オルランドは若い妻のもと、ミラノへ戻った。そしてそこで2年間、身を潜め、いつ訪れるとも知れぬ栄光の明日を焦がれるように待ち続けていた。その焦燥の中で、ひとつの幸福が彼の胸を打った——息子ルイジの誕生である。しかしその子は、母親の命と引き換えに生まれた。これは深い喪失であった。
もはやミラノには留まれなかった。警察に監視され、追い立てられ、ついには異国による占領の苦しみに耐えられなくなったオルランドは、残っていた財産の残滓を処分し、ピエモンテのトリノへ移る決心をする。そこには亡き妻の叔母がおり、幼い子を託すことができた。
時に、カヴール伯が政治の大器として頭角を現し、独立に向けてピエモンテを着々と整えていた。王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世もまた、全イタリアからやって来る亡命者たちを、共和派であろうが叛乱に関与していようが、快く迎え入れていた。
サヴォイア家の、あの老練で抜け目のない一族には、ピエモンテ王政を核としてイタリアを統一するという夢が、すでに長い年月をかけて培われていたのだ。オルランドもまた、自らがいかなる主君に仕えることになるかを承知の上だった。だが、すでに彼の中では、共和主義者としての情熱は愛国者としての信念に取って代わられていた。
もはや、マッツィーニが夢見たような「自由主義の教皇に庇護される共和国によるイタリア」などというものを信じてはいなかった。それはもはや幻想にすぎず、執着すれば世代を超えて命を呑み込むだけだと、彼には思えたのだ。
「ローマを征服者として踏まずに死ぬわけにはいかない!」彼はそう決意していた。たとえその代償が自由であろうとも、祖国を立て直し、太陽のもとに甦らせたいと願った。
そんな折、1859年の戦争が勃発するや否や、彼は歓喜の熱にかられて志願した。マジェンタの戦いの後、フランス軍とともにミラノへ入城したとき——かつて8年前、亡命者として絶望のうちに去ったその街を、いまや勝利者として踏みしめたとき、彼の胸は破れんばかりに高鳴った。
だが、その後のソルフェリーノの戦いの後、ヴィラフランカ条約が結ばれたことは、オルランドにとっては苦い失望だった。ヴェネトは取り逃がし、ヴェネツィアはいまだ囚われのまま。しかし、それでもミラノは奪還された。さらにトスカーナ、パルマ公国、モデナ公国も併合を選び、ついに国家という天体の核が、勝利に沸くピエモンテの周りに形を成し始めた。
翌年、オルランドは再び歴史のうねりに身を投じた。ガリバルディが南米から2度目の帰還を果たし、伝説と化したその姿とともに現れたのだ。ウルグアイのパンパにおける騎士さながらの戦果、広東からリマへの驚異的な航海——そして1859年には、フランス軍より先に戦場に姿を現し、オーストリアの元帥を打ち破り、コモ、ベルガモ、ブレシアといった都市に凱旋入城を果たした。
やがて世間は知る。彼がたった1,000人の兵士とともに、マルサラへ上陸したことを——「マルサラの千人」だ! 勇敢なる者たちの栄光の一団。オルランドはその最前列にいた。
パレルモは3日間抵抗したが、ついに陥落。ガリバルディが「独裁者」として臨時政府を率いると、オルランドはその寵臣のひとりとして政権の整備を助けた。2人は連れ立って海峡を渡り、ナポリへ凱旋入城した。時の王はすでに逃亡していた。
これは狂気のような勇敢さであり、もはや運命そのものの爆発だった。ガリバルディは無敵であるかのようだった。あの赤いシャツ1枚で、どんな鎧よりも堅固だったという逸話。剣を振るえば敵軍は崩れ去り、まるで熾天使(セラフィム)ででもあるかのような伝説が広まった。
一方、ピエモンテ軍もカステルフィダルドでラモリシエール将軍を破り、教皇領へ進軍していた。
そしてオルランドは、その場にいた。「ローマか死か!」の叫びとともに繰り広げられたアスプロモンテでの絶望的な突撃、その悲劇の結末にも——ガリバルディは負傷し、捕らえられ、カプレーラ島の隠遁生活へ送還された。
