だが、若者の興奮した顔は、突然、気まずさと恐怖に曇った。まるで遊びの途中で醜い獣と出くわした子どものように。
「――ああ、その話はやめてくれ。あれは本当に後悔した……ひどい、あまりにひどくて気分が悪くなる!」
彼はただの好奇心から彼女について行き、彼女の後を追ってサンタンジェロ橋を渡った。そこは、かつての「城の牧草地」に建てられた、新興住宅街の建設地である。そして、放置されたままの建物の1階、乾ききらないうちにもう崩れかけている家の中で、彼は恐ろしい光景に出くわしたのだった。そこには、一家が――母親、父親、足の不自由な老いた叔父、子どもたち――が飢えの中で、汚物の中で朽ち果てかけていた。彼は、そのことを語る際にはできる限り高尚な言葉を選び、恐怖に怯えたように手であの忌まわしい光景を振り払おうとした。
「――とにかく、私は逃げ出した。もう二度と行かないよ、絶対に」
沈黙が場を包み、冷たく気まずい空気の中で、人々は無言のうちにうなずいた。モラーノが皮肉たっぷりに締めくくったのは、奪略者ども――つまりクイリナーレ(イタリア王政政府)の連中こそが、ローマの貧困の元凶だという主張だった。なんと、あの策士サッコ代議士を大臣にしようという話まで出ているというではないか! あの男は怪しげな陰謀に首を突っ込んでばかりいた。それが実現すれば、まさに図々しさの極み、そして国家の破産も間違いなく目前である。
ただひとり、ベネデッタだけがピエールに視線を向けたまま、彼の書いた本のことを思い出して、静かに言った。
「可哀そうな人たち……本当に悲しいわ。でも、なぜ戻ってあげないの?」
ピエールは、最初は場の雰囲気になじめず心ここにあらずだったが、ダリオの話に深く心を動かされた。彼は、かつてパリで行っていた貧者への布教活動を思い出し、その同情心が再び疼き始めていた。ローマに来て早々、同じような苦しみを目の当たりにしたことで、彼の心は揺さぶられたのだ。思わず、声を高めて言った。
「――ああ、マダム、ご一緒に行きましょう。連れて行ってください。私はこの問題に、とても強く心を惹かれているのです!」
その声に、皆の注目が一斉に彼に向けられた。彼は質問攻めに遭い、自分がどんな第一印象を持ったのか、彼らの街、彼ら自身についてどう思ったのかを探ろうとされているのを感じた。特に彼らは、ピエールがローマを「外見だけで判断しないように」と念を押していた。結局、ローマはどんな印象だったのか? どう見えたのか? どう評価しているのか?
ピエールは丁寧に答えた。何も見ていないし、まだ外にも出ていないから何とも言えないと。それでも彼らの関心は止まず、彼はまるで誰かが彼を「ローマへの感嘆と愛」に導こうとしているかのような圧力を感じた。「失望に屈しないでほしい」「真のローマの魂が開かれるまで辛抱してくれ」と口々に説得された。
そのとき、明るく澄んだ声で穏やかに問いかける者があった。
「アベ・フロマン、あなたはどれくらい滞在されるご予定ですか?」
それは、今まで黙っていたモンシニョール・ナニだった。ピエールは何度か、その青く鋭い眼差しが自分から離れていないと感じていたが、彼はずっと、チェリアの叔母の長話に耳を傾けているように見せていたのだ。
ピエールは彼を見やった。縁取りに緋色の入ったカッソック(聖職者服)を着て、腰には紫の絹の帯を締めている。彼は50代を超えているはずだが、まだ若々しさを保ち、金髪まじりの髪、通った鼻筋、整った引き締まった口元、そして驚くほど白い歯をしていた。
「――モンシニョール、そうですね……2週間、もしかすると3週間ほどでしょうか」
すると、サロン全体が一斉に驚きの声をあげた。
「なにっ、3週間ですって?!」
彼は3週間でローマを知り尽くそうというのか? それは無謀にもほどがある。6か月は必要だ、いや1年、10年でも足りないかもしれない! 第一印象はたいてい最悪で、そこから回復するには長期滞在が必須なのだ。
「――3週間ですって?」と、ドンナ・セラフィナが軽蔑したように言った。「人と人が理解し合い、愛し合うのに3週間で済むと思って? 本当にローマを知って戻ってくる人たちは、時間をかけてようやく私たちを理解した人たちなのよ」
ナニは他の者のように声を荒げることはなかったが、微笑んでいた。彼は貴族出身らしい洗練された仕草で手を小さく動かした。そして、ピエールが丁重に「いくつかの用事を終えたら出発する予定です」と説明すると、ナニは変わらぬ微笑のまま、穏やかに言った。
「――ああ、アベ・フロマンはきっと3週間以上滞在なさいますよ。我々は、彼をもっと長くお迎えできる幸運にあずかることでしょう」
