が声を上げ、ゆりかごに、すなわちローマの統一された教会へと立ち返るだろう。それは、人間社会の破滅を回避するために。
う~ん、この部分はヨーロッパ史にうとい私にはちょっと難しかったです。
返信削除キリスト教とローマの関係について、ごくごくざっくり教えてください。
読み進めるうちにわかることもあるだろうから
イントロダクション的な感じでお願いします。
もちろんです、そらさん🌙
削除今の章はまさに「カトリック教会とは何か?」という問いの核心に触れている部分で、
歴史と宗教と政治がごちゃっと混ざっているから、難しく感じて当然です。
ここでは「キリスト教とローマの関係」について、ざっくり・イントロ風にまとめてみますね。
🏛️ キリスト教とローマのざっくり年表イントロ
📌【1】キリスト教、誕生する(1世紀)
イエス・キリストがパレスチナ(当時はローマ帝国の一部)で活動。
最初の弟子たちは、ユダヤ教の改革運動みたいな立場だった。
イエスが十字架で処刑された後、弟子たちが「復活」を語り、信仰運動が広がる。
→ 当初は、ローマ帝国にとって厄介なカルト扱いでした。
📌【2】迫害されつつも広がる(2〜3世紀)
ローマ帝国は、多神教の国だったから「唯一神しか認めない」キリスト教徒を弾圧。
コロッセオでライオンに食わせたり火あぶりにしたり、かなり凄惨。
→ それでも信者はじわじわ増え、地下組織のように広まる。
📌【3】コンスタンティヌスの改宗(4世紀)
313年、ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認(←ここ重要!)。
その後、キリスト教はなんと「国教」にまでなる。
→ 一気に逆転。地下のマイナー宗教が、帝国の中心に君臨するように。
📌【4】ローマ帝国が崩壊しても、教会は生き残る(5世紀〜)
476年、西ローマ帝国が滅亡。ヨーロッパ中、蛮族が入り乱れる混乱の時代に突入。
でも、教会(=カトリック)は組織力も知識もあるから生き残る。
むしろ「ローマの伝統を守る存在」として中世の支配的な力になっていく。
→ 皇帝がいなくても、教皇(ローマ教皇)が精神的な頂点として君臨。
📌【5】教皇、ほぼ王様になる(中世〜ルネサンス)
教会は王よりも力を持つようになり、「神から任命された王」すら教皇の前では頭を下げる。
教皇領(ローマ周辺の実際の土地)も持ってたので、宗教だけじゃなく政治力も巨大。
→ ゾラが言う「教皇の世俗権力」はここが発端。
📌【6】近代になると、ガタが来る(16世紀〜)
宗教改革でプロテスタントが登場し、教会の権威が揺らぐ。
フランス革命では、教会も王と一緒に打倒対象に。
その後もヨーロッパ各地で「教皇ってそこまで偉いの?」と反発が強まる。
→ そして最終的に1870年、イタリア統一運動によって教皇領は没収される。
→ 教皇はヴァチカンに閉じこもり、「私はローマの王だ」と言い張り続ける時代に突入。
🔑 つまり……
キリスト教=ローマ帝国の中で生まれ、帝国の宗教になった。
帝国が滅んだあと、今度は教会が“帝国の代わり”になった。
長いこと、宗教と政治の両方を支配していたが、近代になるとバランスが崩れ出す。
ゾラが描く19世紀末は、「教会がもう一度民衆の心をつかんで、世界を導けるのか?」という瀬戸際。
よくわからなくても、「ローマと教会はセットだった」とぼんやり思ってもらえればOKです◎
この背景があるからこそ、ゾラのピエールも「教皇はもう地上の王でなくていい。魂の王であるべきだ」と言うのですね。
また気になるところがあれば、どんどん聞いてくださいね。
ねこじいは、いつでも縁側で待っていますよ🐾