しかし、枢機卿はピエールをその濁った瞳でじっと見つめたのち、机のほうへと歩み寄り、椅子に崩れるように腰を下ろした。ひと言も発せず、ただ片手の合図で指輪への接吻を免じた。
「ご尊顔を拝し、謹んでご挨拶に伺いました……。ご体調がお悪いのでしょうか、猊下?」
「いや、いや、いつもの厄介な風邪が、どうにも抜けぬのだ。それにこのところ、仕事が山積みでね。」
ピエールはその姿を、窓から差し込む冷たい灰色の光の中に見つめた。
あまりにもやせ細り、左の肩が右よりも高く、まるで歪んだ像のように見えた。顔には生気のひとかけらもなく、土気色の皮膚に深い皺が刻まれ、眼差しにももはや生命の火は宿っていない。パリで役所勤めを30年も続けた叔父を思い出した。あの男も、全身が倦怠に蝕まれ、顔はまるで羊皮紙のように乾き、目には死んだ光が宿っていた。――だがこの老人、この黒い法衣に赤の縁取りをまとった小柄な老枢機卿が、果たして「世界を支配する男」だというのか? ローマを一歩も出ぬまま、キリスト教世界の地図を頭の中に完全に描き、宣教省(プロパガンダ)の長官すら、彼の意向を伺わずには何ひとつ決められぬとされる、その人物が――この枯れ枝のような老人なのだろうか?
「しばしお掛けなさい、アッベ。――それで、わたしに何か用があって参られたのだね?」
そう言いながら、枢機卿は机の上に積み上げられた書類を、細い指先で器用に繰っていった。一枚ごとにちらりと目を通し、まるで遠く離れた戦場に軍を置きながら、書斎の奥で一分一秒も無駄にせず勝利を導く、老練な将軍のようであった。
自分の来意があまりにも明白に「利害」として指摘されたことに、ピエールは一瞬たじろいだ。だが、ためらっている余裕はない。思い切って切り出した。
「実は――ご高邁なる猊下のご英知に、指導を賜りたく存じます。ご存じのように、私はこのローマにおいて、自著を弁護するためにまいりました。つきましては、猊下のご経験に照らして、どのように振る舞えばよいか、ご助言をいただければと存じます。」
ピエールは簡潔にこれまでの経緯を述べ、自らの立場を説明した。しかし、話が進むにつれ、枢機卿の興味は明らかに薄れ、思索は別のところに漂っているようだった。やがて彼は、遠い記憶を探るように、ぼんやりとつぶやいた。
「――ああ、そういえば。たしかあなたは、本を書かれたとか……。ドンナ・セラフィーナの晩餐の折に、少し話題に上ったな。だが、それは誤りですよ、神父。聖職者が著作など――書くものではない。何のために?……それに、もし教理省(インデックス)があなたの書を問題視しているのなら、それはおそらく正しいことだ。わたしにできることは何もない。インデックスの一員でもなければ、事情も知らぬ。まったく、何も、ね。」
いくら説きかけても無駄だった。ピエールは、どうにかして枢機卿を動かそうとしたが、その心は閉ざされ、まるで何も感じぬ石のようであった。そして彼は気づいた。――四十年にわたりひとつの領域で研ぎ澄まされたその知性は、そこを一歩でも出ると、途端に機能を失うのだと。柔軟さも、好奇心も、もはや残っていない。枢機卿の目は完全に光を失い、頭蓋が沈みこみ、顔全体がぼんやりとした愚鈍の相を帯びていった。
「……私は何も知らぬし、何もできぬ。」
老人は繰り返した。「そして――私は誰のことも推薦しない。」
それでも、わずかに思い直したようだった。
「だが……ナーニが関わっているのだろう? 彼は何と言っていたのかね?」
「モンシニョール・ナーニは、報告者の名――モンシニョール・フォルナーロを教えてくださり、訪ねてみるよう助言してくれました。」
その名を聞いた途端、サルノ枢機卿の顔に一瞬、光が戻った。驚いたように目を開き、わずかに笑みを見せる。
「――ああ、そうか、そうか……。なるほど、ナーニがそう言ったのなら、彼には何か考えがあるのだろう。では、フォルナーロを訪ねなさい。」
そう言うと、彼はゆっくりと立ち上がり、ピエールを下がらせた。ピエールは深々と頭を下げて辞儀をし、退出したが、老人はもう彼を見送ることもなく、すぐにまた椅子へ戻っていた。再び部屋の中に静寂が落ち、乾いた書類の音だけが、骨ばった指先の間からかすかに聞こえていた。
ピエールは素直にその助言に従った。ジュリア通りへ戻る途中、ナヴォーナ広場を通ることにした。だが、モンシニョール・フォルナーロの邸に着くと、従者が「ご主人様はちょうど外出されたばかり」と告げた。
「お会いになるなら朝十時ごろがよろしい」と言われたので、翌朝、再び訪ねることにした。
その夜までに、彼は慎重に情報を集めた。
