数秒の沈黙が流れた。マルトは首筋の奥に冷たい息を感じた――髪の根元まで凍らせるような、異様な気配だった。
「ねえ、奥さま、見て……!」
マルトの言葉に、サバティエ夫人は不安げに顔をこわばらせたが、何も気づかぬふりを装った。
「なに、どうしたの、娘さん?」
「兄さん、見てください……! 動かないの。口を開けたきり、もう、ずっと……」
そのとき、二人は同時に戦慄した。間違いない――イジドールは息を引き取ったのだ。あえぎもせず、ひと吹きの息さえなく、静かに逝った。命は彼の目から去っていった――あの愛に満ちた、情熱で燃え尽きそうなまなざしから。彼は聖母を見つめたまま逝った。その死には、ほかに比べるもののない優しさがあり、彼のまなざしは死んだあとまでも、至福の光をたたえて聖母を見つめ続けていた。
「目を閉じさせてあげて……そうすれば分かるわ」
サバティエ夫人が低くつぶやいた。
マルトは立ち上がり、周囲の目に触れぬよう身をかがめて、震える指先で兄のまぶたを閉じようとした。だが、閉じたはずのまぶたは、何度やってもまた開き、まるで意志を持ったかのように聖母を見つめ返すのだった。
彼はもう死んでいた――それでも、その目を閉じることはできなかった。無限の恍惚に沈んだ、見開かれたままのまなざし。
「……もう終わったの、ほんとうに……終わったんです、奥さま」
マルトはかすれた声でそう言い、重たく垂れたまぶたの下から、大粒の涙をふたつこぼした。サバティエ夫人はそっと彼女の手を握り、黙らせようとした。すでに人々の間にさざ波のようなささやきが走り、不安が伝染しはじめていた。
けれど、こんな混雑のなかで――ましてや祈りの最中に――遺体を運び出すなど、あまりにも衝撃が大きすぎた。ここは、しばらくこのままにしておくのが賢明だった。彼は今も以前と変わらず、周囲の誰にも違和感を与えていない。むしろ、人々はこう思ったに違いない――燃えるようなそのまなざしは、今も生きていて、聖母の慈悲を必死に求めているのだ、と。
近くにいた人々のうち、ごくわずかだけが真実を察していた。サバティエ氏は驚きに顔を強ばらせ、身振りで妻に問いかけた。妻の静かなうなずきに、彼は何も言わず祈りに戻った。命を乞うているのに、神がもたらしたのは死――その神秘的な力に、彼はただ蒼ざめながら従うしかなかった。
ヴィニュロン一家は、あたかも街角で事故でも見たかのように、身を乗り出してはひそひそと囁き合っていた。父ヴィニュロンがよく家に持ち帰る「事件ものの小話」みたいに、今夜はこの出来事で盛り上がるのだろう。
ジョスール夫人は静かに身を翻し、ディユラフェ氏の耳元に一言ささやいた。だが、二人はすぐにまた、愛しい病人への痛ましいまなざしに戻っていった。
ユダイン神父はヴィニュロン氏の知らせで気づき、そっと跪くと、深い感情を込めて、死者のための祈りを口にした。
――この宣教師は、まさしく聖人なのではないか。
死を宿したまま殺伐たる地から帰り、このルルドで、聖母のほほえみのもとで息絶えたのだから。
マーズ夫人はというと、死へのあこがれにとらわれていた。もし天が夫を返してくれないのなら、自分もこうして、静かに、そっと死なせてほしい――彼女はそう心に決めていた。
だが、そのとき――
マッシアス神父の叫びが再び上がり、今度は嗚咽に引き裂かれた絶望の力で、響き渡った。
「ダヴィデの子イエスよ、私は滅びようとしています、どうかお救いを!」
その声に応えるように、群衆もまたすすり泣きながら叫んだ。
「ダヴィデの子イエスよ、私は滅びようとしています、どうかお救いを!」
そして、次々と、執拗なほどに叫びが重なっていく。
「ダヴィデの子イエスよ、あなたの病める子らに憐れみを!」
「ダヴィデの子イエスよ、あなたの病める子らに憐れみを!」
「ダヴィデの子イエスよ、来たれ、彼らを癒し、命を与えたまえ!」
「ダヴィデの子イエスよ、来たれ、彼らを癒し、命を与えたまえ!」
――世界の絶望が、声をひとつにして、天に向かって泣き叫んでいた。
それはもう、狂気の沙汰だった。説教壇の下に立つフルカード神父でさえ、群衆の胸からあふれ出た異様な情熱に飲み込まれ、両腕を天に掲げ、雷のような声で叫び出した。まさに天を力ずくでゆさぶろうとするかのようだった。
熱狂はさらに高まっていった。欲望の嵐が吹きすさび、群衆を根こそぎしならせる。遠く、ガーヴ川の欄干に座る、ただの物見遊山の若い女性たちにまでその熱気は届いて、彼女たちは日傘の下で青ざめていた。この惨めな人間たちは、苦しみという奈落の底から叫びを放ち、その叫びはすべてのうなじをぞくりと震わせて過ぎていった。そしてもはやそこには、死を拒み、神の意思をねじ伏せてでも永遠の命を得ようとする、ひとつの“死にかけた民”しかなかった。
――ああ、生きたい、生きたい!
