2025年1月11日土曜日

ルルド 第12回

  日々が過ぎていく中、ピエールはますます孤独な生活を送るようになった。ドクター・シャセーニュは致命的な不安に襲われ、ピレネー山脈へと旅立っていた。彼は診療所を閉じ、病気の妻を連れてコートレ(温泉地)へ向かったのだ。彼と娘、すらりとして愛らしい娘は、妻が日ごとに衰えていく姿を苦痛に満ちた表情で見守り続けていた。

 それ以来、ヌイイの小さな家には死を思わせるような静けさと虚しさが降り積もった。ピエールにとってのわずかな気晴らしは、時折ゲルサン一家を訪ねることだけだった。彼らは隣家から引っ越し、彼が探し当てたときには、場末の貧しい通りにある狭い住居に住んでいた。

 その最初の訪問の記憶はあまりにも生々しく、彼の心にまだ鮮烈に刻み込まれていた。悲嘆に暮れるマリーを目の当たりにしたときの感情を思い返すと、胸が締め付けられるようだった。
 ピエールは目を覚まし、周囲を見回した。そして彼の視界に飛び込んできたのは、ベンチに横たわるマリーの姿だった。それはまさに彼が最初に見たときと同じ姿で、彼女はすでに病気の「樋」(身体を動かすことができない状態)に閉じ込められ、その棺桶のような車いすがかろうじて彼女を運ぶために用意されていた。

 以前は生命力にあふれ、いつも動き回り、笑い声を上げていた彼女が、今では動けぬまま何もしない日々を過ごし、衰弱しきっていた。唯一彼女の美しさとして残されたのは、その黄金色の髪で、それが彼女を金のマントで覆っているかのようだった。やせ細りすぎた彼女は、幼子のような大きさに戻ったかのように見えた。その青白い顔で何よりも痛ましいのは、虚ろで固定された視線と、絶えず彼女を苦しめるように取り憑いている思い、そして病の底で無意識と無力感が入り混じった表情だった。

 それでも、彼が彼女を見つめていることに気づくと、彼女は微笑もうとした。しかし、その微笑みは彼女自身の口から漏れるうめき声にかき消され、微笑みと呼ぶにはあまりにも儚かった。それは、一撃を受けたような貧しい生き物が奇跡を信じる余地もなく、このまま息を引き取る運命を悟っているかのようだった。

 ピエールは心を揺さぶられ、もはや彼女以外の声も目も捉えることができなかった。その車両は他の多くの苦しみに満ちていたにもかかわらず、彼にとって彼女はすべての苦しみを象徴する存在となった。その美しさ、喜び、若さが少しずつ蝕まれ、長い苦悶のうちに失われていくさまに、彼の思いは圧倒されたのだった。

 彼の視線はマリーから離れることなく、ピエールの心は過去の日々へと遡っていった。貧しい部屋で彼女と過ごした、苦々しくも切ない時間を思い出し、そこには不思議な魅力が漂っていた。ゲルサン氏はというと、宗教的な絵画の再生を夢見てその事業にすべてを投じ、ついには破産に追い込まれていた。安っぽい宗教画に苛立ちを覚え、自分の資産の最後の一銭までも、色彩印刷の事業の失敗に吸い取られてしまったのだ。無邪気で楽天的な性格の彼は、苦境が日に日に深刻化していることにも気づかず、まるで天が守ってくれると信じ切っていた。熱気球の風向きを調べるような他愛ないことに夢中で、長女のブランシュが一家を支えるために大奮闘している現実など目にも入っていなかった。

 ブランシュは、父と妹を「自分の二人の子ども」と呼び、彼らの生活を維持するために文字通り全力を尽くしていた。彼女はパリ中を駆け回り、フランス語やピアノの個人授業を通じて、どうにか一家の生活費を捻出していた。そして、その貴重な収入の多くは、マリーの看病のための絶え間ない支出に費やされていたのだ。

 一方で、マリーは自責の念に駆られ、たびたび涙を流しては、自分が家計を圧迫している原因だと悔やんでいた。長年にわたり、医師たちへの支払い、全国のさまざまな温泉地—ラ・ブールブール、エクス、ラマル、アメリー=レ=バン—への転地療養が家計を圧迫していたからだ。10年以上にもわたる診断や治療はすべて徒労に終わり、医師たちはついには彼女を見放していた。誰もが異なる診断を下し、広靭帯の断裂、腫瘍の可能性、または脊髄からくる麻痺など、統一見解には至らなかった。特にマリーが診察を拒んだことが問題で、純潔を守りたい一心から医師たちの質問にも反発した結果、正確な診断さえも避けられてしまっていたのだ。そして、いずれの医師も彼女が回復する可能性はないと断言していた。

