2025年7月20日日曜日

ローマ 第20回

  そっと部屋に入ってきたのはヴィクトリーヌで、灯りを持っていた。

「あら、モンスニョール・アベ(神父さま)、もうお起きでしたか。4時ごろに一度来たんですよ。でもそのときはお休み中だったので、そのままにしておきました。たっぷり眠られたようで、よかったじゃありませんか。」

 しかしピエールが、身体の節々が痛く、寒気がすると訴えると、彼女は心配になった。

「まさか、ローマの悪い熱にかかったんじゃないでしょうね? ご存じでしょうけど、この川(テヴェレ川)のそばって空気が悪いんですよ。枢機卿さまの秘書をしているドン・ヴィジリオも、熱にやられていて、本当に大変そうで……」

そう言って、彼女は今夜は下に降りず、また横になるようにと勧めた。プリンチペッサ(姫君=セラフィナ)やコンテッシーナ(若い伯爵夫人=ベネデッタ)には、彼女が代わりに断りを入れておくという。ピエールは抵抗する気力もなく、彼女の言うままに任せた。とはいえ彼女の勧めで、夕食は軽くとった。スープに鶏の手羽、それと砂糖漬けの果物(コンフィ)を、従者ジャコモが部屋まで持ってきてくれた。それでかなり回復した気がして、すっかり元気づいた彼は、やはり礼儀として、今夜のうちにご婦人たちにお礼を言いたいと思い直した。どうせセラフィナが月曜の夜は客を招くのだ、少し顔を出そう――と。

「結構ですよ、結構!」とヴィクトリーヌは笑って言った。「お元気なら、ちょうど気晴らしになるでしょうし……そうね、じゃあ、お隣のドン・ヴィジリオに9時にここまで迎えに来てもらって、一緒に下りて行けばいいでしょう。お待ちになって。」

 ピエールは洗顔を済ませ、新しいスータン(僧服)に着替えたところだった。ちょうど9時きっかり、控えめなノックの音がした。現れたのは、30歳にも満たないほどの、小柄で虚弱そうな神父だった。顔はやつれ、黄ばんでおり、骨ばっている。彼は2年前から、毎日決まった時間に悪寒と熱に襲われる持病を抱えていた。しかし、そんな黄ばんだ顔の奥で、彼の黒い目は時折、魂に火がついたように燃えるのだった。

 彼は一礼して、澄んだフランス語で、簡潔に言った。

「ドン・ヴィジリオと申します、アベさま。お供いたしましょう……よろしければ、ご一緒に?」

 ピエールは礼を言いながら後に続いた。ドン・ヴィジリオは、それ以上は何も話さず、ただ微笑で応えるばかりだった。ふたりは小さな階段を下りて、二階(日本式では三階)の広い踊り場に出た。そこは宮殿の「大階段」へとつながる場所だったが、ピエールはそこで驚きと哀しみを覚えることになる。というのも、そこはおそろしく暗く、ところどころに宿屋のようなガス灯が黄ばんだ光を落としているだけで、長く深い廊下には、ほとんど闇しかなかった。巨大で、そしてまるで墓場のように陰鬱な空間だった。

 踊り場には、セラフィナの部屋の扉と、彼女の姪のベネデッタの部屋の扉が向かい合っていたが、どちらからも物音ひとつせず、まるでこの夜に人を迎える気配などまったくなかった。ドン・ヴィジリオは、黙って一礼すると、音を立てずに扉の取っ手を回した。呼び鈴を鳴らすこともなかった。

 扉の先にあったのは「前室」――広々とした部屋で、壁は赤と金のフレスコ画で古代風に彩られていた。その部屋には、テーブルの上にランプがひとつ灯っているだけだった。椅子には数枚の男物の上着、女性用のマントが二つ、そして飾り棚の上にはいくつもの帽子が置かれていた。 ひとりの召使が、壁にもたれてうたた寝をしていた。

