その日はそれ以上話そうとせず、ドン・ヴィジリオは震えるような身ぶりで部屋を出ていった。そして、通路の左右を不安そうに見回しながら、炎のような黒い目であたりを探るようにして去っていった。ピエールはすぐに外出し、サングイネッティ枢機卿を訪ねることにした。時刻は午前10時。まだ面会できるかもしれない。
サングイネッティ枢機卿は、サン・ルイ・デ・フランセーズ教会(フランス人の守護聖ルイに捧げられた教会)のそば、暗く狭い路地に面した小さな館の一階に住んでいた。そこは、ボッカネーラ枢機卿のように、王侯のような威厳と哀感をたたえた廃墟じみた大宮殿ではない。格式ばった儀礼のための部屋は縮小され、従者も減り、豪奢とは無縁の、いわば小市民的に改装された館であった。
玉座の間もなく、赤い大帽が天蓋の下に吊されることもなく、教皇が訪れる際に用いる肘掛け椅子も、壁際に裏返されたまま置かれていた。連続する二つの前室と、謁見のための応接間があるだけ。しかもそこには豪華さの影もなく、快適さすらない。家具は古びたマホガニー製、ナポレオン帝政期の名残。壁掛けも絨毯も、使い古され、ほこりにくすんで色あせていた。
ピエールはしばらく呼鈴を鳴らし続けなければならなかった。ようやく現れた召使は、ゆっくりと上着を着ながら扉をわずかに開け、ぶっきらぼうに答えた。
「ご高位の閣下は昨日からフラスカーティへお出ましでございます。」
そのときピエールは思い出した。サングイネッティ枢機卿はたしか郊外教区司教の一人で、フラスカーティには司教座聖堂と別荘を持っていたのだ。時折、静養や政治的配慮のため、そこへ滞在することがあると聞いていた。
「ご高位は、まもなくお戻りになりますか?」
「さあ、それが……。ご体調がすぐれませぬゆえ、どなたも煩わせるなとのお言葉でございます。」
ピエールは街へ出てから、さすがに落胆を隠せなかった。最初の訪問からつまずくとは。せっかく今こそ行動を起こすべきときなのに、どうするべきか。
すぐにフォルナーロ師(自分の著書の審査を担当している報告官)を訪ねようかとも思ったが、ドン・ヴィジリオの忠告を思い出した。
「まず枢機卿たちを訪ねよ」と。
そのとき、ふとひらめいた。月曜のセラフィナ夫人の茶会で知り合った、サルノ枢機卿を訪ねてみよう。あの沈黙を守る人物は、枢機卿団の中でもっとも権力と畏怖を集める一人とされている。もっとも、甥のナルシスは「伯父上は日常の務め以外のことになると、まるで石像のように鈍い」と言っていたが。彼が検閲会(教書目録審議会)のメンバーでなくとも、助言をもらい、その影響力で何らかの後押しを得られるかもしれない。
ピエールはそのままプロパガンダ宮殿(聖コングレガツィオーネ・デ・プロパガンダ・フィーデ)へ向かった。その重厚な外壁はスペイン広場からも見える。巨大で装飾を排した構造物で、二つの通りを挟む角地を丸ごと占めている。
しかし、彼のたどたどしいイタリア語では、建物の中で迷うばかりだった。何度も階段を上り下りし、廊下を抜け、扉をくぐり抜ける。まるで石造の迷路。
ようやく幸運にも、サルノ枢機卿の秘書と出会うことができた。それは以前、ボッカネーラ宮で顔を合わせた、愛想のよい若い司祭だった。
「もちろんです。ご高位はちょうど今おられます。この時間にいらしたのは実に良いタイミングです。枢機卿は毎朝ここにお出ましですから……。どうぞお付き添いください。」
それからまた、小さな旅が始まった。サルノ枢機卿は長く布教省の秘書を務め、今では枢機卿として、ヨーロッパ・アフリカ・アメリカ・オセアニアなど新たにカトリックへ改宗した地域の典礼を監督する委員会を統べていた。そのため、宮殿の中に執務室と職員たちの部屋を持ち、そこでまるで帳簿の上に一生を閉じた官僚のように、黒革の椅子に沈み込んで老いていった。外の世界といえば、窓の下を行き交う人馬を眺めることだけ。
薄暗い廊下の突き当たりで、秘書はピエールに言った。昼間でもガス灯をともす必要があるような場所だった。
「しばらくこちらでお待ちください。」
ピエールは長椅子に腰を下ろし、15分ほど待たされた。やがて、秘書が軽い足取りで戻ってきて、穏やかに告げた。
「ご高位はただいま宣教に向かう修道士たちとの会議中です。もうすぐ終わりますので、先に執務室でお待ちくださいとのことです。」
ピエールが一人になってから、部屋の中を興味深く見回した。広さはあるが、華美さのかけらもない。緑の壁紙が張られ、黒檀の家具には同じく緑のダマスク織が張られている。窓は二つ。細い裏通りに面しており、陰鬱な光が壁と床を鈍く照らしていた。机は黒い木製の簡素なもので、表面のモロッコ革はすり切れ、さらに山のような書類と文書で埋もれている。使い込まれて潰れた肘掛け椅子、風を防ぐための古びた衝立、インクの飛び散った硯。ピエールはそれをひとつひとつ見つめ、ため息をついた。