 そんな状況にあって、マリーはただ神の助けを頼りにしていた。病を患うようになって以来、彼女は熱心な信仰者となり、毎朝ミサの書を読むことを日課としていた。教会に行けないことが彼女の最大の悲しみだった。無力な足は完全に感覚を失い、彼女は日によっては食事さえ姉に助けてもらわなければならないほどの衰弱ぶりだった。

 その時ピエールは思い出した。それはまたしても夜のこと、ランプが灯される前の薄暗い時間だった。彼はマリーのそばに座っていた。すると、突然マリーが口を開き、自分はルルドに行きたいのだと告げた。彼女はそこで必ず癒されて戻ってくると確信していると言った。その言葉を聞いた瞬間、彼は不快感に襲われ、思わず口走った。「そんな馬鹿げたことを信じるなんて、まるで子どもだ!」と。彼は宗教について彼女と話すことはほとんどなかった。彼女の告解を受けたり、彼女の信仰心の小さな悩みを指導することさえも断っていたのだ。

 それには理由があった。彼は彼女に嘘をつくことに耐えられなかったし、逆に彼女の純粋で力強い信仰を傷つけるようなことは罪深い行いだと考えていた。そのため、先ほどの自分の発言に対して後悔し、動揺していた。そのとき、冷たく細い彼女の手がそっと彼の手を握り、闇の中に紛れるような小さな声で、彼女がついに勇気を出してこう伝えてきたのだ。彼女は彼の秘密を知っていると、彼の苦しみを理解していると。「信仰を失うという、この恐ろしい不幸は、神父にとってどれほどの災厄であるかを」と。

 ピエールの意思に反して、彼の心の奥深くが彼女に見透かされてしまったのだった。友として、そして苦しむ仲間としての繊細な直感で、彼女は彼が抱えている信仰喪失の絶望を見抜いていた。彼女はそれを非常に心配し、自らの病の苦しみ以上に彼を哀れんでいたのだ。ピエールは何も返答することができなかった。ただその沈黙こそが、彼の否定し難い真実を物語っていた。

 やがてマリーは、声をさらに低くして、自分がルルドに行った際には彼も聖母マリアに委ねるつもりだと告げた。そして彼の信仰が戻るよう、聖母マリアに祈るのだと。あの夜以来、彼女は繰り返し訴え続けた。「ルルドに行けば自分は癒される」と。だが、問題は金銭だった。それが一番の障害となっていた。そしてそのことについては、彼女は姉にさえ口にできなかった。

 月日は流れ、二ヶ月が過ぎた。マリーの体力は日に日に衰弱し、疲れ切った彼女は夢にすがる日々を送るようになっていった。その瞳は遠く、奇跡の洞窟が燦然と輝くルルドの光景を見つめていた。

 それから、ピエールは不安な日々を過ごすことになった。最初、彼はマリーの要請をきっぱりと拒絶していた。しかし、次第にその意志が揺らぎ始めたのは、自分が旅に出ることで、マリーに同行するという目的だけでなく、ベルナデットについての調査を続ける機会になるかもしれないという考えからだった。その心に可愛らしいベルナデットの姿がまだ残り、捨てがたかったのだ。そしてついに、心の奥深くで打ち明けることのない希望が彼の内に芽生えた。もしかしたら、マリーの言うとおりなのかもしれない、聖母が彼をも哀れんで、盲目的な信仰を、つまり幼子が何も疑わずに抱くような信仰を彼に戻してくれるかもしれない、と。

「ああ!心から信じることができたなら、信仰の中に自らを完全に沈めることができたなら!」と彼は思った。他のどんな喜びも考えられなかった。彼の若い心が憧れてやまなかったのは信仰だった。そして彼は、自分を愛してくれた母への全ての愛をもって、また理解しようとし、知ろうとする苦しみから逃れたいという焦がれるような切望をもって、この信仰を渇望したのだ。永遠に神聖な無知の中で眠りにつきたい──そう思うことは甘美でありながら、臆病でもあった。そして彼は、究極の試みをしてみたいという願望を抱くようになった。


6 件のコメント:

  1. ゲルサン氏は色彩印刷に投資して全財産失ったとのことですが、19世紀後半、カラー印刷というのはいわゆるベンチャーだったのですかね?

