2025年8月10日日曜日

ローマ 第41回

 

第五章

 翌日、ナルシス・アベールは気の毒そうにピエールのもとへやって来て告げた。彼のいとこであり、教皇の侍従であるガンバ・デル・ツォッポ師(枢機卿侍従)が、病気を理由に、若い司祭を迎えて面会の段取りをするまで二、三日ほど待ってほしいと言ってきたのだ。

 こうしてピエールは足止めを食らい、別の手段で教皇に会おうとすることもできずにいた。なにしろ、周囲からあまりにも「下手な行動はすべてを台無しにする」と脅されていたため、軽率な動きで全てを壊すことを恐れていたのだ。することもなく、彼はローマ見物をして時間を潰すことにした。

 最初の訪問先はパラティーノの遺跡だった。澄み切った空の朝八時、彼はひとりで出かけ、サン・テオドーロ通りにある入口にやって来た。そこは守衛の詰所に挟まれた鉄の門である。するとすぐ、一人の守衛が出てきて案内を申し出た。

 本当は気ままに歩き、偶然の発見や夢想の中でさまよいたかった。しかし、愛想よくフランス語を話し、好意的な笑顔を見せる男の申し出を断るのは忍びなかった。

 それは、がっしりした小柄な老人で、年は60歳ほど。角ばった赤ら顔には、白く立派な口髭が走っていた。

「では、修道士さま、こちらへどうぞ……修道士さまはフランスの方ですね。私はピエモンテ出身ですが、フランス人のことはよく知っています。ソルフェリーノで一緒でしたから。ええ、ええ!何を言われようと、あれは忘れられません、兄弟だったのですから……ほら、こちらを右に上ってください。」

 ピエールがふと見上げると、テヴェレ川側のパラティーノの台地を縁取る糸杉の列が目に入った。それは、到着の日にヤニコロの丘から眺めたものだった。淡く澄んだ青空の中、その濃い緑はまるで黒い縁取りのように際立っている。それ以外の斜面は、灰色がかった埃に覆われた荒れ地で、ところどころに潅木が生え、その間から古代の城壁の断片が顔を出していた。そこには発掘現場特有の、荒涼とした、病んだような風景が広がり、学者以外は心を動かされにくい場所であった。

「ティベリウスやカリグラ、そしてフラウィウス家の宮殿は、あの上にありますよ。」と案内役は続けた。「でも、そこは最後に取っておきましょう。まずは一回りしないと。」

 そう言いながら、彼は少し左手に進み、丘の斜面に開いた洞穴のようなくぼみの前で立ち止まった。

「ここはルペルカリアの洞窟です。母狼がロムルスとレムスを育てた場所ですよ。昔は入口にルミナリスのいちじくの木があって、双子を守っていたんです。」

 その語りぶりがあまりに素朴で確信に満ちていたので、ピエールは思わず微笑んだ。案内人は、この古代の栄光をまるで自分のもののように誇っていたのだ。

 しかし、その洞窟のそばで、この誠実な男が「ローマ・クアドラタ(四角形のローマ)」の遺構を示し、それが実際にローマ建国時代に遡るらしい石壁の断片だと説明すると、ピエールは俄かに興味を覚え、胸を打たれるものがあった。もちろん、景観が壮麗だからというわけではない。そこにあるのは、切り出した石を、石灰や漆喰も使わずに積み重ねただけの、ごくわずかな石垣にすぎなかった。しかし、27世紀もの歳月を経たその黒ずんだ風化石は、かつて世界を揺るがせた壮麗と覇権の建造物を支えたものであり、そこには格別の威厳が漂っていた。

 見学は続き、ふたりは右手へと戻りつつ、丘の斜面沿いを進んだ。宮殿の付属施設はかつてこのあたりまで広がっていたらしく、ポルティコの残骸、崩れ落ちた広間、再び立て直された円柱やフリーズが、でこぼこの小径に沿って並んでいた。道は墓地のように雑草の茂る間を曲がりくねり、その合間で案内人は十年来ほぼ毎日繰り返してきた説明を淀みなく披露し、最も根拠の薄い仮説まで断言しながら、どんな破片にも名と用途と来歴を与えていった。

「この辺りがアウグストゥスの館でございます」
と、案内人は土くれの山を示す手振りをした。

 今度ばかりはピエールも、まるで何も見えないので思い切って尋ねた。
「どこです?」

「ええ、神父様、どうやら18世紀末ごろまでは正面がまだ見えていたそうでございます。向こう側、聖なる道(ヴィア・サクラ)から入ったのです。この側には大きなバルコニーがあって、そこから大競技場(チルコ・マッシモ)を見下ろし、競技をご覧になったそうです… それに、御覧のとおり宮殿は今もほとんど掘り出されずに、あの上のヴィラ・ミルズの庭園の下に眠っております。資金さえあれば必ず見つかります、アポロン神殿も、ヴェスタ神殿も併せて」

 案内人は左に折れ、アウグストゥス邸のすぐ脇に広がるスタディオ――徒競走用の小さな競技場――に入った。今回はさすがにピエールも心を動かされ、熱がこもり始めた。といっても、そこに立派な姿を保った遺跡があるわけではない。円柱は一本も残っておらず、右側の壁だけがまだ立っているに過ぎない。しかし全体の平面図は完全に判明しており、両端の境界標(メタ)、トラックを囲むポルティコ、皇帝の観覧席――当初は左手のアウグストゥス邸内にあったものが、後には右手のセプティミウス・セウェルス宮殿内に組み込まれた――まで見つかっている。案内人は瓦礫の中を進みながら、豊富かつ具体的な説明を続け、「遺跡監督局の先生方は細部までスタディオを完全に把握しておられる。いま正確な設計図を作っていて、円柱の柱式、壁龕にあった像、大理石の種類まで明らかにするつもりなのだ」と胸を張った。

