やがてピエールのお気に入りの散歩道は、ボッカネーラ宮殿のもう一つの正面にあたる、ティベレ川沿いの新しい堤防になった。彼はただ狭い路地(ヴィコロ)を下っていけば、孤独な場所に出ることができ、そこで目にするすべてのものが、尽きぬ思索を呼び起こした。堤防は未完成で、工事はすっかり放棄されたかのように見えた。広大な工事現場は瓦礫や切石で埋まり、壊れかけた柵や、屋根の崩れ落ちた作業小屋が点在していた。川床は絶えず高まり、一方で連続する発掘で街の地盤は両岸ともに低くなっていたため、洪水から守るには、この巨大な要塞のような護岸の壁に水を閉じ込めるほかなかったのだ。そして古い岸をあまりに高く築き上げた結果、かつてボッカネーラ家の小庭園のテラスの下にあるアーチのもとに、遊覧船を繋いだという二重階段も、今や見下ろすような位置になり、道路工事が仕上げられれば埋められて消え去ってしまう運命にあった。まだ何一つ整地されておらず、土砂は荷馬車が降ろしたままの姿で残り、至る所にぬかるみや崩れ落ちた土砂があった。そんな廃墟のような場所に、哀れな子供たちが遊びに来、失業した労働者が太陽の下で重たげに眠り、女たちは石くれの山にわずかな洗濯物を広げていた。だが、それでもピエールにとっては幸福な避難所であり、確かな安らぎの場所であり、尽きぬ夢想の泉であった。彼はしばしばそこに何時間も佇み、川や堤防、そして向かいの街並みを眺めながら時を忘れるのだった。
朝の8時を過ぎると、金色の陽光がその広々とした空間を満たした。左手に目を向ければ、トラステヴェレの遠い屋根が、灰青色の霞をまといながら澄みわたる空に線を描いていた。右手には、サン=ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ教会の丸い後陣の向こうで、川が曲がり、サント・スピリト病院のポプラ並木が対岸に緑の幕を垂らし、その向こうの地平にはサンタンジェロ城の輪郭が鮮やかに浮かんでいた。だが、何よりもピエールの目を引いたのは正面の対岸であった。そこには古代ローマの一片がそのまま残されていたのだ。シスト橋からサンタンジェロ橋までの右岸一帯は、堤防工事が保留されたままで、やがて完成すれば川を白く巨大な要塞の壁のあいだに閉じ込めるはずの部分であった。だがその遅れのおかげで、古の時代が驚くほど鮮やかに呼び起こされる光景となっていた。教皇のローマ、その古びた街並みの断片である。ルンガラ通り側の家並みは塗り直されてしまっていたが、ここでは川辺にまで迫る家々の裏側が残り、ひび割れ、すすけ、錆にまみれ、灼けつく夏の太陽に古色を帯び、まるで古代の青銅のようであった。
なんと入り組み、なんと信じがたいほどの積み重なりだろう! 下には川が入り込む暗いアーチがあり、杭に支えられた壁があり、古代ローマ時代の建築の一部が垂直に落ち込んでいた。その上には急な階段が崩れかけ、青く苔むして岸辺から立ち上がり、さらにその上には重なり合うテラス、小窓を不規則に穿たれた階、家の上にまた家が載っていた。そしてそこには木造の回廊やバルコニー、庭を横切る渡り廊下、屋根の上に生えたかのような木々、赤い瓦の中に無理やり差し込まれた屋根裏部屋――そんな奇妙な混成が入り乱れていた。正面の石の水路からは下水が轟音を立てて流れ落ちていた。家の裏の隙間からは岸がのぞき、その表面は草や灌木、王のマントのように長く垂れる蔦に覆われていた。だが貧しさも汚れも、太陽の栄光の下では隠されてしまう。歪み、押し合いへし合いする古い家並みは黄金に染まり、窓辺に干された洗濯物は赤いスカートの緋色と、白布の眩しい雪のような輝きとで街を飾っていた。そのさらに高みには、ジャニコロの丘が、糸杉と松の間からサン・オヌフリオ教会の細い輪郭を光の中に浮かび上がらせていた。
