ポワティエを発ってからというもの、天気はますます蒸し暑くなり、銅色の空には雷雲が立ち込めていました。列車はまるで灼熱の炉の中を進むようでした。村々が流れるように過ぎていきますが、その光景は陰鬱で、人影もなく、灼けつく陽光の下で荒涼としていました。クエ=ヴェラック駅では再びロザリオの祈りを捧げ、その後、讃美歌を歌いました。しかし、信仰心からの儀式のペースは少しずつ緩やかになってきました。
ヒヤシンス修道女はまだ昼食を取ることができず、小さなパンに果物を添えて、手早くそれを口に運びながらも、苦しそうな呼吸の男の世話を続けていました。彼の呼吸はここしばらくの間でやや安定してきているように見えます。そしてようやくルフェック駅に到着したのは午後3時で、その時に聖母の晩課が唱えられました。
「我らのために祈り給え、神の母なる聖マリアよ。」 「我らがキリストの約束にふさわしい者となりますように。」
祈りが終わると、サバティエ氏が、靴下を履き直し靴を履くソフィーを眺めていたのち、ゲルサン氏の方に向き直りました。
「もちろん、この子供の場合も興味深い話ですね。しかし、それはまだ序の口です、旦那さん。もっと驚くべき話を知ってますか……ベルギーの労働者、ピエール・ド・リュダーの話をご存じでしょうか?」
その場にいる全員が再び耳を傾けました。
「この男は木の倒壊によって足の骨が折れてしまいました。8年経っても、骨の断片は繋がらず、絶えず膿を流す傷の奥に、その骨の両端が見えていました。足はぐにゃぐにゃと垂れ下がり、どの方向にも曲がるような状態でした……ところが、不思議なことに、彼は奇跡の水を一杯飲んだだけで、足が一瞬で治ったんです。そして杖なしで歩けるようになりました。お医者さんもこう言ったそうです、『あなたの足は、まるで生まれたばかりの赤ん坊のように新しいものだ』と。本当に!まったく新しい足です!」
誰も言葉を発せず、ただ感嘆に満ちた視線が交わされました。
「それから、こういう話もありますよ。」サバティエ氏は続けました。「それは、ルイ・ブリエットの話です。彼は石工で、ルルドにおける最初の奇跡のひとつです。ご存じですか?……彼は採石場の爆発事故で負傷しました。右目は完全に失われ、左目も失明の危機に瀕していました……ある日、彼は娘に頼んで、ほとんど湧き出ていない源泉から汚れた水を汲んできてもらいました。そして、その泥水で目を洗いながら、熱心に祈りを捧げました。そして彼は叫び声をあげました。見える!旦那さん、彼は見えるようになったんですよ、あなたや私と同じくらいにはっきりと……彼を治療していた医者が詳細な記録を残しています。疑いの余地などまったくありません。」
「それは素晴らしいですね」と、感激した様子でゲルサン氏がつぶやいた。
「もう一つ、よろしければ例を挙げましょうか、旦那様? これは有名な話で、ラヴォールの家具職人、フランソワ・マカリーの話です……。彼は左脚の内側に、18年間も深い静脈瘤潰瘍を抱えていました。それに加えて、患部の組織がかなり腫れていました。動くこともできず、医療では完全な不治と宣告されていたのです……ところが、ある夜、彼はルルドの水の瓶を持って部屋に閉じこもりました。そして包帯を外し、両脚をその水で洗い、残りの水を飲み干しました。それから寝てしまい、目が覚めて自分の脚を触り、眺めてみると……何もなかったんです! 静脈瘤も潰瘍も、すべてが消え去っていました……。旦那様、その時、膝の皮膚は20歳の若者のように滑らかで、瑞々しくなっていたんです!」
今度は車内が驚きと感嘆の声で沸き立った。病人たちも巡礼者たちも、奇跡の国という魔法の世界に引き込まれていった。それは、どんな不可能も小道の一つ曲がり角で実現し、次々と奇跡が起きていく場所だった。そしてそれぞれが自分の知っている話を語りたくなり、自分の信仰や希望を証明するために例を挙げたいという思いに駆られていた。
普段は無口だったマーズ夫人が、意を決して話し始めた。