あの不幸な者たち、瀕死の者たちは、数多の障害を越えて遠くからやって来た。そして彼らが求めていたのは、ただ“生”のみ。今このときを生きること、それを繰り返すこと――それだけが、彼らの狂おしい願いだった。
――ああ、主よ、どんなに我々が惨めでも、どんなに生きることが苦しくても、癒してください!
我々が再び生きられるようにしてください。再び、かつての苦しみを味わうことになったとしても、それでもいいから!
たとえどんなに不幸であっても、我々は“存在する”ことを望むのです。天国をくださいと言っているのではありません。この地上を――この地を、できるだけ長く、いや、できることなら永遠に離れずにすむようにしてくださいと願っているのです。
そして、もし我々がもはや身体の癒しではなく、精神的な恩寵を乞うているのだとしても、それとて――つまり“幸福”を求めているにすぎません。この唯一の渇きが、我々を内側から焼き尽くしているのです。
――ああ、主よ、どうか我々を幸福にし、健やかにし、生きることを許してください、生きさせてください!
この狂おしい叫び、生に対する凄絶な欲望が、マッシアス神父の口から放たれ、そして人々の胸からは涙とともに溢れ出た。
――おお、主よ、ダビデの子よ、我らの病める者たちを癒してください!
――おお、主よ、ダビデの子よ、我らの病める者たちを癒してください!
ベルトーはすでに二度も飛び出して、群衆が無意識のうちに突き破ろうとするロープを必死に押さえ込まねばならなかった。スイール男爵は絶望的だった。波に飲まれたかのように手を振り回し、誰か助けてくれと身振りで訴えていた。洞窟は人で埋め尽くされ、もはや巡礼の列などという秩序はなく、むしろひとつの情熱へ突き動かされた群れの暴走となっていた。
ジェラールは再びレイモンドのもとを離れ、正門の柵のところへ戻って、自ら入場の規律――「10人ずつ」の原則を取り戻そうとした。だが彼は押し流され、柵の横に追いやられてしまった。
熱に浮かされた群衆、信仰に興奮した人々は、ろうそくの炎が揺れる中を、怒涛のごとく流れ込み、聖母像へと花束や手紙を投げ入れ、岩肌に口づけをした。その岩は、すでに何百万という燃えるような唇によって磨かれていた。それは信仰の奔流だった。止めるものなど、もはや何もなかった。
そのとき、柵に押しつけられていたジェラールの耳に、列に押し流されていた二人の農婦の声が届いた。彼女たちは、目の前に横たわる病人たちの姿に、思わず声を漏らしていた。そのうちの一人が、イジドールの顔――その異様なほど見開かれた大きな目で聖母像を見つめ続ける、あの蒼白な顔――に目を奪われたのだった。彼女は十字を切り、信仰のこもった感嘆の声をもらした。
――ああ、あの人を見てごらんよ。心の底から祈ってる… ノートル=ダム・ド・リュルドを、あんなにも見つめて…!
もう一人の農婦が応えた。
――そりゃ、きっと癒されるに決まってるわ。だって、あんなに美しいもの!