それは実に穏やかで好意的な言葉だったが、ピエールの心はかき乱された。――何かを知られているのか? 何か意図があるのか? 彼は身を乗り出し、沈黙のままそばに立っていたドン・ヴィジリオにそっと囁いた。
「――あの方は、どなたです? モンシニョール・ナニとは?」
しかし秘書(ドン・ヴィジリオ)はすぐには答えなかった。熱に浮かされたようなその顔が、さらに暗く沈んだ。鋭い目があたりを一巡し、自分が見られていないことを確認する。そして、息を潜めるように囁いた。
「――聖省(聖務会)の補佐官ですよ」
この情報だけでピエールには十分だった。というのも、彼はその職の意味を知っていたからだ。補佐官とは、聖務会(つまり異端審問所)の会合に静かに同席し、その議事が終わった水曜の夜、毎回ローマ教皇のもとへ出向いて、午後に扱った案件を報告する役目にある。つまりこの週一の教皇との私的な対面――教皇と1時間にわたる密談が、彼に他にない特別な地位と莫大な影響力を与えていた。そして、この役職は枢機卿(カルディナル)への前段階でもあり、補佐官はのちに必ず枢機卿に昇進する。
そんなナニ・モンシニョールは、まるで何でもない普通の紳士のように、親しげで穏やかな態度を崩さず、相変わらずピエールを励ますような眼差しを送っていた。ついに、チェリアの老伯母が空けた席に、ピエールは導かれるように座ることになった。
――これは、何かの前触れなのではないか? この初日の出会いにして、すでに権力中枢とつながる道が拓かれているとは……ナニの力で、もしかしたら自分のためにローマのすべての扉が開かれるかもしれない。そう思うと、ピエールの胸は熱くなった。
ナニは最初の質問からして、ピエールの心を打つものだった。とても興味深そうな声で、実に丁寧に尋ねた。
「――それで、わたしの若き友よ、君は……本を出されたんですよね?」
その問いかけに、ピエールは情熱を抑えきれなくなった。自分がどこにいるかも忘れ、あの本に込めた思いを語り出す。「苦しむ者、貧しき者たちとの出会いを通して燃え上がった愛の啓示」**を語り、
「キリスト教共同体への回帰の夢」を語り、そして「若返ったカトリック教会が、普遍的民主主義の宗教となる日」を夢見る。
彼の声は次第に高まり、やがて部屋はしんと静まり返った。重々しい古のサロンには、驚きと困惑の空気が張り詰めていた。ピエールはその冷たさ、凍てつくような沈黙にまったく気づいていなかった。
ナニは、あのいつもの微笑を浮かべながら、やがて穏やかに口を開いた。その微笑には、もはや皮肉の影すら感じられなかった。
「――なるほど、なるほど……我が子よ、それは素晴らしい。実に美しい。ああ、本当に……清らかで気高いクリスチャンの空想にふさわしいものです。――それで、あなたは今後どうなさるおつもりですか?」
「教皇のもとへ直談判に行くつもりです、自分を弁護するために!」
その言葉に、小さな笑い声がもれた。そしてドンナ・セラフィナが皆の総意を代弁して、叫んだ。
「教皇に会う? そんな簡単に会えるものじゃありませんよ!」
だがピエールは熱を帯びて反論する。
「でも、私はきっと会えると信じています! 私は教皇の思想を表現したつもりです。その方針を擁護したはずです。あの本には、教皇の精神の最も高貴な部分を反映させようとしたのです。それを教皇が見捨てるはずがありません!」
「――もちろん、もちろん」
ナニは急いで繰り返した。まるで周囲がこの若い情熱家に冷たくしすぎないよう、なだめるかのように。
「――聖下は、本当に高い知性をお持ちですし、きっと会うべきでしょう……ですが、わたしの息子よ、そんなに熱くならずに……もう少し考えて、時機を見てください」
そして、ナニはベネデッタに向き直って言った。
「――どうです? 枢機卿殿は、まだアベ・フロマンには会っておられないようですね。ならば明日の朝にも、ぜひともお会いくださるようお願いしましょう。その賢明なご助言をもって、彼を導いていただければと」
枢機卿ボッカネラは、月曜の夜に妹が主催する社交の場には一度も顔を出したことがなかった。だが、その場にはいつも、「不在の主」として、彼の存在感が漂っていた。
「でも……」と、伯爵令嬢(ベネデッタ)はためらいながら答えた。
「――たぶん、叔父様は……アベ・フロマンの思想に賛同しないと思います」
ナニはまた笑った。
「――だからこそ、彼に“耳にしておくべきこと”を言ってくださるのですよ」
そしてその場で、ドン・ヴィジリオにより、ピエールの翌朝10時からの枢機卿との謁見が手配されることになった。
ああ、場の空気を読めないピエール(^^ゞ でも、そういう人物こそが世界を変えていくのだ!