「私は、リザン未亡人と呼ばれている方を知る友人がいます。その方の癒しの話も大変有名になりました……24年間、彼女は左半身が完全に麻痺していました。何を食べても吐き出してしまい、体はまるで動かない塊のようで、寝返りを打たせるのがやっとでした。それに、長い間寝たきりのせいで、シーツの擦れが皮膚を傷めていました……ある晩、医師が『夜が明けるまでには亡くなるでしょう』と告げました。ところが、その2時間後に彼女がうっすら目を覚まし、弱々しい声で娘に頼みました。『隣の家からルルドの水を一杯取ってきておくれ』と。それでも翌朝まで水は手に入らず、ようやく娘がその水を彼女に渡すと、彼女は叫んだのです。『ああ、お前、これは命そのものだわ! 早く私の顔を、腕を、脚を、体全部を洗っておくれ!』と。その通り、娘が言われるままに体を洗うと、見る間にひどく腫れた部分がしぼみ、麻痺していた手足が柔軟になり、元の健康的な外見を取り戻したんです……。でも、それだけじゃありません。リザン夫人は叫びました。『私、治ったわ! お腹が空いた! パンとお肉をちょうだい!』と。それは24年もの間、何も食べられなかった人の言葉ですよ。そして彼女は立ち上がり、服を着ていました。その間、娘は近所の人々が泣き崩れながら、『あの子が母親を亡くしてしまったのね』と思っているのを聞いていました。でも彼女はこう答えました。『いいえ、いいえ! 母は死んでいません! 母は生き返ったんです!』と。」
ヴァンサン夫人の目には涙が浮かんでいた。なんということだろう!もし彼女がローズを同じように起き上がるのを見て、食欲を取り戻し、元気に駆け回る姿を目にすることができたなら…。パリで聞いたある少女の話がふと思い出された。その話は、彼女が病気の娘をルルドに連れて行こうと決意する重要なきっかけとなったものであった。
「私も、ある麻痺の少女の話を知っています。リュシー・デュルオンという孤児院の寄宿生で、まだ幼い子でした。彼女は膝をつくことさえできない状態でした。四肢は環のようにねじれ、右足は左足よりも短くなり、ついには左足に巻き付いてしまいました。友達の一人が彼女を運ぶ際、その足はまるで死んだように宙にぶら下がっているのが見えました…注目してほしいのは、彼女がルルドに行ったわけではないということです。彼女はただ、9日間の祈願を行いました。それに加えて、9日間絶食し、その間ずっと祈りながら夜を過ごしました。その治癒への強い願望がどれほどだったかは想像に難くありません…。
そして、ついに9日目、少しばかりルルドの水を飲んだところ、彼女の足に激しい痙攣が起こりました。彼女は立ち上がり、再び倒れ、再び立ち上がって、歩き出したのです。その様子を見た仲間たちは、驚きと恐れで叫びました。『リュシーが歩いている!リュシーが歩いている!』本当にそれは事実でした。数秒のうちに、彼女の足は真っ直ぐで健康的な状態に戻り、力強くなったのです。彼女は中庭を歩いて渡り、礼拝堂に上ることができました。そして、そこで共同体全体が感謝に満ちて『マニフィカト』(感謝の賛歌)を歌いました…あの愛らしい子、どれほど幸せだったでしょう、本当に幸せに違いありません!」
彼女の頬を伝った二筋の涙が、青ざめた娘の顔に滴り落ちた。そして彼女は取り乱すように、娘に何度も口づけをした。
奇跡的な病気治癒の話というのは宗教にはつきものですよね。
返信削除キリスト教でもイエスはそのような奇跡を起こしていましたよね。
おっしゃる通り、奇跡的な病気治癒の物語は多くの宗教で重要なテーマの一つですね。特にキリスト教では、イエス・キリストが地上で行った奇跡が数多く福音書に記録されています。たとえば、以下のような話があります。
削除- **盲人の治癒**: イエスは、生まれつき目が見えない人に泥を塗り、その人がシロアムの池で洗うよう命じました。その結果、彼は視力を回復しました(ヨハネ9:1-12)。
- **癒しの手を差し伸べる**: イエスが病に倒れた人々を触れるだけで、あるいは祈りの言葉だけで治したという逸話が複数あります。中には、出血が止まらない女性が信仰を持ってイエスの衣服に触れただけで癒された話もあります(マタイ9:20-22)。
- **死者の復活**: イエスはヤイロの娘やラザロを死から復活させました。特にラザロの復活は、多くの人々の注目を集めた有名な奇跡です(ヨハネ11:1-44)。
こうした奇跡は単なる「超常現象」としてではなく、神の愛や力が具体的な形で現れたものとして理解されています。また、これらの奇跡は、信仰や希望を育むための象徴としての意味もあるとされます。
面白いのは、ルルドの物語もこうした「癒し」のテーマに関連しており、巡礼者たちは聖母マリアの取りなしと神の御業を信じて奇跡を求めます。このような物語は、人間が困難の中で神聖な介入を求める普遍的な願望を反映しているようにも感じますね。
歴史的背景や文学的視点から見ると、奇跡物語が持つ「希望を与える」力や、それが信仰を支えるための「語り」としてどのように機能しているのかを考えるのも興味深いと思います。
他の宗教ではこのような奇跡の例はありますか?