その後の6年間、オルランドはトリノで待ち続けた。新たな首都がフィレンツェに移された後も変わらず。元老院はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を「イタリア王」として歓迎し、実質的にイタリアは「完成した」と見なされた。残すはローマとヴェネツィアのみ。
英雄的な戦いは終わったかのように見えた。叙事詩の時代は終幕したのだ。ヴェネツィアは敗北によって得られることになる。
オルランドは不運なクストーツァの戦いにも参加し、2度の負傷を負った。だがそれよりも彼の心を深く傷つけたのは、一時的にせよ「オーストリアの勝利」を信じてしまったことだった。
しかしその同時期、サドヴァの戦いでオーストリアは壊滅し、ヴェネツィアは失陥。5か月後、オルランドは歓喜の中でヴェネツィアにいた。ヴィットーリオ・エマヌエーレが民衆の熱狂の中で入城するその場に、彼もまたいたのだ。
残すはローマただ一つ。イタリア全土が焦がれるように彼の地へと視線を注いでいた。だが、その道は塞がれていた。フランスがローマ教皇の維持を誓っていたからだ。
ガリバルディは、3度目の叛乱を夢見る。誰の命令も受けぬ、冒険者として、愛国者として、ただローマのために。
オルランドもまた、その英雄的狂気に3度目の命を賭ける。だが、それもメンターナにて潰えた。教皇軍のズアーヴ兵、さらに少数のフランス軍の前に敗北。再び負傷し、瀕死の状態でトリノへ帰還した。魂はまだ戦いを望んでいたが、現実は動かなかった。
そこへ突然、セダンの雷鳴が轟く——フランスの敗北、帝政の崩壊! ローマへの道が開かれたのだ。
オルランドは正規軍に復帰し、ローマ教皇庁の安全確保の名目で、ローマ郊外のカンパーニャに布陣する部隊の一員となる。ヴィットーリオ・エマヌエーレが教皇ピウス9世へ宛てた書簡のとおりの展開だった。
そして戦闘は、実際には形だけのものだった。カンツラー将軍率いる教皇軍のズアーヴ兵たちは後退を余儀なくされ、オルランドはピア門の裂け目から市内に突入した最初の兵士たちのひとりとなった。
——ああ! あの9月20日! 人生で最も大きな歓喜に満たされた日。狂喜と完全なる勝利の1日。幾年にもわたる恐るべき闘争の果て、安息も、財産も、知性も、肉体さえも捧げて追い求めた夢が、ついに叶った瞬間だった!
それからの10年余りは、征服されたローマで、彼が心から愛したローマで、あたかもすべての希望を託された女性のように気遣われ、讃えられながら、幸福に過ぎていった。彼はこの新しい国家にとって、ローマから湧き出るような国民的活力、力と栄光の驚異的な復活を期待していたのだ。
かつての共和主義者、かつての反乱兵士であった彼は、ついには折れて上院議員の席を受け入れた。あのガリバルディでさえ、彼の神とも言うべき人でさえ、国王を訪れ、議会の席に着こうとしていたではないか。唯一、マッツィーニだけが、自らの信念に頑として従い、共和国でないかぎり、いかなる独立統一イタリアも受け入れなかった。
そしてまた、オルランドには別の決定的な理由があった。息子ルイジの将来である。ローマ入城の翌年、ルイジは18歳になっていた。祖国に尽くす中で食いつぶした自らのかつての財産の残りで十分だと自分には言い聞かせていた彼だが、息子のためには広大な未来を夢見ていた。英雄時代はすでに終わったと悟っていた彼は、息子を偉大な政治家に、優れた行政官に、明日の主権国家に貢献する人物に育てようと決意していた。だからこそ、長年の献身に対する報いとしての国王の好意を拒まなかったのである。ルイジを助け、監督し、導くために、彼はそこにとどまった。
自分自身はもう老いたのか? もう役に立たないのか? 征服には貢献したとしても、国家の建設においてもなお、役に立てるのではないかと信じていた。彼はルイジを財務省に配属させた。息子が財務・経済問題に対して示した鋭い知性に感銘を受けたからだ。おそらく彼には、戦いがこれからは財政と経済の場で続いていくという予感もあったのだろう。