やがて彼は息苦しさを覚え始めた。空気は重く淀み、死んだような静けさが支配している。外からわずかに、馬車の車輪の鈍い響きだけが、遠くにくぐもって聞こえてきた。
そのとき、ピエールは部屋の中をゆっくり歩こうと決め、何気なく歩み寄った壁に掛けられた一枚の地図に目を留めた。それは彼の思考を占領し、心を圧倒し、あらゆる雑念を吹き飛ばしてしまうほどの力をもっていた。それは彩色された「カトリック世界地図」――すなわち地球全図であり、赤や黄、緑で塗り分けられた地域が、カトリック教がすでに支配している地、いまだ異教と闘っている地、そしてそれらの地が教会制度のうえでどのように「代牧区」や「宣教区」として組織されているかを示していた。
まさにこの地図は、カトリックが千年以上にわたって続けてきた努力そのものを、図像として描いたものではないか――ピエールはそう感じた。世界のあらゆる地域をキリスト教化しようというその永遠の意志、創世以来の征服の夢。それがこの地図の上に広がっていた。
「神はこの世界を教会に与え給うた。しかし、誤謬がなおも支配を主張する以上、教会はそれを実際に手に入れなければならぬのだ。」
――その理念のもとに、教会は永遠に戦い続けてきた。異教徒から魂を奪い返し、諸民族を神の王国へと導く戦いを。それは、ペテロとパウロの時代となんら変わらぬ戦いだった。
中世においてはまず、征服されたヨーロッパの組織化が課題であった。東方正教会との和解は試みすらされなかった。その後、宗教改革が起こり、さらなる分裂が加わった。ヨーロッパの半分と東方正教圏を再び奪還せねばならなかった。しかし、新大陸の発見とともに、教会の戦闘的な情熱は再燃する。ローマは世界のもう一つの半面を自らのものにしようと願い、宣教師たちを派遣した。昨日まで存在すら知らなかった民が、今日には神の子として従属させられてゆく。
こうして現在のキリスト教世界の大きな区分が形成された――すなわち、一方にはカトリック諸国、すでに信仰が根づき、ただ維持を要する地域。そこはヴァチカンの国務省が統括していた。 他方には、異端や異教の地。そこを再び羊の囲いに連れ戻し、あるいは改宗させる使命を担っていたのが「プロパガンダ布教聖省」であった。
そのうえ、この巨大な布教機構自体も二部に分かれていた。一つは東方教会を対象とする「東方部門」。もう一つは、残るすべての地域を掌握する「ラテン部門」。まさに、地球という網の目のすべてを覆い尽くそうとする、強靭かつ綿密な征服組織であった。
ピエールはその地図の前に立ちながら、はじめてこの「巨大な機構」を明確に感じ取った――それは人類を包み込み、吸収するために、何世紀にもわたって稼働してきた一つの機械。
法王たちによって豊富な資金を与えられ、莫大な予算を自由に操るこのプロパガンダ聖省は、まさに「教皇の中のもう一人の教皇」であるように思われた。その長たる枢機卿が「赤い教皇」と呼ばれる理由も、今ならよく分かる。彼の手は地球の果てまで届き、征服と支配のために働く――それほどの権能をもつ者なのだ。一方、ヴァチカン国務長官が握るのはヨーロッパの中核というわずかな領域にすぎないが、この枢機卿が指揮するのは、他のすべて――無限の空間、未知の大地、未だ救われぬ魂。
そして、数字が物語っていた。ローマの確実な支配下にあるカトリック信徒は、ようやく2億数千万。だが、東方正教徒やプロテスタントを加えた「離反したキリスト教徒」はそれを上回り、さらに――なんと!――未改宗の異教徒は10億にも及ぶのだ。
ピエールは戦慄した。ユダヤ教徒およそ500万、ムスリム2億、ヒンドゥー教・仏教徒7億、その他の異教徒1億。合計すれば10億――それに対してキリスト教徒は4億にすぎず、そのうち半分はローマと敵対している。キリストが18世紀を経てもなお、人類の3分の1すら獲得していない――
ローマが服従させたのは、人類の6分の1に過ぎないとは! 「6人のうち1人だけが救われた」――その比率の恐ろしさに、ピエールは身震いした。
地図は無言にして残酷だった。ローマの支配を示す赤い色は、他の神々の黄の海の中に、ほんの一点のようにしか見えなかった。この黄をすべて赤に染め上げるには、いったい何世紀を要するのだろうか? キリストの約束が成就し、全地がその法に服する日まで。宗教的社会が世俗の社会を再び覆い、世界がただひとつの信仰と王国に統合されるまで。
それを思うと、ピエールは愕然とした。ローマは今なお落ち着き払っている――何世紀でもかけてこの壮大な事業を成し遂げるという、ゆるぎない確信を抱いたまま。司教や宣教師を通じて、飽くことなく世界を覆い続ける。あたかも微細な生命が無限の時間をかけて大地を形づくったように、教会もまた、確信に満ちて――「いつか必ず、我らが地上の支配者となる」と信じて――働き続けている。
