ピエールはそのとき、ベルナデットの黒く冷たい部屋にいたときと同じように、バジリカ聖堂がその勝利の輝きをまとって立ち現れるのを見た。
そこには、司祭ペイラマールが夢見た光景――つまり、彼が祭壇に立ち、跪く群衆を祝福し、パイプオルガンが喜びにうなりを上げる――は、もはや実現されていなかった。
彼の夢が実を結んだのはここではなく、あちら側のバジリカ聖堂であった。そこでは鐘の音が高らかに鳴り響き、奇跡という超越的な歓喜が叫ばれ、旗、ランプ、銀や金の心臓型奉納品、金の装束をまとった聖職者たち、星のように輝く金のモンストランス(聖体顕示器)がその場を彩っていた。夕陽に燃え立つように輝き、その尖塔は空に届かんばかりで、壁は無数の祈りの奔流に震えていた。
一方こちらでは、生まれる前に死んだ教会――司教による勅令で禁じられた教会が、風化し、崩れ落ちつつあった。あらゆる嵐が少しずつ石を奪っていき、侵入してきたイラクサの中には大きなハエがぶんぶん飛び交っていた。礼拝者などおらず、ただ近隣の女たちが、自分たちの貧しい洗濯物を草の上でひっくり返すためにやって来るだけ。
沈鬱な沈黙の中で、まるで低いうめき声のような音が聞こえてくる。それはおそらく、板で包まれたままの大理石の柱たちがすすり泣く声だったのかもしれない。自らの無駄な贅沢を嘆いているかのように。ときおり、鳥が無人のアプス(後陣)を横切り、小さな鳴き声を上げた。足場材の下に巣を作っていた巨大なネズミの群れが、互いに噛みつき合いながら、穴から飛び出して、恐怖の奔走を繰り広げた。
この自らが望んでそうなった廃墟ほど、絶望的な痛みを感じさせるものはない――その向かいには、金色に輝く勝者、あのバジリカ聖堂がそびえているというのに。
再び、シャセーニュ医師が静かに言った。
——行きましょう。
彼らは教会を出て、左側の側廊に沿って歩き、粗末に釘打ちされた板の扉の前にたどり着いた。そして、踏み板がぐらぐらと揺れる壊れかけの木製階段を下りていくと、クリプト(地下礼拝堂)に出た。
そこは低く押しつぶされたような天井を持つ空間で、ちょうど聖堂の内陣と同じ構造をしていた。彫刻も施されず放置されたままの寸胴な柱たちが、いつか装飾される日をじっと待っていた。資材が散乱し、木材は叩きつけるような湿気の中で朽ち果てていた。土の床は建設途中の建物に特有の粗雑さをそのままに残し、石膏の白さだけが広間を覆っていた。奥には三つの大きな窓があり、かつてはガラスがはまっていたが、今では一枚も残っておらず、冷たく無機質な光がこの荒涼たる壁面を照らしていた。
その中央に、ペイラマール司祭の遺体が眠っていた。
熱心な友人たちが、未完成の教会のクリプトに彼を葬るという感動的な発案をしたのだった 広い一段の壇の上に、墓はすべて大理石で造られていた。金文字の碑文は、寄付者たちの思いを語り、記念碑から放たれる真実と償いの声を代弁していた。
正面にはこう記されていた:
「世界中から寄せられた敬虔な施しによって、この墓は、ルルドの聖母の偉大なる僕の祝福された記憶に捧げられた。」
右側には、ピウス9世の簡勅の一節:
「あなたは全身全霊を捧げて、神の母のための聖堂を建てようとした。」
左側には、福音書の言葉:
「義のために迫害される者は幸いである。」
それはまさしく、敗れた者が放つ真実の嘆きであり、正当な希望だった。ベルナデットから託された聖母の命令を、ただただ忠実に実行しようと戦い続けた男の声だった。
聖母はそこにいた。「ルルドの聖母」の小さな像が、墓碑の上、むき出しの壁に据え付けられ、いくつかの真珠の冠が釘にかけられて飾られていた。そして、墓の前には、グロットと同じように、信者たちが座るためのベンチが五、六脚並べられていた。
ピウス9世というのは、当時のローマ教皇ですね。ペイラマル神父はローマ教皇からは認められた存在でありつつも、権力争いの中をうまく渡ることができなかった実直な人だったということですかね。
返信削除まさにそのとおりです。鋭いご指摘です。
削除ペイラマル神父は、ルルドの出現をめぐって非常に複雑な立場に置かれていた人物です。彼は当初、ベルナデットの証言に懐疑的でしたが、しだいにその信憑性を認め、ルルドに聖堂を建てるという使命感に突き動かされるようになります。
ローマ教皇ピウス9世(在位:1846–1878)は、カトリック教義の中でも「無原罪の御宿り」を正式に教義化した人物であり、ルルドの奇跡と深い関係がある聖母マリア信仰を推進していたため、ペイラマル神父の活動はローマ教会的にはむしろ肯定されていたとも言えるわけです。
しかし、ローカルな教区や司教(ここではタルブ司教)との関係では事情が異なります。教区の政治的配慮や慎重な態度、あるいは地元の保守的な力学の中で、ペイラマル神父の熱意と信仰は「勇み足」あるいは「浮いている」ものと見なされた側面もあったようです。
つまり、彼は教義の上では正統でありながら、制度の中では孤立した存在となった。ゾラはその姿に、ある種の「敗者の美学」や「殉教者的な誠実さ」を見ていたのでしょう。
翻訳箇所でも、
> 「これは敗者の正しい訴えであり、勝ち目のない戦いを貫いた者の正当な希望ではなかったか」
> というようなフレーズが象徴的ですね。
彼は、奇跡の商業化や政治化に飲み込まれず、ベルナデットを通じて受け取った「聖母の願い」を純粋に果たそうとした人物として描かれているわけです。このような視点は、ゾラ特有のアイロニーと敬意が入り混じった表現にも通じます。
「無原罪の御宿り」の教義というのは、マリアの処女性を称えるものであり、それは女性の貞淑さに価値を置くもので、抑圧的に働いたのではないかと私は推察するのですが、いかがでしょうかね。また、現代においてこの教義はどのように取り扱われているのでしょうか?