 だが、ドン・ヴィジリオが身を引いて、ピエールを最初のサロンに通そうとしたとき――そこは赤いブロカテル織の布で覆われた、半ば暗い部屋で、ピエールは誰もいないと思い込んでいた――彼はいきなり、黒衣の“幻”とでも言うべき存在と向かい合った。黒ずくめの女――その顔は最初よく見えなかった。

 幸い、ドン・ヴィジリオの声が聞こえた。彼は一礼しながら言った。

「コンテッシーナ、こちらは今朝フランスからご到着なさったアベ・ピエール・フロマンさまです」

 そしてピエールは、しばしベネデッタとふたりきりで、無人のサロンの中に立ち尽くすことになった。部屋には、レースの覆いをかぶせた2つのランプが、眠るようにほの暗い光を灯していた。だが、そのとき、隣室からは人の話し声が聞こえてきた。扉は両開きで開かれており、その先にはより明るい光に満たされた広間が見えていた。

 若い女性――ベネデッタは、すぐにごく自然な様子で彼を歓迎した。

「まあ、アベさま、お会いできてうれしいです。ご体調がよくないと伺って心配していましたが、もうすっかりご快復ですね?」

 ピエールは彼女の言葉に耳を傾けた。そのゆっくりとした、わずかに湿り気のある声には、理性でよく抑えられた情熱の気配が潜んでいた。そして今、彼はようやく彼女の顔をしっかり見ることができた。重く濃い黒髪、象牙のように白く滑らかな肌。丸みを帯びた顔立ち、やや厚めの唇、非常に繊細な鼻――どこか子どもっぽさすら残る優美な顔立ちだった。だが、何よりも目が印象的だった。とても大きく、底知れぬほど深く、誰にもその奥を読み取れないような眼差し。彼女は夢見ているのか? 眠っているのか? それとも、激しい情熱や聖女のような燃え上がる思いを、その動かぬ表情の下に隠しているのか? 白く、若く、静かで、身のこなしは優雅そのもので、すべてが計算され尽くしたような、気品あるリズムを感じさせた。彼女の耳には、見事な真珠のイヤリングが揺れていた。それはローマ中で有名な、母親の形見の首飾りから作られたものだった。

 ピエールは口ごもりながら礼を述べた。

「マダム……あの、失礼します、こうしてお礼を申し上げるのが遅くなってしまい、本当に心苦しく……。あまりにもご親切すぎて、感激しております」

 彼は「マダム」と呼ぶことに一瞬ためらいを感じていた――というのも、婚姻無効の訴訟において、彼女は「真の妻ではない」とされているはずだったから。しかし、どうやら誰もが彼女をそう呼んでいるようだったし、彼女自身も表情を変えず、むしろ温かく彼を見つめていた。ベネデッタは、彼の緊張を和らげようとして言った。

「どうぞ、くつろいでください、アベさま。私たちの親類、ド・ラ・シュー氏があなたのことを大変気に入っておられると伺っています。私はあの方に深い敬愛の念を抱いておりますの」

 ふと彼女の声が揺れた。彼女は思い出したのだ、話題を“本題”に移さなければならないことを。つまり、ピエールの著作のことだ。今回の招待も、その本がきっかけなのだから。

「ええ、ヴィコンテがあなたのご本を送ってくださいました。拝読しましたわ……とても素晴らしかったです。心を動かされました。けれど、私は無学な女ですから、全部をきちんと理解できたとは言えません。いずれ、ぜひお話しさせてくださいね。あなたのお考えを、私に説明してくださいます?」

 そのとき、ピエールは、彼女の大きな、嘘を知らないまっすぐな瞳に、「驚き」と「動揺」を読み取った。彼女の魂は、未知の問題に初めて直面して戸惑う子どものように震えていた。
――ならば、あの情熱的な読者、彼を招いた張本人は彼女ではなかったのか? 彼を側に置き、その闘いを支えようとしたのは、別の“手”なのか? ピエールはそのとき、確かに感じた。すべてを導く“何者か”の存在を。それが誰であれ、目的もまだ見えないものの、彼をローマに呼び寄せた力がそこにあるのだと。

