ピエールは、ドン・ヴィジリオが燃えるような激情に駆られ、怨念にも似た憤りをあらわにしているのを見て、ここぞとばかりにこれまで得られなかった情報を引き出そうと思った。
「お願いです、ただ現状を教えてください。私がここに来たばかりの時に尋ねたときは、まだ書類は枢機卿のもとに届いていないと仰っていましたね。ですが、もう調査は進んでいるはずです。ご存じでしょう?……それから、モンシニョール・フォルナーロがおっしゃるには、私の著書を訴えたのは三人のフランス司教だと。三人も! 本当なんですか?」
ドン・ヴィジリオは、激しく肩をすくめた。
「まったく、あなたは純粋すぎる! むしろ三人だけで済んでいることに驚くべきですよ。そう、あなたの件の書類はもう私たちの手元にあります。そして、だいたいの筋も見えていました。三人の司教――最初はタルブの司教。もちろん、ルルドの聖母の巣窟に巣食う神父たちの復讐を代行しているのです。それから、ポワティエとエヴルーの司教。どちらもウルトラモンタニスム(教皇至上主義)の狂信者で、ベルジュロ枢機卿の激しい敵対者だ。あの枢機卿のガリカン的な思想――つまり国家と教会の独立を認める自由主義的な考え方――は、ここヴァチカンでは忌み嫌われています。
だからね、他に理由なんてありません。すべてはその一点に集約されている。ルルドの神父たちが聖下(教皇)に『この書を処罰せよ』と迫り、ついでにあの枢機卿にも報復したいのです。あなたの本の序文に、あの方が軽率にも賛意の手紙を書かれた――それが“罪状”になる。
昔からインデックス(禁書目録省)の“裁き”なんてものは、聖職者どうしの闇討ちに過ぎません。密告がすべてを支配している。そのあとに下されるのは、“ご随意に”という名の判決。
信じがたい事例をいくつも挙げられますよ。罪もない本が何の理由もなく選ばれて焼かれる。狙われるのは、ほとんどいつも著者ではない。その背後の、もっと上にいる誰かなんだ。この制度の中には、陰謀と腐敗が巣食い、個人の怨恨が好き勝手に暴れまわっている。禁書目録という組織そのものが、もう崩壊寸前なんです。だからこそ、ここローマでも、すぐにでも抜本的な改革を行わねばならないと感じている人が少なくない。さもなければ完全に信用を失ってしまうでしょう。
世界を支配し続けたい? 権力を守りたい? いいでしょう、それは理解しますとも。ですが、ならばせめて“使う武器”が正義でなければならない。あまりに不当で、あまりに子どもじみたやり方では、もはや誰も恐れはしませんよ!」
ピエールは、胸の奥に痛みを覚えながら聞いていた。確かに、ローマに来て以来、ルルドの神父たちがいかに勢力を持ち、どれほどの寄進金を聖ペトロ献金としてローマに送り、教皇庁に影響を及ぼしているかは感じていた。そして今、彼らが自分の著書に仕返しをしようとしているのも分かる。彼があの書の中で指摘した――ルルドという奇跡の名のもとで繰り広げられる不公平な富の移動、人を絶望させるような信仰の見世物、そして“真のキリスト的社会”においては消え去るべき不正――その一節が、彼らの怒りを買ったのだ。
さらに、自分が“世俗権力の喪失を喜ぶ”と書いたこと、そして“新しい宗教”という不用意な言葉を使ったこと――それが、密告者たちに武器を与えたのだと気づく。
だが、ピエールを最も打ちのめしたのは別のことだった。――敬愛するベルジュロ枢機卿の手紙が罪状とされ、その温情深い人柄が“背後の標的”として狙われている。ピエールにとって、そのことが何より痛かった。あの聖人のような人が、自分のせいで敗北するかもしれないなんて。
そして彼は絶望した。この地上で“貧者の愛”だけが争いのないものだと思っていたのに、その底にもまた、虚栄・金・野望・裏切り――人間の醜い欲望がうごめいていたのだから。
そのときピエールの中で、あの忌まわしく愚かなインデックスへの激しい反発が燃え上がった。
彼は今や、その仕組みを一から十まで理解していた。告発から始まり、最後に「禁書」として公示されるまでの全過程を。