そしてまた、彼は再び夢の中に生きた。輝かしい未来への信仰に満ちあふれ、限りない希望に酔いしれ、人口が倍増し、狂気のように新たな地区が生い茂っていくローマを眺めながら、心酔する恋人の目で、この都市が再び世界の女王となるさまを見守っていた。
だが、突然、雷が落ちた。
ある朝、階段を降りていたとき、オルランドは脳卒中に見舞われた。両脚が突然まるで鉛のように重くなり、動かなくなったのだ。彼は再び階上へ運び戻され、それ以来、街路の石畳を二度と踏むことはなかった。そのとき彼は56歳であり、以来14年間、戦場を縦横無尽に駆け抜けてきた彼は、椅子に釘付けにされ、石のように動かない日々を送っていた。
これはまさに、ひとりの英雄の崩壊というべきものであり、哀れでならなかった。だが、もっとも悲惨だったのは、元老の兵士が、この監禁された部屋の中から、自らの希望がすべて崩れ落ちていくさまを目の当たりにし、言葉にならぬ恐れとともに、酷い憂鬱に取り憑かれたことだった。もはや行動の陶酔に目を眩まされることはなくなり、空虚な日々を反芻するなかで、ようやく物事の本質が見えてきたのだった。
彼がかつて力強く、統一された勝利の国家として望んだイタリアは、いまや狂ったように振る舞い、崩壊へと、あるいは破産へと向かっていた。彼にとって常に必要不可欠な首都であり、比類なき栄光の都であり、明日の王たる人民に相応しいと信じていたローマは、この新しい国家の偉大なる首都という役割を拒んでいるかのように思えた。むしろ死体のように重く、世紀の重みが若き国家の胸にのしかかっていた。
そしてまた、息子ルイジの存在も彼を悲しませた。もはやいかなる指導にも従わず、征服が産んだ怪物のごとき貪欲さを身にまとい、ローマとイタリアを貪り尽くすばかりになっていた。それらはまるで、父親がわが子に与えるためだけに獲得したかのようであった。オルランドは、ルイジが財務省を辞め、新しい地区の狂騒のなかで決められる土地や不動産の相場に飛び込むことに、強く反対した。だが、すべては無駄だった。
それでも彼は息子を愛していた。だが、沈黙するしかなかった。なによりも今では、最も無謀な金融投機さえ成功し、たとえばモンテフィオリ邸の変貌などは、まるで一都市を生み出したかのような巨大事業で、他の富豪たちが軒並み破産する中、ルイジだけが数百万を得て退いたのだった。
そして、オルランドは絶望と沈黙のうちに、ルイジ・プラダ伯爵がヴィンチェ=セッテンブレ通りに建てた小宮殿で、たった一部屋だけを頑なに使い、そこでひとり静かに晩年を過ごしていた。使用人はひとりのみ、息子からは住まいの提供以外、何ひとつ受け取らず、わずかな年金で慎ましく暮らしていた。
さて、ピエールがこの新しいヴィンチェ=セッテンブレ通りに差しかかったとき──それはヴィミナーレの中腹から山頂にかけて開かれた通りだった──彼は新築された宮殿群の重厚で華麗な様に圧倒された。その巨大さへの嗜好は、まさに遺伝的とも言うべきものだった。
夕刻の紅を帯びた金色の陽射しのなか、この広々とした凱旋の通り、果てしなく続く白亜のファサードの列は、新しいローマが抱く未来への誇らかな希望、そして王権への渇望を物語っていた。まさしくその熱望が、地面からこれらの巨大建築物を突き上げるように出現させたのである。
だがとりわけ、ピエールの目を奪ったのは、財務省だった。まるで巨神の要塞のような塊、柱に、バルコニーに、破風に、彫像に──すべてが積み重なった巨大な建造物。石の狂気が一日で生んだ誇りの産物とでも言うべきものであった。
そしてそのすぐ向かい、やや上方、ボナパルト邸に至る手前に、プラダ伯爵の小宮殿が建っていた。
オルランドの半生を通してゾラがイタリア近代史をがっつり語ってくれましたね。
返信削除小国分立、つまり封建制からイタリアとしての国家統一を果たしたわけですが、王政の廃止にまではこの時点ではまだ至っていないわけですね。
イタリアが統一国家成立に至るまでの推進力となったのは主にどんな要因があったのでしょうか?
