だが、そのとき再び扉が開いた。今度はノックもせず、プラダ伯爵が入ってきた。来訪者が立ち上がったのに対して軽く会釈すると、すぐに父の手をそっと取り、その温度を確かめるように触れた。熱すぎはしないか、冷たくないか、案じるように。
「今しがたフラスカーティから戻ったところです。どうしても泊まらざるを得なかったんですよ。あの中断された工事のせいで、気が気じゃなくて。それで、具合が悪かったと聞きましてね」
「いや、そんなことはない。まったく、心配いらん」
「でも、そうおっしゃられても……。どうしてこんな殺風景なところで、わざわざ暮らしておいでなのです? もうご高齢なのですから、もっと快適な部屋でお休みになれば、ずっとお身体にもいいのに」
「いや、いや……。おまえの気持ちはよくわかっとるよ、ルイジ。だがな、どうかこの年寄りのわがままを許しておくれ。わしにはこれが一番なのだよ。こうしているのが、いちばん幸せなんだ」
ピエールは、ふたりのまなざしの間に燃えていた激しい愛情に強く心を打たれた。互いの目をまっすぐに見つめ合いながら、そこに宿る情の深さは、相反する思想や行動、精神的な断絶といったものをはるかに超えて、美しく、感動的なものに思えた。
彼は思わず、ふたりを比較して見つめた。プラダ伯爵は、父より背が低く、ずんぐりとした体格だったが、顔立ちはよく似ており、強く精悍な顔つき、黒く硬い髪が濃く生えていて、目は鋭く、やや冷たい光を宿していた。肌は色白で、分厚い口髭が顔を横切っていた。だが、口元は父とは異なっていた。まるで獲物に喰らいつく狼のような歯列を持ち、貪欲で官能的、戦いの夜に噛みつくために存在するような捕食者の口。人々が彼の誠実そうな目を褒めつつ、「でも、あの口元がね」と続ける理由は、そこにあった。足はがっしりとしており、手はふっくらとしながらも横に広く、どこか圧倒的な存在感があった——とても立派だった。
そしてピエールは、彼がまさに自分の想像していたとおりの人物であることに驚嘆した。彼はこの男の来歴をよく知っていた。だから、英雄的な父の子として、勝利の果実に毒された男の姿をそこに見ていた。父の剣が刈り取った豊穣の実りを、息子が歯でむさぼり食っているのだ。彼はとりわけ、父の美徳がどのようにして息子の中で歪み、堕落していったのかを考察していた。もっとも高貴な資質が変質し、無私の英雄的エネルギーが、快楽をむさぼる獰猛な欲望へと転じていった。戦う者から略奪者へ——。大義が風を止め、戦いが終わり、獲物が積み上げられた安逸のなかで、人は奪い、貪るようになる。
そして今や、あの英雄、父は半身不随となって身動きもできず、ただ傍らでこの堕落を見守るしかないのだった。億万の富を手にした、強欲な成金の息子を……。
だが、そのときオルランドがピエールを紹介した。
「こちらは、かの著作の作者、アベ・ピエール・フロマン。話していたろう? おまえに読ませた本の」
プラダ伯爵はたいそう愛想よく振る舞い、すぐにローマの話題に移った。情熱的かつ知的に語るその姿は、「ローマをいかにして近代的な大都市に変貌させるか」という強い意志に貫かれていた。彼は第二帝政下のパリの変貌をこの目で見てきた。ドイツの勝利後に拡張され美化されたベルリンも訪れていた。彼の考えでは、ローマがその流れに乗らなければ、偉大な国民の住む都市にはなり得ず、たちまち命脈を絶たれるだろうというのだ。
「崩れかけた博物館で朽ちるか、再生してよみがえる都市となるか——そのどちらかしかないのです」
第二帝政下でのパリの都市改造はゾラがルーゴン・マッカール叢書で描いてきたところですが、ローマでの都市改造はうまくいかなったようですね。素人考えでは、やはり古代ローマ、そしてキリスト教の建築物が阻害要因でもあったかと思いますが、パリとローマの都市改造を比較しながら説明してください。
返信削除とても興味深い比較ですね。パリとローマ、どちらもヨーロッパ文明の象徴的都市でありながら、19世紀の都市改造の成果には大きな違いが見られます。それは単に技術や資金の問題ではなく、歴史・宗教・政治・文化といった多層的な要因が絡んでいます。以下、順を追って概説します。
削除🔨【パリの都市改造】― 成功の象徴:第二帝政とオスマンの改革
1. 背景
皇帝ナポレオン3世による中央集権体制下(1852–1870)。
古い中世の迷路のような街並みは、防疫・防火・治安の面で問題視されていた。
同時に、革命や暴動(特に1848年)を鎮圧しやすくする政治的意図もあった。
2. 実施主体
ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン(パリ県知事)が主導。
3. 改造内容
幅広い直線道路(大通り)と円形広場の整備。
上下水道の近代化。
駅、商業施設、公園(ブローニュの森など)の建設。
統一感あるファサード(石造建築)による都市美観。
4. 結果
パリは「近代都市」のモデルに。
経済的には大成功、観光都市としての基盤も確立。
しかし、労働者層の郊外追放、伝統的共同体の崩壊という負の側面も。
🏛【ローマの都市改造】― 半ば挫折した近代化の夢
1. 背景
1870年、教皇領からイタリア王国への編入(ローマ占領)。
ローマが新たにイタリアの首都に。国家としての「顔」が必要になった。
だが、教皇ピウス9世はバチカンに引きこもり、「囚われの教皇」として世俗政権を拒絶(ローマ問題)。
2. 実施主体と困難
イタリア王国政府は野心的に都市改造を計画。
だが資金力に乏しく、国家としての統一感も薄かった。
バチカンとの対立で、宗教施設への手出しが困難。
遺跡と教会が密集した都市構造が、インフラ整備の妨げに。
3. 試みられた改革
官庁街の整備(クイリナーレ宮周辺)。
王宮・軍事施設の建設。
テヴェレ川沿いの堤防(洪水対策)整備。
一部の道路整備(ヴィットーリオ・エマヌエーレ通りなど)。
4. 結果
建築計画の多くは未完。無秩序な開発によって、逆に美観を損ねる事態も。
上下水道の整備も不十分で、「首都としてふさわしくない」と見なされることも。
古代ローマ遺跡と中世・バロックの教会が「聖なる障壁」として、都市開発を縛る構造。
👤【ゾラの視点】
ゾラはパリの都市改造を肯定も否定もせず、巨大資本と官僚による美しい暴力として描きました。
一方、ローマについては『ローマ』の中で、過去の遺産と宗教的保守性が新時代の理想を押し潰していく様を、どこか痛切な敗北感とともに描いています。
🎨締めくくりに
ローマは、歴史の石畳が分厚すぎた――
近代化のブルドーザーを走らせようにも、その下には帝国の夢と聖なる信仰が埋まっていたのです。
それに比べれば、パリはある意味「再起可能な都市」だったのでしょう。
この対比は、単なる都市計画の問題ではなく、19世紀ヨーロッパにおける「過去と未来のせめぎ合い」を映し出す鏡でもあります。