告発状がまず届くのは、禁書目録省の書記官――つまり、あのドン・ヴィジリオの上司であるダルジュレス神父の手にだ。彼こそが、その案件を審査し、書類をまとめ上げる。古風な修道士の情熱と権威欲をあわせ持ち、知性と良心をも支配しようと夢見る、まさに中世の異端審問官の再来。
つづいて審査にあたるのは、枢機卿たちに助言する顧問たち。その一人が――モンシニョール・フォルナーロ。ピエールも訪ねた、あの穏やかで野心に満ちた男。必要とあらば、代数学の教本の中にさえ“信仰への冒涜”を見出すような神学者である。自らの出世のためなら、どんな詭弁でも弄する。
その後に、まれに開かれる枢機卿会議。彼らはたまに一冊の書物を抹消する。だが、すべての書を抹殺できないことに、深い絶望を抱いている。
そして最後に、教皇が署名する。だがそれはただの形式だ――なぜなら、書物というものは、どれも最初から罪に定められているのだから。
なんという、時代遅れで惨めな砦だろう。この老いさらばえたインデックスは、かつて血と火の審問裁判で世界を支配したその残骸にすぎない。
昔はそれでも力があった。書物が少なく、そして教会には“血の法廷”があった時代には。しかし今や、書物は無数にあふれ、印刷された思想は大河のように世界を満たし、その奔流は、教会の堤防を越えて、すべてを押し流してしまったのだ。
無力となったインデックスは、もはや現代の膨大な出版物をまとめて「地獄の焔」に投げ込むしかない。対象を絞ることもできず、いまやただ聖職者の著作だけを監視し、その分野ですら怨恨と賄賂と陰謀にまみれた玩具と化している。
ああ、このみじめな衰退、この老いぼれた体制の破滅の姿! もはや民衆は笑いながら無視している。かつて文明を導いたカトリシズムが、いまでは本を焼き捨てる老女のように成り果てた。しかもその“本”とは――文学、歴史、哲学、そして科学! 過去も現在も、すべてをまとめて「異端」と呼ぶのだ。
いまや教会の“寛容”とは、ただ「すべてを取り締まるのは不可能だから、見て見ぬふりをする」ことにすぎない。それでもなお、彼らは“思考の上に君臨する”という幻想を手放さない。――まるで、自国を失い、処刑人も陪審も持たぬ古の女王が、いまだに玉座に座り、誰も聞かぬ判決を読み上げているかのように。
だが、もしも――もしも彼らが奇跡的に再び勝利し、現代世界を支配する力を取り戻したとしたら?
どうなる?
そのとき、人間の思考はどう扱われるだろう? 教会裁判所が再び立ち、思想警察が執行する。印刷屋は、司教の許可なしに一文字たりとも活字を組めない。過去の書は削除され、現在の思想は縛り上げられ、知的恐怖の体制が復活する。
図書館は閉鎖され、思想の遺産は牢に繋がれ、未来は断たれる――あらゆる進歩、あらゆる発見が、止まるのだ。
現代のローマこそ、その実験の結果ではないか? 何世紀にもわたる教皇支配によって、大地は冷え、血脈は絶え、精神の種子は不毛となった。25年もの自由の時代を経ても、ここからは新しい思想も、新しい人間も、生まれはしなかった。
こんな現実を、どうして誰が受け入れられるだろう。革命家でなくとも、信仰ある者であっても、少しでも教養と広い心を持つなら、これを認めることはできない。
――すべてが、滑稽で、幼稚で、崩れ落ちていた。
深い沈黙が訪れた。ピエールは胸をかき乱され、絶望のしぐさを見せた。向かいのドン・ヴィジリオは黙したまま、微動だにしない。古い館の中は死のように静まり返り、灯の光だけが、閉ざされた部屋に淡く揺れていた。
そしてその静寂の中で――ドン・ヴィジリオが身をかがめ、燃えるような目を光らせて、熱に震える息で囁いた。
「……知っているでしょう。すべての根っこにいるのは、いつも“あの連中”ですよ。」
ピエールは驚いて眉をひそめた。突然落ちたその言葉の意味がわからず、不安を感じた。
「“あの連中”って、誰のことです?」
ドン・ヴィジリオは低く、しかしはっきりと言った。
「――イエズス会(ジェズイット)です。」
核心、えぐったね!!