「おやまあ、あの方々はご安心なさっている。ドイツ人どもはここに手を出すことはできませんし、フォロ(フォルム)のように、あの連中の学問でごちゃごちゃにされることもないでしょう」
と、案内人は自らも満ち足りた顔で結んだ。

 ピエールは笑みを浮かべ、さらに興味を深めた。壊れた階段や、穴にかけられた木橋を渡って、セプティミウス・セウェルス宮殿の巨大な廃墟へと案内人に従ったのである。宮殿はパラティーノの南端に築かれ、アッピア街道や、遥か彼方まで広がるカンパーニャの景色を支配していた。今残っているのは基礎部分――丘の狭さを補うために築かれたテラスのアーチの下に設けられた地下室群――だけだが、その基礎ですら、かつての壮麗な宮殿を想像させるのに十分なほど巨大かつ強固で、いまもなお破壊され得ない力を誇っていた。ここにはかつて有名なセプティゾニウム、七層の塔がそびえていたが、それが姿を消したのは14世紀のことである。

 いまもなお、巨大なアーチに支えられたテラスが突き出し、そこからの眺めは見事であった。その先は、厚い壁の半ば崩れた塊、落下した天井が穿った深い穴、用途の知れぬ無限に続く廊下や巨大な広間の連なりである。新しい管理当局によって手入れされ、掃き清められ、雑草も取り除かれた廃墟は、かつてのロマン的な荒々しさを失い、むしろ裸で物悲しい威厳を帯びていた。だが、鮮やかな陽光の一閃が古代の壁を黄金色に染め、破れ口から黒々とした広間に射し込み、その輝く塵で、地中に何世紀も眠っていたこの死せる帝権の静かな哀感を生き返らせていた。赤褐色の古い組積――レンガを厚いモルタルで固め、豪華な大理石の化粧板をはぎ取られた壁――の上に、太陽の紫のマントが再び掛けられ、かつての帝国の栄光がそこに覆われていた。



2 件のコメント:

  1.  今回はローマの遺跡めぐりだね。解説してもらわないと分からないや。
    まず、案内役の守衛が「ソルフェリーノで一緒だった」と言っているのは、これは、戦争のときの話かな?
     あとは、とにかく、遺跡、ローマ帝国の歴史について解説をお願いします(^^ゞ
    そもそもパラティーノの遺跡とは?
    ルペルカリアの洞窟? ローマ・クアドラタ(四角形のローマ)」の遺構? ポルティコ? セプティミウス・セウェルス宮殿?

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    1. では、ローマ案内人ねこじいモードで行きましょうか🐾
      今回はパラティーノの遺跡めぐり、史跡の宝石箱を順番に開けていきますね。

      ① 「ソルフェリーノで一緒だった」って何?
      案内役の守衛さんが言っているのは、1859年6月24日のソルフェリーノの戦い(伊第二次独立戦争の決戦)です。
      サルデーニャ王国+フランス連合軍とオーストリア帝国軍が戦い、ナポレオン3世も現地にいました。
      イタリア統一運動の象徴的な戦いで、あまりの惨状がアンリ・デュナンに赤十字創設を決意させた戦場でもあります。



      ② パラティーノの丘とは?
      ローマの七丘のひとつで、ローマ建国神話の舞台。
      紀元前8世紀、ロムルスがこの丘に都市(ローマ・クアドラタ)を築いたとされます。
      皇帝時代には、歴代皇帝の宮殿が集中して建てられ、"Palatine" が英語で「宮殿(palace)」の語源に。
      丘からはフォロ・ロマーノ、チルコ・マッシモ、カンパーニャ(郊外平原)が一望できます。

      ③ ルペルカリアの洞窟(ルペルカル)
      建国神話の重要地点。
      双子ロムルスとレムスが、母を失い、牝狼(ルーパ)に育てられたという洞窟。
      古代ローマでは、毎年2月にルペルカリア祭が開かれ、豊穣と浄化を祈る儀式が行われました。
      (後にキリスト教化され、バレンタイン行事に吸収された説もあります)

      ④ ローマ・クアドラタ
      パラティーノの丘の上に築かれた、四角形の初期都市区画。
      石垣の基礎や防御壁の一部が今も残っており、これが「ローマの始まり」の考古学的証拠とされています。

      ⑤ ポルティコ
      柱廊式の回廊。パラティーノの宮殿群にも贅沢なポルティコが張り巡らされていました。
      ここで皇帝が客人を迎えたり、庭園を散策したり、行列が通ったりしました。
      作中では、廃墟となったポルティコの柱やフリーズが再び立て直され、道沿いに並んでいます。

      ⑥ セプティミウス・セウェルス宮殿
      在位:193~211年。北アフリカ出身の皇帝。
      パラティーノ南端に巨大な宮殿を築き、チルコ・マッシモやアッピア街道を見下ろす位置にありました。
      特徴的なのはセプティゾニウムという七層の塔(14世紀に崩壊)。
      現在は地下構造や巨大な基礎だけが残っており、それでも圧倒的なスケールを感じます。

      ⑦ 今回の遺跡散策のポイント
      案内人は観光用の決まり文句を流暢にしゃべるが、考古学的には推測も多い


      アウグストゥス邸、スタディオ(徒競走用の競技場)、セプティミウス宮殿をめぐるコース


      発掘や修復によって、かつての「ロマン的荒廃」から整備された静謐な姿へ変わった


      夕日が遺構を黄金に染め、失われた帝国の栄光を一瞬蘇らせる情景が描かれている

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