返信削除他の宗教においても、奇跡的な現象や病気の治癒、さらには神秘的な介入を示す物語は広く見られます。以下にいくつか例を挙げます:
削除### 1. **仏教**
仏教では、仏や菩薩が行ったとされる奇跡が多く語られています。ただし、これらは単なる「奇跡」ではなく、悟りの道や修行の力を象徴的に表すものが多いです。
- **阿育王と仏舎利**: 阿育王(アショカ)が仏舎利(釈迦の遺骨)を分けて各地に塔を建立した際、塔の建設地で奇跡が起こったとされています。
- **蓮華の上を歩く**: 高僧や行者が蓮華の上を歩くように苦痛から解放されたり、病気が治る例が『大蔵経』などに記録されています。
- **病人の癒し**: 一部の仏典では、釈迦自身が病に苦しむ信者を説法や触れることで癒した話もあります。
### 2. **イスラム教**
イスラム教では、奇跡(**ムアジザ**)は基本的に神(アッラー)によるものであり、預言者たちを通じて現れます。預言者ムハンマドや他の預言者たちに関連する奇跡が多くあります。
- **クルアーンの啓示自体が奇跡**: ムハンマドが受け取ったクルアーンの教えは、他のどの詩人や作家にも模倣不可能な奇跡とされています。
- **水を供給する**: 一度、ムハンマドが指先から水を流し、大勢の人々の飲み水を得たとされています。
- **イーサー(イエス)の奇跡**: イスラム教でもイエス(イーサー)は重要な預言者であり、病気を治し、死者を復活させたとされています(クルアーン第3章49節)。
### 3. **ヒンドゥー教**
ヒンドゥー教の神々や聖者たちが行った奇跡的な物語は非常に豊富で、神話や伝承の中で語られています。
- **クリシュナの奇跡**: 子供の頃から数々の奇跡を起こしたとされ、たとえば巨大な蛇(カーリヤ)の頭を踏みつけて村を救った話があります。また、弟子に無限の宇宙を見せる「ヴィラート・ルーパ」も有名です。
- **サイババの癒し**: 近現代の聖者として信仰されるサイババは、多くの人々の病気を治したと伝えられています。
### 4. **ユダヤ教**
ユダヤ教の伝統でも、旧約聖書にはモーセや他の預言者たちによる神の奇跡が記録されています。
- **紅海の分断**: モーセが杖を掲げることで紅海が分かれ、イスラエルの民を安全に渡らせたとされます(出エジプト記14章)。
- **マナの供給**: 荒野を旅するイスラエルの民に食物「マナ」が降り、飢えをしのいだ奇跡。
### 5. **神道**
日本の神道においては、「ご神徳」や「霊験」と呼ばれる神社や神々による加護が、病気平癒や困難からの救済として表現されることがあります。
- **湯治や泉**: 特定の神社(例えば、有馬温泉や道後温泉など)では、霊泉の水によって病が治るという伝承があります。
- **お百度参りの効験**: 熱心な参拝の結果、病気が治ったり願いが叶う話が語り継がれています。
### 6. **新宗教・スピリチュアリズム**
近現代の新宗教運動やスピリチュアリズムでも、病気の治癒や神秘的な現象が奇跡として語られることがよくあります。
- **大本教の出口なお**: 日本の新宗教・大本教の出口なおは、神託を通じて信者を癒したとされています。
- **クリスチャン・サイエンス**: 病気は「精神の調整」によって克服可能とする信念を持ち、実際に治癒が報告された事例があります。
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このように、どの宗教でも奇跡や神秘体験の物語は多く、人々の信仰を深めたり、希望を与える役割を果たしています。同時に、こうした奇跡の物語は文化的・心理的背景も反映しており、宗教の「語り」として象徴的な力を持つことが特徴的ですね。