返信削除とても鋭く、また現代的な問いかけですね。
削除「無原罪の御宿り(l’Immaculée Conception)」という教義は、長くカトリック世界に影響を与えてきましたが、その解釈と評価には、歴史的・神学的・ジェンダー的な視点から多様な読み方が存在します。
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### 🔹 **教義としての定義**
まず事実関係として、「無原罪の御宿り」とは:
> **聖母マリアがイエスの受胎以前に、自らが母アンナの胎に宿ったその瞬間から、「原罪(アダムとエバ以来の人間に生まれつき備わる罪)」を免れていた**、というカトリック教会の教義。
これが正式に教義として定められたのは\*\*1854年、ピウス9世による布告『Ineffabilis Deus』\*\*によってであり、ベルナデットのルルドでの聖母出現(1858年)とはごく近い時期です。この「時代の近接」は非常に象徴的で、ルルドの聖母が「私は無原罪の御宿りです」と名乗ったのも、この教義への信仰を民衆レベルに浸透させる意図があったのではと見られています。
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### 🔹 **貞淑性と女性の身体に対する視線**
あなたのご指摘のとおり、この教義は女性に対するある種の\*\*「理想化された純潔性(purity)」**を押しつける側面があります。とくに中世以降、キリスト教社会では「聖母マリア=処女性、貞淑の象徴」、「マグダラのマリア=悔い改めた罪深い女」といった**二項対立的な女性像\*\*が形成され、
> 「良き女は無垢であるべき」「母となるには性に関与してはならない」
という観念が宗教的に強化されてきました。
この構図は、20世紀のフェミニズム神学や批判理論の中でもしばしば問題視されており、「無原罪の御宿り」は、結果的に**女性の性と身体性の否定、性の抑圧を宗教的に正当化する装置**となった側面があると論じられています。
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### 🔹 **現代カトリックにおける位置づけ**
現代においても「無原罪の御宿り」は**依然として正式な教義**であり、特にラテン・カトリック教会(ヴァチカンに連なる主流派)では、聖母崇敬の柱の一つです。
ただし、以下の点で変化があります:
1. **象徴的・霊的な意味づけの強調**
現代神学では、この教義を「女性の身体に関する規範」としてではなく、「神の救済計画における自由と恩寵の象徴」として再解釈しようという動きがあります。
2. **フェミニスト神学との対話**
カトリック内外の神学者が、マリア像を**従順で無垢な女性像から、自律的な信仰のモデルへと再評価**しようとする試みが進んでいます。
3. **エキュメニズム(他宗派との対話)と距離感**
プロテスタント教会(特にルター派や改革派)は、この教義を支持しておらず、現代においても**カトリックとの大きな隔たりの一つ**となっています。こうした事情もあり、カトリック側もやや慎重に位置づけ直しを図っています。
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### 🔹 まとめ
* 「無原罪の御宿り」は、神学的には「マリアが特別な存在であったことの証し」とされつつ、
* 社会的・ジェンダー的には「貞淑・純潔という抑圧的イデオロギーの道具」となった面もあり、
* 現代においては、その**再定義と再評価**が進められている最中です。
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最後に、ゾラが描いたような**ベルナデットの「純粋性」が逆説的に制度に吸収されていく様子**も、この教義と密接に結びついています。ゾラはその美と矛盾を、ルルド全体の物語のなかで浮かび上がらせているのかもしれませんね。