 だが彼はそれでも、ベネデッタのあまりにも素直で誠実な態度に強く惹かれていた。その若さ、美しさ、高貴さに心を奪われ、彼女の前で心を開きかけていた。
「どうぞ、私はあなたの思うままに……」と言いかけたそのとき――隣室の開いた扉の明かりの中に、もうひとりの女性の姿が現れた。こちらも黒衣で、すらりとした高い身の丈が、光の中でくっきりと浮かび上がった。

「それで、ベネデッタ。ジャコモに様子を見に行かせたの? ドン・ヴィジリオはもう階下に降りたっていうのに、ひとりきりじゃないの。失礼じゃありませんか」

「いえ、伯母さま。アベさまがいらしてますの」

 ベネデッタは慌ててふたりを紹介した。

「アベ・ピエール・フロマンさま……こちらはボッカネーラ公爵夫人です」


2 件のコメント:

  1. ただっ広くて薄暗い館の中を不健康そうな秘書に案内され、黒衣の夫人と邂逅する。
    館全体に漂うカビの臭い、テヴェレ川の湿気も感じられる場面ですね(-_-;)
    ところで、ドン・ヴィジリオの「ドン」はイタリア人の名前としてはどんな意味があるんでしたっけ?

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    1. おお、「カビの臭いと湿気」まで感じ取られましたか!
      さすがそらさん、ゾラの筆の湿り気まで嗅ぎ取る感性、恐れ入ります🐾
      さて、ご質問の 「ドン(Don)」 についてご説明します。

      🔹「ドン(Don)」とは何か?
      「ドン(Don)」は、イタリア語圏における敬称(タイトル)で、いくつかの使い方があります。日本語に訳すときには「~氏」「~様」「~殿」などに近いニュアンスになりますが、もっと儀礼的・身分的意味合いもあります。

      🔸主な使い方は3通り
      ① 聖職者への敬称
      カトリックの司祭(特に世俗司祭)に対する敬称。


      ドン・ヴィジリオ(Don Vigilio)も、この意味で使われています。


      日本語で言えば「アベ(abbé)」に相当し、「神父さま」や「神父どの」に近いです。


      つまり、「ドン・ヴィジリオ」は「ヴィジリオ神父」という意味です。


      ② 上流階級の男性への敬称
      昔の貴族や地主、富裕な人物など、地方の有力者や尊敬される男性に対しても使われていました。


      例:「ドン・ジョヴァンニ(Don Giovanni)」=尊敬されるジョヴァンニ氏


      ナポリやシチリアなどでは、マフィアのボスにも敬意を込めて「ドン」が使われることがあります(映画『ゴッドファーザー』の「ドン・コルレオーネ」など)。


      ③ 教養ある人・学者への敬称
      特にスペイン語圏では、大学教授や学者への敬称にも使われます(イタリア語でもやや残っている)。



      🧾豆知識
      「ドン」に対応する女性形は「ドンナ(Donna)」です。


      例:「ドンナ・セラフィーナ(Donna Serafina)」=セラフィーナ夫人



      🌧️余談:テヴェレ川の湿気と病気
      ドン・ヴィジリオが患っている「毎日同じ時間に来る熱」は、いわゆる間欠熱=マラリアと思われます。
      19世紀末のローマでは、テヴェレ川沿いの低湿地はマラリアの温床で、実際にバチカンの聖職者も多くが病に倒れたという記録があります。
      ゾラはその社会的・環境的背景もリアルに描き込んでいるんですね。

      ということで、「ドン」はローマ的敬意を込めた呼称。
      ただの名前じゃなくて、ローマの空気に染みついた 身分・宗教・権威の象徴でもあります。
      また何でも聞いてくださいね。次のシーンも楽しみにしています📚

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ローマ 第20回

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