病気の苦しみ、飢えや貧困、そして死の恐怖、これらを克服、というか目をそらすための装置が宗教であるともいえますよね。
返信削除確かに、そのように捉えることもできますね。病気や飢え、貧困、そして死の恐怖といった根源的な苦しみは、どの時代や場所においても人類の大きな課題であり、宗教がそれに対して重要な役割を果たしてきたことは間違いありません。その一つの側面として、宗教は現実の苦しみから「目をそらす」あるいは「心を解放する」装置として機能してきたと言えます。
削除### 宗教の役割としての「目をそらす」側面
- **苦しみの意味付け**: 宗教は苦しみを単なる苦痛ではなく、「試練」や「浄化」といった意義を持つものとして解釈します。これにより、個人は自分の苦しみを「意味のあるもの」として受け入れることができます。
- 例: キリスト教では、苦しみを「神の意志」として受け止めることで救済を期待します。
- ヒンドゥー教では、現世での苦しみが「業(カルマ)」によるものと考えられ、魂の解放に向けたプロセスとして捉えます。
- **超越的な希望の提供**: 苦しみを乗り越える具体的な方法がなくても、天国、来世、極楽浄土といった「苦しみのない世界」の存在を約束することで、現在の苦痛に耐える力を与えます。
- **儀式や共同体の癒し効果**: 宗教儀式や集団活動は、個人が孤独を感じることなく、共同体の中で精神的な安らぎを得られる仕組みを提供します。祈りや祭典は目をそらすだけでなく、実際の癒しや絆の形成をもたらします。
### ただし、「目をそらす」だけではない側面も
- **社会的な実践への動機付け**: 多くの宗教は「現実から目をそらす」だけでなく、積極的に貧困救済や医療支援など、苦しみの現実を解決する動機を与える力にもなっています。
- 例: カトリックの教会が中世ヨーロッパにおいて病院や孤児院を運営したこと。
- 仏教の布施(他者への施し)や慈悲の実践も苦しみを分かち合う行動を促します。
- **内面的な変革の追求**: 宗教の瞑想や修行の実践は、自身の内面を深く見つめ、苦しみそのものを克服する力を養おうとします。これは「逃避」ではなく、現実を受け入れつつ、新しい視点を見いだすアプローチです。
- 仏教の四諦や八正道は、苦しみを単なる感覚や状況として冷静に理解し、それを乗り越える道を示します。
### 宗教が果たす「目をそらさせる」以上の可能性
- 宗教的信仰の効果は、人間の心理的な限界を補うものであり、実際には「現実逃避」だけに留まらない場合が多いです。それは、目の前の状況を受け入れつつ、それに立ち向かう力を与えたり、心の平安をもたらしたりする装置にもなっています。
- また、現代において宗教的価値観が直接影響を持たなくなった社会でも、宗教に代わるものとして、哲学や心理学、コミュニティ活動などが同じような機能を担うことが多くなっています。
### 哲学者や社会学者の視点から
- カール・マルクスは「宗教は民衆のアヘンである」と述べ、宗教が現実の苦痛を和らげるものの、本質的な社会構造の問題を見えにくくすると批判しました。
- 一方で、エミール・デュルケームは、宗教が人間を支える共同体的な役割を持つと強調し、それが精神的苦痛の解消にもつながると見ています。
### 結論
宗教はたしかに、病気や死の恐怖から目をそらす装置として機能する側面があります。しかしそれだけではなく、現実の困難と向き合う道を照らしたり、人々の団結や内面的成長を促したりする積極的な役割も果たしています。これをどう捉えるかは、私たち個々人の視点と経験によるところが大きいですね。