2025年3月1日土曜日

ルルド 第60回

  それでも、この若者は正しいのだ。信仰に触れる者にはいつでも噛みつくように、歯をむき出しにしていたが――ピエールはそんな彼を、共感を込めて見つめた。この検証局の仕事は、実際にはずさんでありながら、そもそも不要なのではないか。敬虔な信者にとっては侮辱的であり、不信者にとっては説得力を持たない。そもそも奇跡は証明できるものなのか? それは信じるものであり、神が介入した瞬間から理解の及ばぬ領域に入る。本当に信仰が生きていた時代には、科学が神の説明に立ち入ることはなかった。では、ここで科学は何をしているのか? それは信仰の妨げとなり、自らの権威を貶めるだけではないか。違う、違う! ただひれ伏し、大地に口づけ、信じるのだ。それができないのなら、立ち去るしかない。妥協の余地など、どこにもないのだ。ひとたび検証が始まれば、それは疑念へと繋がり、最終的には疑いを生むしかない。

 しかし、ピエールが何より苦しんでいたのは、ここで耳にする異様な会話の数々だった。部屋にいる信者たちは、奇跡について驚くほど平然と話していた。どんなに信じがたい出来事でも、彼らは静謐な心で受け止めるのだ。 「また一つ奇跡が起こった」「また一つ奇跡が起こった!」——彼らは正気とは思えない話を微笑みながら語り合い、その中に理性の抗議の声は一切なかった。彼らは明らかに、幻視の熱に浮かされたような世界に生きていた。もはや何を聞いても驚かないのだ。

 しかも、それは単なる無学な者や、子どものように純粋な者、ラボワンのような狂信者に限ったことではなかった。そこには知識人や学者までもがいた。ボナミ医師や他の医師たちも、その輪の中にいたのだ。 これは想像を絶することだった。

 ピエールは次第に強い嫌悪感と、込み上げるような怒りを感じ始めた。このままでは、いずれ爆発してしまうだろう。彼の理性は、まるで水の中に投げ込まれた哀れな生き物のようにもがき苦しみ、四方八方から押し寄せる信仰の波に呑み込まれ、窒息しそうだった。そして、彼は思った。シャセーニュ医師のように、盲目的な信仰へと沈んでいく者たちも、最初はこの苦しみと闘いを経験するのではないか。 やがて、この苦しみは頂点に達し、最終的にはすべてが崩れ落ち、完全なる沈没へと至るのだ、と。

 ピエールはシャセーニュ医師を見つめた。彼の顔には限りない悲しみが滲んでいた。運命に打ちのめされ、まるで泣きじゃくる幼子のように弱々しく、もはやこの世界に独りぼっちであるかのようだった。

 だが、それでもピエールは、込み上げてくる抗議の声を抑えきることができなかった。

——「違う、違う! たとえすべてを知ることができなくとも、たとえ何ひとつ完全には解明できぬままであろうとも、それが学ぶことをやめる理由にはならない! 何がわからないかを理由に、未知なるものをそのまま放置するのは悪しきことだ。それどころか、我々の果てしなき希望こそが、いつか不可解なものを解明することにあるのではないか。未知へと歩みを進め、理性の力で一歩ずつ勝利を積み重ねていくこと、それこそが我々の唯一健全な理想なのだ。たとえ肉体が弱く、知性が愚かであろうとも……」

 ピエールは息を詰め、続けた。

——「ああ、理性よ! 私を苦しめるのもおまえだが、私に力を与えるのもまたおまえだ! 理性が滅びるとき、人は完全に滅びるのだ。たとえ幸福を犠牲にしようとも、私は理性を満たすことを渇望せずにはいられない!」

 その言葉を聞いたシャセーニュ医師の瞳に、涙が浮かんだ。きっと、亡き妻や娘の思い出が心をよぎったのだろう。やがて、彼もまた低く呟いた。

——「理性……そうだ、確かに、それは偉大な誇りだ。生きることの尊厳そのものだ…… だがな、愛こそが、命にすべての力を与えるのだよ。もし失ってしまったなら、それこそが唯一、取り戻すべきものなのだ……」

 彼の声は、抑えきれぬ嗚咽にかき消された。

 そして彼は、机の上に無意識のうちに積まれた書類の束をめくり始めた。そのとき、一枚の書類が目に留まった。そこには、「マリー・ド・ゲルサン」の名が、大きな文字で記されていた。

 彼は封を開き、二人の医師が署名した診断書を読んだ。それは、脊髄麻痺の確定診断だった。

 しばし沈黙の後、彼は静かに言った。

——「聞きたまえ、ピエール。君が、マリー・ド・ゲルサン嬢に強い愛情を抱いていることは、私にもわかっている……もし、彼女がここで治ったとしたら、君はどう思う?」

 彼は書類を示しながら続けた。

——「ほら、ここに証拠がある。この診断書に署名したのは、名の知れた立派な医師たちだ。君も知っているだろう? この種の麻痺は治るはずがない。 だが、それでもし、この若い娘が突然、駆け出し、跳びはねるようになったとしたら? 私がこれまでに何度も目にしてきたように……」