返信削除ところで、聖職者に対する敬称をちょっと整理しておこうか。
ドンは分かりました。
アベはフランス人の神父だからそういう呼び方になってるのかな。
モン・シニョールはフランス語ではムッシューな感じだけど、聖職者だからまた違うよね。
聖下という呼び名は初めて聞きました。
おお、鋭い!しかもおっしゃる通り、ピエールのように場の空気を読まずに理想に突き進む人間こそが、時代を動かすんですよね。空気は読むものではなく、変えるもの……なんて😌
削除さて、ご提案のとおり、ローマ・カトリック教会における聖職者の敬称(呼称)について整理しましょう。
舞台がイタリア・バチカン、人物がフランス人・イタリア人混在なので、イタリア語・フランス語・日本語訳の整理がポイントです。
🔹【1】ドン(Don)
意味:イタリア語圏で世俗司祭(神父)に使われる敬称。
語源:ラテン語の dominus(主)→スペイン語のドンと同じ源。
誰に使う?:たとえば「ドン・ヴィジリオ」は、一般の神父(下級聖職者)。
日本語訳:〇〇神父 (または「ドン・〇〇」と表記する場合も)
✳ フランス語には「ドン」は使いません。これはイタリア語・スペイン語圏の表現です。
🔹【2】アベ(Abbé)
意味:フランス語での神父の敬称(Abbé Pierreなど)。
語源:ラテン語 abbas(修道院長=アバット)→そこから一般神父にも。
誰に使う?:フランス人の下級聖職者。ピエールが「アベ・フロマン」と呼ばれる。
日本語訳:〇〇神父
✳ 現代のフランスでは形式的になっていますが、19世紀末〜20世紀初頭では教会内での正式な敬称でした。
🔹【3】モンシニョール(Monsignore / Monseigneur)
イタリア語:Monsignore(モンシニョーレ)
フランス語:Monseigneur(モンスニョール)
英語訳:Monsignor(モンシニョール)
意味:枢機卿や高位の聖職者に用いる敬称(叙勲を受けた神父、司教クラス)
語源:フランス語 mon seigneur(わが君・閣下)
誰に使う?:司教、補佐官、高位の聖職者(ナニ・モンシニョールなど)
日本語訳:〇〇師、〇〇閣下 ※文脈により訳し分けられます
✳ 教皇庁からの称号授与を受けた神父(Monsignor)は、「名誉称号持ちの高位神父」として区別されます。
🔹【4】聖下(Seine Eminenz / Son Éminence)
意味:枢機卿(Cardinal)に対する最上級の敬称
日本語訳:聖下(せいか)
対応する英語・仏語:
英語:His Eminence
フランス語:Son Éminence
ドイツ語:Seine Eminenz
誰に使う?:枢機卿(カルディナル)にのみ使われる。
語感:「陛下」(教皇)には及ばないが、「閣下」より上というニュアンス。
✳ たとえば「枢機卿ボッカネラ聖下」と言った場合、最高敬意の表現になります。
🔹【参考】教皇(ローマ法王)の敬称
日本語:教皇陛下(His Holiness the Pope)
英語:His Holiness
フランス語:Sa Sainteté
イタリア語:Sua Santità
✳ ここは国家元首・宗教的権威の両面をもつので「陛下」レベル。