かつてのローマ帝国の誇り、イタリア語を話すものとしての文化的、民族的意識、ほかに資本主義の浸透もあったと思いますが、その辺の分析を概括的にお願いしたいです。
まかせてください、そらさん!
削除ゾラがオルランドの半生に重ねて描いたのは、まさに「近代イタリア誕生のドラマ」そのものでしたね。
ここでは、イタリア統一運動(いわゆるリソルジメント(Risorgimento))が成立した背景と推進力を、ざっくり・情熱的に・しかし分析的に解説します。
🔥【イタリア統一の推進力──5つの大動脈】🔥
1. 🏛️ ローマ帝国の記憶 ―「失われた統一」の復活
イタリアには、古代ローマ帝国という圧倒的な「過去の栄光」がありました。
これは単なる郷愁ではなく、「なぜわれわれがいま、他国に分断され、支配されていなければならないのか?」という歴史的正当性の根拠になったのです。
「ローマの民よ、かつて世界を治めし民として、またひとつとなるべき時が来た」
──そんな政治的レトリックが、繰り返し使われました。
2. 🗣️ 言語と文化 ―「イタリア人としての自覚」の萌芽
当時のイタリアは方言だらけで、実際には言語の統一すら不完全でしたが、それでも「イタリア語(トスカーナ語を基礎とする)」が文学を通じて全国に広がり始めていました。
ダンテ『神曲』やマキャヴェリの政治思想などが再評価され、
「イタリア人」というアイデンティティが生まれ始める。
文化とは国家統一の「精神的インフラ」であり、イタリア統一もまた、文化的自己認識の覚醒によって押し上げられていったのです。
3. 💰 資本主義とブルジョワジー ― 経済が国家を求めた
19世紀のイタリアは産業革命の波に乗り始めていました。
特にピエモンテ=サルデーニャ王国(トリノ)は鉄道と銀行制度の整備に熱心で、
経済活動の自由化を目指すブルジョワ階級(資本家・都市の知識層)が登場。
この階級が求めたのは、関税や通貨がバラバラの小国ではなく、統一された経済圏=「国家」でした。
経済合理性が、政治統合を後押しした。
国家は夢ではなく、「利益」だった。
4. ⚔️ ナショナリズムと軍事闘争 ― ガリバルディらの革命的情熱
忘れてはならないのが、武力と血の戦いです。
ガリバルディ率いる「赤シャツ隊」はまさにゲリラのヒーロー。
マッツィーニの「青年イタリア」運動は、国境を超えた革命のビジョン。
カヴール(ピエモンテ宰相)は外交の天才。ナポレオン3世をうまく利用した。
つまり、情熱的な革命家、冷徹な外交家、そして国民の支持が三位一体となって、統一を現実に変えていったのです。
5. 🌍 国際情勢とフランス・オーストリアの力学
統一運動は、国内の努力だけではありませんでした。
北イタリアは長くオーストリアの支配下にありました。
ナポレオン3世(フランス皇帝)はカヴールと手を組み、1859年にオーストリアとの戦争を起こす。
普仏戦争(1870年)でフランスが敗れたことで、ローマは教皇の支配から解放され、イタリア王国に併合されました。
つまり、統一は国際政治のタイミングを見極めた「外交的勝利」でもあったのです。
🎯 結論:イタリア統一は「夢」と「現実」の複合体だった
要因
本質
ローマ帝国の記憶
精神的レガシー
言語と文化
民族意識の土台
資本主義の浸透
経済合理性の要求
ナショナリズム
行動の原動力
国際情勢
現実を動かす機
💡 そして…
オルランド・プラダのような人物は、これらすべての矛盾を内在化している存在です。
かつては英雄的な統一の担い手、だが後には投機の狂宴に飲まれたイタリアを見て苦悩する。
リソルジメントの夢が、資本主義の現実に敗れたとき、何が残るのか?
ゾラはこの問いを、彼の沈黙に託したのかもしれませんね。
さらに深堀りしたくなったら、以下のテーマもお勧めです:
マッツィーニ vs. カヴール:統一をめぐる理想主義と現実主義
ガリバルディの「ナポリ併合」はなぜ功績とされるのか
ローマ教皇の「俗権の喪失」とヴァチカン問題
いつでもご一緒に掘り下げましょう!