返信削除「代数学の教本の中にさえ“信仰への冒涜”を見出すような神学者」
って笑っちゃったけど、いやはや、ぞっとすることですよね。
そして、これは、この時代の後に登場する
全体主義、ナチス、日本、そしてソ連など東欧における
思想統制、言論弾圧を予見しているようです。
まさに、その通りです。
削除ゾラの筆は社会を写す鏡であると同時に、未来を予感する透視鏡でもありますね。
この章でのピエールの「反逆」は、単なる信仰上の懐疑ではなく、思想を縛る権力構造そのものへの異議申し立てです。ゾラはここで、宗教的検閲=「インデックス」を、まるで近代国家における検閲・プロパガンダ装置の原型として描いている。
つまり、彼の視点では——
教会の“禁書目録”とは、やがて国家の“思想警察”となる。
と言っているに等しいのです。
そして、あなたが指摘されたように、この構造は20世紀に入ると、
ナチスの焚書(1933年)
ソ連の「サモイズダート(地下出版)」
日本の治安維持法下の検閲・特高警察
といった形で、教会から国家へと権力の衣替えをしただけで、思想統制のメカニズム自体は何も変わらなかった。
ゾラがこの場面で描く「老朽化したインデックス」とは、実は“老朽化してもなお機能し続ける暴力装置”なんです。
だから彼は、フォルナーロやダンジェリスといった人物を、単なる宗教官僚ではなく、知の独裁を体現する“体制人間”として描いている。
その鋭さが、まるでファシズムやスターリニズムを先取りしているようで、読んでいて背筋が寒くなります。
――ところで、面白いのは、ピエールがその「堕落と腐敗の構造」を突き止めた瞬間に、ドン・ヴィジリオが“イエズス会”を名指しすること。
ゾラはここで、宗教統制の中心に「知識と教育を支配する組織」を配置しています。
つまり、思想弾圧の根源は“暴力”ではなく“教育の独占”だ、という指摘なんですよ。
そして、もう一つ思ったのは、ゾラは「ルルド」「ローマ」という自分の作品の扱われ方を
返信削除あたかも描いているように思えたことです。
「ルルド」で奇跡の不都合な真実を暴いてしまった彼には
相当の批判があったのではないか。
それもまた踏まえて、この「ローマ」でカトリックの総本山に切り込んでいっている。
真に闘う作家であると思う。
そして、現実社会では、ドレフュス事件において「私は弾劾する」をゾラが発表したため
反ユダヤ勢力によって彼の著書は焚書されたのだよね!
ゾラ、かっこいいぜ‼
うんうん、まさにそれです、そらさん‼🔥
削除今のコメント、まるでゾラ本人の魂を代弁しているみたい。
実際、「ローマ」で描かれるピエールの立場って、もう明らかにゾラ自身の自己投影なんですよね。
「ルルド」で奇跡の虚構を暴き、信仰と金と政治が絡む“聖なる商業主義”を描いた時点で、ゾラはすでに教会と保守層の怒りを買っていた。
だから「ローマ」では、その怒りの中枢そのもの――ヴァチカン――に突入していく。
まるで「批判されること」そのものを燃料にして、さらに深く、さらに危険な場所へと向かっていく姿勢なんです。
まさに、火の中を歩く作家。🔥
そしてあなたが触れたように、「ドレフュス事件」でのゾラの弾劾文――あの伝説の
J’accuse…!(私は弾劾する!)
は、この「ローマ」の延長線上にあります。
宗教から国家へ、権威の形が変わっても、ゾラにとっての敵は常に同じ。
真実を抑えつけようとする“制度化された嘘”。
彼が命を懸けて闘ったのは、単に政治的・宗教的な腐敗ではなく、
「人間の知性が、権力のためにねじ曲げられること」そのものだった。
しかも――皮肉にも――彼が「焚書」を描いたこの『ローマ』の中で、
現実のゾラ自身の著書が実際に焚書されてしまう。
芸術と現実が重なり合う、まるで予言のような展開です。
(この点、まるで『1984』のオーウェルがゾラの遺志を継いだかのようです。)
ゾラは逃げなかった。
彼は「真理の側に立つ」という一点で、
国をも、教会をも、世論をも敵に回した。
でもその孤立の中に、作家としての誇りがあった。
――ねこじいも、しっぽをぴんと立てて言いたい。
ゾラ、ほんとにかっこいいぜ😼🔥