死の静寂の奥から、今なお続いていた“愛と信仰”の行為。その永遠のまなざしによって、死者はすべての人の心を揺り動かし、祈りの列に尽きることのない感動を与えていたのだった。
神への呼びかけとして、SeigneurだったりJésus, fils de Davidと言っています。
返信削除キリスト教にうとい私にはこの辺がよく分からないのですね。
ざっくり教えてください、ねこじい。
まかせておくれ、シーちゃんのごはん番を務めるねこじいが、キリスト教のざっくり解説をお届けするぞい。
削除この手の宗教的な言葉は、知らんと何がなんだかわからんけど、背景をちょっと押さえると、一気に景色が変わってくるんじゃよ。
🕊️まず、「Seigneur(主よ)」とは誰か?
「Seigneur」は、英語で言うところの「Lord(主)」じゃな。
これは神そのもの、あるいはキリストを指していることが多い。
キリスト教では「三位一体」といって、「父なる神(創造主)」「子なるキリスト(イエス)」「聖霊(神の息)」の三者が一体であるという、ちょっと禅問答めいた教義があるんじゃ。
なので、
祈る相手が「神」でも「イエス」でも、たいてい「Seigneur(主よ)」で通じてしまう。
病気を癒してくれ! 生きさせてくれ!と叫ぶとき、直接「主」に呼びかけてるイメージじゃな。
✝️「Jésus, fils de David(ダビデの子イエス)」とは?
これが少し歴史的な意味を含んでおる。
「ダビデの子」という表現は、
旧約聖書の王ダビデ(古代イスラエルの偉大な王)をルーツに持つ者、
つまり**メシア(救世主)**の血筋であることを示すタイトルじゃ。
キリスト教の信仰では、
イエスはダビデ王の末裔に生まれ、人々を救うために神によって遣わされたメシアである。
…とされておる。
なので、「イエスよ、ダビデの子よ!」と呼びかけるのは、
あなたこそ私たちを救ってくれる予言されたお方です、
今こそその力で癒してください!
…という、信仰と切望のダブルパンチな呼び方なんじゃ。
ルルドの群衆が「Seigneur!」とか「fils de David!」と叫ぶのは、苦しみの中で**「今こそ神の力を!」**と本気で呼びかけている場面なんじゃよ。
これからもゾラはこういう宗教的な表現をたくさん使ってくるが、「背景には旧約の伝承やカトリック的な祈りの文法がある」と知ってるだけで、ずいぶん読みやすくなるぞい。
もっと深掘りして知りたい用語が出てきたら、またなんでも聞いておくれ。
ねこじいは今日も、ひなたでごろりとしながら、シーちゃんと一緒に待っておるぞ。
イジドールは死してなお人々を信仰へ導く役割を果たしていたわけですね。
返信削除彼の登場する場面はごく僅かでしたが、非常に鮮烈な印象を残してくれました。
ゾラ作品にはこういう人物、いたりするんだよね。
そう、それ!まさにそこがゾラの巧さであり、残酷さでもあり、文学としての深みじゃよなあ。
削除イジドールのように**「物語の中心ではないが、魂を撃つ存在」**――ゾラの作品には、こうしたキャラクターが時おりひょっこり現れて、読者の胸に「沈黙の叫び」を置いていく。
彼は台詞も少なく、ほとんど動かない。
でもその**“視線の固定”**と、“祈りの姿勢”だけで、まわりの人間たちの内面を揺さぶり、信仰の「証し」として存在してしまっている。
ゾラって、科学的観察を重んじるナチュラリストでありながら、こういう場面では**神話的な美しさや聖性すら描き出す**んじゃよね。
そしてそれがどこか「不安」や「違和感」を伴って読者に残るのがまた、ゾラらしい。
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他の作品にも、似たような“脇役の神々しさ”があるんじゃ。
たとえば:
- 『ジェルミナール』の労働者たちのなかにも、**一瞬だけ登場して希望や信念を象徴する人物**がいたり、
- 『大地』では、**土地に骨を埋める老人**の姿に、自然と人間の宿命が凝縮されていたり。
ゾラの世界では、**小さき者たちが大きな意味を背負う瞬間**があって、それが作品全体の「倫理」や「問い」をより深くするんじゃよ。
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イジドールのあの静かな奇跡――
あれは、「信じる者の顔を持つ死者」が、生きている者すべてに問いかけてくるような、**黙した証言**だったんじゃろうな。
……ねえ、これってもしかして、
ルルドの人々が「奇跡」を求めるなかで、本当の奇跡は「死者の信仰」が生者を動かすことだったのかもしれない……なんて、考えてしまうねえ。
他にも気になったキャラやシーンがあったら、どんどん語ろうぞい。ゾラ沼は、深くて温かい。