荘厳なる正午の太陽の下で、ピエールの眼には、到着の朝に彼を迎えた、あの澄みきった清らかなローマの姿はもはやなかった。あのときは、柔らかな黎明の光のなかに、半ば金色の霞に包まれ、微笑みながら夢のように彼の前に現れていたのだ。だが今や、無遠慮なまでの光にさらされ、硬直したままの厳しさと、死の沈黙に覆われた都となっていた。背景は燃えすぎた炎に蝕まれ、火の塵に溶けて消え去り、街全体がその色褪せた遠景に激しく切り立ち、光と影の大きな塊を鋭利に刻んでいた。まるで古代の石切場が真上から照らし出され、忘れ去られた廃墟のようで、ただ点在する木々の黒緑がかろうじて色を添えるのみであった。
古代の都は、焼け焦げたカピトリーノの塔、黒い糸杉に覆われたパラティーノの丘、白骨のようなセプティミウス・セウェルス宮殿の廃墟をさらしていた。それは洪水が打ち上げた化石の怪物の骸のようであった。対して近代の都は、クイリナーレ宮の長大な建物を玉座のごとく構え、その黄色い漆喰のまばゆい粗さが庭園の力強い樹々の間で異様に際立っていた。そのさらに奥、ヴィミナーレの高みには、新市街の真白な石膏の街並みが広がり、無数の窓が墨で引いた線のように黒く刻まれていた。
そして、あちらこちらに無秩序に現れるのは、停滞したピンチョの池、双塔を立てたメディチ荘、古びた錆色のサンタンジェロ城、燃える燭台のように輝くサンタ・マリア・マッジョーレの鐘楼、枝に隠れて眠るアヴェンティーノの三つの教会、夏の日々に焼きしめられた古金色の屋根をいただくファルネーゼ宮、そしてジェズ教会、サン・タンデレア・デッラ・ヴァッレ、サン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニのドーム…そのほか、いくつものドームが灼熱の天の炉のなかで赤々と熔けていた。
そのときピエールの胸は再び締めつけられた。このローマは、彼が夢に見ていた若返りと希望のローマとはあまりに異なり、暴力的で硬く、消え去ってしまった幻影に代わり、今ここにあるのは誇りと支配に執着し、死の中にあってなお太陽の下に頑なに立ち続ける不変の都であった。
突如として、孤独に立つ彼の心に悟りが走った。それは炎の閃光のようであり、彼を貫いたのだ。果てしなく広がる空間に浮かびながら――それは果たして先ほどの儀式のせいだったのか、今なお耳にこだまする隷属の狂信的な叫びのせいだったのか。あるいはむしろ、眼下に横たわるこの都の姿、墓の塵のなかにあってなお支配を続ける香り高き女王の幻影のせいだったのか。いずれとも言えぬ。だが、おそらくその双方が彼を打ったのであろう。
その瞬間、光は完全に訪れた。ピエールは感じた――カトリックは世俗権力を伴わねば存在し得ぬ、王でなくなるその日には、必然的に消滅するのだと。何よりもまず、それは血統の記憶であった。歴史の力、シーザーの後継者たちの連なり、大教皇たちの系譜、その血管には絶え間なくアウグストゥスの血が流れ、世界帝国を欲してやまなかった。彼らはヴァチカンに住まおうとも、その源はパラティーノの皇帝の館、セプティミウス・セウェルス宮にあり、数世紀にわたる彼らの政治はただローマの支配という夢を追い続けてきた。すべての民を征服し、従わせ、ローマに服させる夢を。
この普遍の王権、すなわち肉体と魂の完全な支配なくしては、カトリックはその存在理由を失う。なぜなら教会は、いかなる帝国も王国も政治的にしか認めず、皇帝も王も一時的な代行者として人民を預かり、やがて教会に返すべき存在にすぎぬからである。すべての国々、人類と地上は神より託された教会のもの。今日それが現実に掌中にないのは、力に屈して既成事実を受け入れているにすぎず、しかし明白な留保がある――すなわち、それは罪深い簒奪であり、教会の正当な所有物が不当に奪われているのだということ。そしてキリストの約束の成就を待ち望むのだ。定められた日に、キリストは永遠に地と人類を返し、全能を与えるであろう。
これこそが真の未来都市、第二の栄光を担うカトリックのローマである。ローマは夢の一部であり、永遠はローマにこそ約束された。ローマの土壌そのものが、カトリックに絶対権力への消えぬ渇望を与えたのだ。そのゆえに、教皇権の運命はローマの運命と結びつき、ローマを離れた教皇はもはやカトリックの教皇ではあり得ぬ。
こうしてピエールは、細い鉄の欄干に身を預け、眼下の深淵に硬直した都が烈日の下で砕け散るのを見下ろしながら、戦慄にとらわれた。存在するものすべてを貫く大いなる震えが、彼の骨の髄を走り抜けたのであった。
そもそもは小さな教団で、権力の弾圧を受けてきたキリスト教が、やがて強大な権力を手中に、ヨーロッパ世界を支配してきたものの、ここにきて世俗権力に負けそうな中、必死の抵抗を試みているという状況でしょうかね。己の既得権にすがりつこうとする姿は既に醜悪であることをゾラはこの「ローマ」を通じて描いているわけですが、宗教、資本、科学、政治、様々な要素からより本質的な問題に迫ろうとしているように思います。私もしっかりくらいついていかなければ、表層的な理解で終わらせてはならないと思います。
返信削除まさにおっしゃる通りです、そらさん。👏
削除ゾラがこの『ローマ』で描こうとしているのは、単にカトリック批判や権力闘争のルポではなく、宗教・資本・科学・政治といった近代ヨーロッパを形作る諸要素の「最終的な力関係とその矛盾」なんですよね。
もともと迫害されていた小さな共同体=キリスト教徒の集まりが、帝国権力と結びつくことでヨーロッパを統合する力を持つに至った。ところが近代に入り、国家の台頭、資本主義の力、そして科学の進歩によって、かつてのような絶対的支配はもはや維持できない。そこでなおも「永遠のローマ」としての支配を正当化しようとする――この姿がゾラの眼には「すでに歴史的役割を終えたものがなお権力にしがみつく醜悪さ」として映っている。
ただ、ゾラは単純に「カトリック=悪、科学=善」という図式に落とすのではなく、
* 宗教が人間に与える慰めや共同体意識
* 科学が与える進歩と同時に孕む冷酷さ
* 資本がもたらす繁栄と格差
* 政治が求める秩序と抑圧
こうした両義性を見据えながら、どこに人間の希望を託せるのかを模索しているように感じます。
だからこそ、このピエールの視点は重要なんです。彼は聖職者としてローマに来ているけれども、信仰と理性のはざまで揺れている。彼の葛藤を通じて、読者自身に「では自分はどこに未来を託すのか?」と突きつけているわけですね。
そらさんが仰るように、表層的に「教会=悪者」と読んでしまうと、ゾラの狙った深みは見失ってしまうかもしれません。むしろ「人類史における宗教の役割とは何だったのか? それに代わるものは本当にあるのか?」という問いに向き合うために、この小説を読み解いていく価値があるのだと思います。