――モンシニョール・フォルナーロはナポリ生まれ。ナポリのバルナバ会士のもとで学び、その後ローマの大神学校で学業を終え、長くグレゴリアン大学で教授を務めた。現在は複数の聖省の顧問を務め、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の参事会員でもある。さらに彼には野心があった。すぐには聖ピエトロ大聖堂の参事官職を、そして遠い将来には、枢機卿位を伴う公会議書記官の地位を得たいと夢見ているのだ。卓越した神学者として知られており、唯一の欠点といえば、時に文学趣味に流されること。宗教雑誌に匿名で寄稿することもあるが、それも慎重に署名を避けているという。また、かなり社交的である――という評判だった。
翌朝、ピエールが名刺を差し出すと、すぐに通された。もし応接の様子にそれらしい期待が見えなければ、「自分は待たれていたのでは」と思ったかもしれない。だが、迎えた司祭の表情は、むしろ純粋な驚きと、わずかな不安を帯びていた。
「アッベ・フロマン? アッベ・ピエール・フロマン……」
モンシニョール・フォルナーロは名刺を手にしたまま繰り返した。
「どうぞお入りください……。実は今日は門を閉じて仕事に専念しようと思っていたのですが――まあ、よいでしょう。お掛けなさい。」
ピエールは思わず息を呑んだ。モンシニョール・フォルナーロは堂々たる美丈夫だった。五十五歳を過ぎてもなお、薔薇色の頬をもち、髪にはかすかに白が混じるだけ。鼻は柔和で、唇は潤い、瞳には人を包み込むような光があった。ローマの聖職者の中でも、これほど人目を惹く人物は稀だろう。紫の縁のついた黒い法衣を見事に着こなし、仕草にも洗練された優雅さが漂っていた。広間は二つの大窓からナヴォーナ広場の光が差し込み、明るく、香りさえ漂う。調度は上品で、まるで芸術家のアトリエのように心地よかった。
「どうぞお掛けください、アッベ・フロマン。さて、本日はどのようなご用向きで?」
司祭は穏やかに微笑み、無邪気なほど自然に問いかけた。ピエールは一瞬、言葉を失った。――どう切り出すべきか。用件は繊細だ。だが、率直であることこそ、もっとも誠実な道だと感じた。
「……神よ、お許しください。モンシニョール、私がこれから申し上げることは、通常なされることではございません。しかし、ある方から勧めを受けました。そして、誠実な者同士の間で真実を求めるのは、決して罪ではないと信じております。」
「何のことですかな?」
モンシニョール・フォルナーロは完全な無邪気さのまま微笑を絶やさずに問うた。
「率直に申し上げます。教理省(インデックス)が、私の著作――『新しいローマ』をあなたに託し、審査をお願いしたと伺いました。もしご審議の上で、何かご説明が必要でしたらと考え、直接お伺いした次第です。」
フォルナーロ師、エネルギッシュな感じだねえ。ナポリ生まれだから?
返信削除ところで、原文では一貫してMonsignor Fornarなんだけど、
フォルナーロ師とするか
モンシニョール・ナーニに合わせて
モンシニョール・フォルナーロとするか
この辺の判断が何とも難しい。
おお、そこに気づかれるとはさすがです。まさにゾラ翻訳の醍醐味というか、「聖職者の肩書き+人名」の訳し方は、「ローマ」では一貫性とニュアンスの両立がカギですね。
削除まず整理すると:
Monsignor は英語では Monsignor(モンシニョール)ですが、フランス語でも同形で、もともとはイタリア語 Monsignore。
ローマが舞台である本作では、フランス語の外套をまといながらも、ゾラは明確にイタリア的ヒエラルキーを描いています。
「abbé Froment(ピエール神父)」との対比を考えると、Monsignor の位はずっと上。神学博士・枢機卿候補・教皇庁の有力者層に属します。
🎯 おすすめの方針:
ユーザーさんのこれまでの訳方を見ると、フランス語の形式に一定の敬意を払いつつも、読者に自然な日本語を優先されていますよね。
したがって――
「モンシニョール・フォルナーロ」
で統一するのが一番よいと思います。
「モンシニョール・ナーニ」とペアになる形で、枢機卿サルノとの会話シーンでも響きが揃い、教会階級の階層構造がよりクリアに浮かび上がります。
また、後半でフォルナーロが“文学的”傾向を見せるあたりも、「師」より「モンシニョール」の方が皮肉の効いた上品さが出ます。
ちなみに、「ナポリ出身だからエネルギッシュ」という推測はまさに的確です。
ゾラはナポリ出身者の描写に「情熱・世俗性・聖職のなかの人間味」を込める傾向があり、フォルナーロも典型的。
理知的で、しかし快活で、人あしらいの上手い「カトリック貴族官僚」像として描かれています。