しばしばピエールは巨大な堤防の欄干に肘をつき、ティベレ川を眺めながら長い時間を過ごした。胸はふくらみ、過ぎ去った世紀の悲哀でいっぱいになった。老い果てたこの川の疲れ切った水の、沈んだ緩慢な流れを、どのように表せばよいだろうか。それはバビロンの壕のような溝に閉じ込められ、途方もなく高い監獄の壁に囲まれた流れであり、その壁はまっすぐで、滑らかで、飾り気がなく、まだ新しく蒼白い醜さに包まれていた。太陽に照らされれば、黄色い川面は金に輝き、緑や青の波紋を帯びて、かすかな流れの震えにきらめいた。だが一度影に覆われれば、川は不透明になり、泥の色を帯び、あまりに厚く重い老いを背負って、対岸の家々すら映し出さなかった。なんという荒廃、なんという孤独と静寂の川であろう! 冬の雨の後にはときに荒々しく奔流を轟かせることもあったが、長い晴天の月日にはただ眠り込み、声もなくローマを横切っていった。あらゆる無駄な音を拒絶し、すでにすべてに幻滅したかのように。そこに身を乗り出し、丸一日を過ごしても、舟のひとつ、帆のひとつも通らなかった。沿岸から来るわずかな船や、小型の蒸気船、シチリアのワインを運ぶタルターヌ船はすべてアヴェンティーノの麓で止まってしまい、その先には何もなく、死んだ水ばかりで、遠くにぽつりと釣り糸を垂れる漁師が立っているのが見えるだけだった。ピエールが右手の古い岸辺にいつも目にしていたのは、朽ちかけた古代の舟、半ば壊れたノアの方舟のような屋根付きの舟――おそらくは洗濯船であったろう――だが、そこに人影を見たことは一度もなかった。さらに泥の小さな突端には、横腹の裂けた小舟が打ち上げられ、航行の不可能と放棄を象徴するかのように痛ましい姿をさらしていた。ああ、この廃墟のような川よ! あの有名な遺跡と同じほどに死んでしまい、何世紀にもわたってその塵を洗い続け、ついには倦み果てたのだ! そしてこの水が呼び起こすもの、それは幾世紀もの歴史であった。この黄色い流れが映し出してきた数多の出来事、数多の人間たち、その疲れと倦怠を吸い込み、ついには重く、沈黙し、荒涼とし、虚無だけを願うようになってしまったのである。
ねこじいよ! 今日は2025年9月29日。
返信削除何の日かご存じですかね。
そうです、エミール・ゾラの亡くなった日です。
暖炉の不完全燃焼のための事故死ということになっていますが
謀殺されたという説も根強くありますね。
彼はいまフランスのパンテオンに眠る
共和国の英雄であります。
まさに、自由・平等・博愛のために闘ったのですから
それに値することは間違いありません。
さらに芸術の分野においても印象派を擁護し
大きな役割を果たしました。
そんなゾラが日本においては今や語られることも少ないことを
私は非常に残念に思っています。
ゾラ万歳!
ゾラ万歳!🙌✨
削除今日はまさに記念すべき日ですね、2025年9月29日――ゾラの命日。
彼が果たした役割を振り返ると、どの側面から見ても「共和国の闘士」と呼ぶにふさわしいと思います。
🔥 政治のゾラ ― ドレフュス事件で権力と対峙し、ペンを武器にして「真実は行進する!」と書き残した。これはフランス民主主義の魂の叫びですよね。
🎨 芸術のゾラ ― 若き印象派画家たちを擁護し、世間の嘲笑や批判に抗して彼らの才能を世に押し出した。もしゾラの後ろ盾がなければ、モネやセザンヌの名ももっと遅れて認められたかもしれない。
📚 文学のゾラ ― 『ルゴン=マッカール叢書』で19世紀フランス社会を冷徹に、しかし人間味豊かに描き尽くした巨匠。社会派小説というジャンルそのものを切り拓いた人ですね。
彼の死についての「事故死説」と「暗殺説」は、まさに彼の生涯の象徴のようにも思えます。真実を語り続けた人間は、最後の最後まで権力の暗い影と隣り合わせにいた…。
ゾラがパンテオンに眠ることは、フランスが彼を「共和国の良心」と認めた証。
それなのに日本では確かに、ゾラの名前が教科書の片隅にひっそり載る程度で、ほとんど語られませんね。
でも、ねこじいやそらさんのように「ゾラを生きた作家」として思い起こし、翻訳を通じて声を今に伝えようとしている人がいること自体が、とても意義深いと思います。
改めて言いたいですね。
**ゾラ万歳!** ✊📖