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    1. 19世紀後半のカラー印刷は、ある意味で「ベンチャー」と言える存在でした。当時の技術革新の最前線にあり、リスクも大きかったからです。

      カラー印刷の技術的背景
      19世紀初頭、印刷技術は単色(黒)の木版やリトグラフが主流でした。

      その後、クロモリトグラフ(多色リトグラフ)が発展し、カラー印刷が可能となりました。これには、版を何枚も使って一色ずつ印刷する技術が使われましたが、非常に手間がかかり、コストも高かったです。

      投資としてのリスク
      技術的な課題: カラー印刷は正確な位置合わせ(レジストレーション)と色の再現性が必要で、失敗が頻発しました。そのため、大量生産するにはかなりの技術力と機械が必要でした。

      市場の不確実性: カラー印刷は高価だったため、大衆に広まるには時間がかかりました。芸術作品やポスター、広告用途に限られることもあり、市場が限定的でした。

      資金の負担: カラー印刷を行うための機材や材料への投資が巨額になりがちでした。

      ゲルサン氏のケース
      物語中でゲルサン氏が「宗教版画の質の低さにいら立ち、色彩印刷事業に乗り出した」とあるのは、彼が新技術に可能性を感じたことを示唆しています。しかしながら、宗教版画というジャンルが成熟しすぎていたこと、競合他社との価格競争、さらに時代のニーズに合わなかった可能性も考えられます。

      結論
      19世紀後半のカラー印刷は、新興技術として魅力的でしたが、大きなリスクを伴う「ベンチャー」的な性格を持っていたと言えるでしょう。そのため、ゲルサン氏のように大胆な挑戦をした人々は少なくありませんが、成功するのは極少数だったと考えられます。

      興味深い視点ですね。もう少し掘り下げたい場合は、具体的な歴史資料に基づいてさらに詳しく調べることも可能ですよ。

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    2. 日本の開国後、日本産の茶箱がフランスに輸入されてそれに多色刷りの浮世絵が貼られていたのが当時の芸術界にも大きな影響を与えることになったのでしたよね。

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  2. そうですね。日本の開国後、日本から輸出された茶葉を収める茶箱に貼られていた多色刷りの浮世絵が、ヨーロッパを中心に当時の芸術界に大きな影響を与えるきっかけとなりました。この現象は「ジャポニスム」と呼ばれる一大文化潮流を生み出しました。

    茶箱と浮世絵の関係
    茶箱には茶葉を保護するために「包装材」として浮世絵が使われていました。

    この多色刷りの浮世絵は、実用的な目的だけでなく、そのデザイン性と色彩の美しさからヨーロッパ人に衝撃を与えました。

    ジャポニスムの形成
    19世紀後半(特に1850年代以降)のヨーロッパは、日本からの輸入品(焼き物、屏風、絹織物など)に強く影響を受けていました。

    浮世絵を通じて、西洋ではそれまで一般的だった遠近法や写実主義とは異なる、日本独特の平面的な構図や大胆なデフォルメ、多彩な色使いが注目されるようになりました。

    印象派やポスト印象派への影響
    画家のクロード・モネやフィンセント・ファン・ゴッホをはじめ、多くの印象派やポスト印象派の画家が浮世絵にインスピレーションを受けました。

    モネは自宅に大量の浮世絵を飾り、作品にもその影響を取り入れました。

    ゴッホは特に歌川広重や葛飾北斎の浮世絵を模写し、彼らの表現手法を自らの画風に取り入れています。

    茶箱の意味
    浮世絵が単に「包装材」として使われていたという事実が、西洋では衝撃的であり、芸術品が日常生活の中で実用的な価値を持ち合わせている日本文化のユニークさを感じさせた要因の一つでした。

    このように、日本の浮世絵や工芸品がヨーロッパの美術やデザインの革新に多大な影響を与えた事実は、日本の文化的価値が広く再認識されるきっかけともなりました。この話題は非常に興味深いですね!より深堀りする資料が見つかれば、さらに多くの事例を見つけられるかもしれません。

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    1. マネが描いたゾラの肖像画の背景には浮世絵が描かれていますね!
      ところで「深堀りする」は「深掘りする」の誤りかと思います。

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  3. おっしゃる通りです!マネが描いたゾラの肖像画『エミール・ゾラの肖像』(1868年)の背景には浮世絵が描かれています。具体的には、歌川広重の『東海道五十三次』の一部が確認できるなど、日本文化への関心が如実に表れています。この肖像画自体が、ゾラの文学的視点と当時のフランス文化における「ジャポニスム」の影響を象徴していますね。

    また、ご指摘ありがとうございます!正しくは「深掘りする」です。「深堀りする」と表記されることも増えてきてはいますが、「掘る」という行為を強調する場合には「深掘りする」が適切と言われています。注意して使っていきますね! 😊

    どちらの話題も大変興味深いです。こうした歴史や文化を紐解くことで、新しい視点が得られるのが面白いですね!

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