ああ、この絶え間なく進軍する軍勢を、今まさに彼は見、耳にしていた。海を越え、大陸を横断し、政治的征服を「信仰の名において」準備している軍勢を。
ナリスから聞いた話が思い出された。各国の大使館が、ローマのプロパガンダの動向をどれほど注意深く監視していることか。なぜなら宣教団は、しばしば国家の手先として働く――霊的征服が、やがて物理的征服へとつながるからである。霊の支配が肉体をも従わせるのだ。
それゆえ、各国間の対立は絶えなかった。聖省は常に、自国イタリアあるいは友好国の宣教師を優遇し、フランスの宣教団を警戒して妨害する。リヨンに本部を置く「信仰布教会」(Propagation de la foi)は豊かで力強く、勇敢な人材に恵まれていたが、ローマはしばしばこれを抑圧し、時にはその宣教師を追放して、イタリア人やドイツ人に取って代えさせた。
――今ピエールが立っているこの暗く埃っぽい執務室の奥で、太陽の光すら届かぬ場所で、そうした「信仰の名を借りた政治的陰謀」が脈々と動いているのだ。
そして、彼を襲ったあの戦慄がふたたび背を走った。それは、知っていたはずの事実が、ある瞬間に突如として怪物のように姿を現す――そんな戦慄であった。
人間を震え上がらせるほどの征服装置――永遠の時間と空間にまたがって動く、支配の機構――それは魂の救済を超え、全人類の統一支配を目指していた。そして、まだ完全に取り込めぬ人々を、暫定的に世俗の権力へ預けているにすぎぬのだ。
なんという途方もない夢! ローマが微笑みながら待ち構えている――いつか、2億のムスリムも、7億のヒンドゥーや仏教徒もみな吸収され、地上がただ一つの民となり、ローマがその精神的・世俗的な女王となるその日を――キリストの名のもとに、勝利の光が世界を覆うその時を。
――そのとき、咳払いの音がしてピエールは振り返った。枢機卿サルノが立っていた。彼が入室した気配をまったく感じなかったのだ。ピエールはたちまち顔を赤らめた。まるで秘密を覗き見しているところを見つかったような、罪の意識に襲われて。
プロパガンダっていう言葉は現代ではもっぱら政治の世界で使われていますが、そもそもは布教のことなのですか?
返信削除キリスト教会は全人類キリスト教徒化の目標を現代でも持ち続けているのでしょうか?
聖書にそれは必須のことと書かれているんでしたっけ?
とても鋭い質問です、そらさん。まさに「プロパガンダ」という言葉の根源を突かれていますね。
削除🌿「プロパガンダ」という言葉の本来の意味
語源をたどると、「プロパガンダ(propaganda)」は
ラテン語の propagare(=「広げる」「繁殖させる」)に由来します。
つまり、もともとは「信仰を広める」「教義を布教する」という意味でした。
実際、この語を制度的に初めて用いたのはローマ・カトリック教会です。
1622年、教皇グレゴリウス15世が布教行政を担当する組織として
「Congregatio de Propaganda Fide(信仰宣教省)」
を設立しました。
これが「プロパガンダ」という言葉の起源。
つまり、最初は純然たる宗教用語だったのです。
✝️ 全人類キリスト教徒化の目標は今もあるのか?
はい、理論上(教義的には)あります。
新約聖書の中で、イエス自身が弟子たちに命じています。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」
(マタイによる福音書28章19節)
この言葉は「大宣教命令(the Great Commission)」と呼ばれ、
キリスト教の布教活動の神学的根拠になっています。
つまり、信仰を全人類に伝えることは、
教義上「義務」であり、「愛の実践」とされているのです。
(ただし「強制的改宗」は、現代カトリックでは明確に否定されています。)
🌍 現代のカトリックにおける立場
第2バチカン公会議(1962–65)以降、カトリック教会は
「他宗教との対話」や「信仰の自由」を重視するようになりました。
つまり、
すべての人が救いに招かれている
その中には、キリスト教徒以外も含まれる
という包摂的な考え方へとシフトしています。
したがって現在の教会は、
「全人類をキリスト教徒にせねばならぬ」というよりも、
「全人類に福音を届け、自由意志に委ねる」
という姿勢に変わっています。
🕊️ 現代的な「プロパガンダ」とのずれ
20世紀以降、「プロパガンダ」は
国家や政党による大衆操作・思想統制の手段を指すようになりました。
とくにナチスやソ連による宣伝活動の影響で、
言葉そのものが「操作的」「悪意ある印象操作」という意味に変質したのです。