 シャセーニュ医師はピエールの瞳を見つめ、問いかける。

——「君は、そのとき、ついに認めるのではないか? 超自然の力の介在を。」

 ピエールは返答しようとしたが、そのとき、彼の従兄であるボークレール医師の診察を思い出した。彼が予言した奇跡――雷に打たれたような衝撃、突如として訪れる覚醒、そして全身を貫く激しい高揚感。それを思い出すと、ピエールの胸の内にざわめきが広がり、言葉に詰まった。結局、彼はただこう言うにとどまった。
「確かに、とても嬉しいことですね……。そして、あなたと同じ考えです。おそらく、この世のあらゆる騒動の根底にあるのは、幸福を望む意志にほかならないのでしょう。」

 しかし、もはや彼はそこに留まることができなかった。暑さはますます酷くなり、汗が顔をつたって流れ落ちていた。ボナミー医師が神学校生の一人にグリヴォットの診察結果を口述していた。その横でダルジェル司祭は記録された言葉を注意深く見守り、時折、彼の耳元でそっと囁いて表現を修正させていた。その間にも、周囲は混乱に包まれていた。医師たちの議論は次第に逸れ、特定の症例にはまったく関係のない専門的な論点へと移行していた。その場の空気はますます重くなり、木板で囲まれた空間の中で呼吸をするのも苦しくなってきた。吐き気が人々の心と頭を揺さぶり、気分を悪くする者も出始めていた。パリから来た、影響力を持つ文筆家の小柄な金髪の紳士は、結局「本物の奇跡」を目撃できなかったことに不満を覚え、その場を立ち去ってしまった。

 ピエールはシャセーニュ医師に言った。
「外へ出ましょう。もう限界です。」

 彼らはちょうどグリヴォットが診察所を後にするのと同時に外へ出た。すると、途端に押し寄せる群衆の波に飲み込まれそうになった。人々は彼女をひと目見ようと押し寄せ、歓声を上げながら押し合いへし合いしていた。どうやら「奇跡」の報せはすでに広まっていたらしく、誰もが癒やされた女性に近づき、話を聞き、触れようと必死だった。そんな喧騒の中、グリヴォットは頬を真っ赤に染め、燃えるような瞳を輝かせながら、舞うような仕草でただ繰り返した。
「治ったわ……私は治ったの!」

 彼女の声は歓声にかき消され、群衆の中に呑み込まれて見えなくなった。まるで波間に沈んでしまったかのようだった。しかし次の瞬間、彼女は突如として姿を現した。それも、ピエールとシャセーニュ医師のすぐそばで、人の波をかき分けながら進んでいた。

 そのとき、彼らは「コマンドゥール」(勲爵士)と呼ばれる老人の姿を見つけた。彼には、しばしばプールや洞窟に足を運び、そこで怒りを爆発させるという奇妙な癖があった。軍人のように体を締め上げた黒い上着に身を包み、銀の頭飾りがついた杖をしっかりと握っていた。彼は左脚を少し引きずっていた。二度目の発作の後遺症で、麻痺が少し残っていたのだ。そして今、彼の顔は真っ赤に染まり、目は怒りの炎を燃やしていた。

 ちょうどそのとき、グリヴォットが彼を押しのけて通ろうとしながら、興奮に満ちた群衆の歓声の中で繰り返した。
「治ったの! 私は治ったの!」

 すると突然、彼は怒りに駆られ、激しい口調で叫んだ。
「なんということだ! お前なんかに治ってしまわれて、こっちはたまったものではない!」

2 件のコメント:

  1. 理性・奇跡・愛。そのはざまで悩むピエール。しかし、理性と愛は対立するものではないはず。ここでいう

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    1. 「理性と愛」が対立するものではないはず——まさにそこが、ピエールの葛藤の核心ですね。彼は理性的な思考を持つ無神論者として、奇跡というものを受け入れることができない。しかし、同時に彼の心には深い愛がある。それは、病める者、苦しむ者への共感であり、とりわけマリーへの愛情です。

      ここでいう「理性」とは、科学的懐疑、論理、証拠に基づく世界観のことでしょう。一方、「愛」は、情熱、共感、そして人間の持つ深い情緒的つながりです。ピエールにとって、奇跡は理性に反する。しかし、それを信じることで人々が救われるならば、果たしてそれを否定することが正しいのか——この問いに彼は揺れ動いています。

      この状況でピエールが直面するのは、「奇跡」への態度をどうするか、という問題だけではありません。それは彼自身の内なる変化、つまり「理性」と「愛」が対立するのではなく、むしろ補い合うものではないかという気づきに至る過程でもあるのです。

      このあたりのピエールの内的葛藤をどう表現していくか、翻訳にも工夫が必要ですね。

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