ピエールは、マリーを濡らさないように、車椅子を岩屋の庇(ひさし)の下――他の数名の信者たちも避難していたその場所――に押しやったばかりだった。彼は、マリーが燃えるような信仰心で聖体を受ける様子を見つめていた。
そのとき、彼の注意を引いたのは、目を背けたくなるような痛ましい光景だった。その瞬間、彼の心は激しく揺さぶられた。
――土砂降りの雨の中。
太く重たい雨脚のなか、ピエールの目に飛び込んできたのは、両腕を高く差し出して聖母に小さなローズを捧げる、ヴァンサン夫人の姿だった。彼女は、相変わらずその愛しくも痛ましい「重荷」を抱きかかえていた。
「避難所(アブリ)」にはもういられなかったのだ。ローズの絶え間ないうめき声に、まわりの人々が不満をもらしていたから。
そして彼女は、夜の暗闇の中へと飛び出した。自分の胸に、あの哀れな我が子をしっかりと抱きしめて。
2時間以上も、闇のなかをさまよい歩いた。道もわからぬまま、狂気のように走り続けた。
どの道を通ったのか、どの木の下で道を見失ったのか、彼女にはまったく記憶がない。ただあるのは、激しい怒りと悲しみだった――
なぜ、こんなにも弱く、純粋で、まだ罪を犯すことすら知らないこの小さな命が、これほどの残酷な苦しみに苛まれなければならないのか。
それはもはや冒涜ではないか? 数週間にもわたり、鋭い苦痛の鉗子(かんし)で拷問され続けるこの幼い肉体。――自分にはもう、あの叫び声を和らげるすべもなかった。
彼女は子どもを抱いて、村の道を駆け回った。狂ったように歩き、揺らし、抱いて、なだめて――
ひたすらに、ローズが眠ってくれることを願い、あの心を引き裂く悲鳴が止むことを、切実に、執拗に願っていた。
そしてついに――完全に力尽き、娘の苦しみとひとつになるような瀕死の思いで、
彼女はこの「奇跡の聖母」の前に、洞窟の前にたどり着いたのだった。
「ああ、聖母よ、素晴らしき御母よ、どうか彼女をお癒しください……!」
「ああ、神の恩寵の御母よ、彼女をお救いください……!」
彼女はひざまずいた。その両腕には、まだ微かに息を引き取ろうとする娘を抱いたまま。
震える腕に、すべての望みと祈りを込めて――激しい願望と絶望的な希望とが入り混じる、その恍惚のなかで、彼女は魂ごと引き上げられるような思いだった。
雨は、もはや背後から洪水のように彼女を叩いていた。だが、彼女はそれすら感じていなかった。
そして、山々を揺るがすような雷鳴がとどろくなか――彼女は、その瞬間、祈りが届いたとさえ思った。
ローズが微かに身を震わせたのだ。まるで天使が訪れたかのように、目を見開き、口を開き、全身が真っ白になって――
そして、小さく、最後の息を吐いた。もう、あの叫び声は聞こえなかった。
「ああ、救世主の御母よ、彼女を癒してください……!」
「ああ、全能の御母よ、どうか彼女をお癒しください!」
だが、そのとき、彼女は自分の腕に抱かれた娘が、さらにいっそう軽くなったのを感じた。――そして今や、あのうめき声が聞こえなくなっていることが恐ろしくなった。
開いたままの目、開いたままの口、真っ白な顔、まるで息ひとつない。
もし癒されたのなら、どうして微笑んでくれないの?
そして突然――
雷鳴をもかき消すような、嵐の轟音をも貫くような、
裂けるような悲鳴が響いた。
それは、母の叫びだった。
娘は、死んでいた。
ヴァンサン夫人は、すっと立ち上がった。そして、あの耳を貸さぬ聖母像に背を向けた。
――子どもを死なせるような聖母に、何の意味があるというのか。
彼女は、またしても狂ったように歩き出した。叩きつける雨の中を、どこへ向かうとも知れず。
それでもなお、彼女はあの小さな亡骸を腕に抱き、揺らし続けていた。
昼も夜も、何日も、何日も――彼女はこの子をこうして抱き続けていたのだ。
その背後で、稲妻が地面に落ちた。巨人が斧で木を裂いたような轟音とともに、近くの木の枝がひしゃげ、砕け散った。
ピエールは、咄嗟にヴァンサン夫人のあとを追った。彼女を導き、助けたかった。
だが――すぐに、彼はその姿を見失ってしまった。
雨の帳(とばり)が、あまりにも濃すぎた。
ピエールが戻ったときには、ミサはすでに終わりかけていた。
雨は少しおさまり、祭司は金糸の刺繍が施された白絹の傘の下、立ち去ろうとしていた。
一方で、病人たちを病院へ送り返すための乗合馬車が、待機していた。
マリーは、ピエールの手を両手でしっかりと握った。
「ああ、なんて私は幸せなの……! 今日の午後、3時までは迎えに来ないでくださいね。」
ピエールはひとりになった。
細くなりながらもしつこく降り続ける雨のなか、彼は洞窟(グロット)の中へと入っていった。
そして、泉のそばにあるベンチに腰を下ろした。
彼は横になることは望まなかった。
――疲れ果ててはいたが、睡眠はどこか不安だった。
前日から続く神経の高ぶり、そして、ローズの死。それが彼をさらに熱に浮かされたような状態にしていた。
あの「磔(はりつけ)」にされたかのような母が、泥だらけの道を、娘の遺体を抱いてさまよっている――
その光景が、頭から離れなかった。
聖母は、いったい何を基準に選ぶのだろう?
その問いが、彼を困惑させた。
もし彼女が選べるのなら、なぜ、どのように選ぶのか? 彼女の「神の母としての心」は、どうして百人のうち十人だけを癒すことに納得しているのか?
――ボナミー医師の統計によれば、奇跡が起きるのは一割。
自分だったら、誰を選べただろうか?
そのような権能を持つことは、おそろしく、重い責任だ。自分には、その選択をする勇気など持てそうもなかった。
なぜこの子が? なぜあの子ではないのか?
そこに、正義はあるのか?
そこに、慈愛はあるのか?
もし無限の力を持つ存在であれば、すべてを癒すのが当然ではないのか?
それこそが、人々の心から湧き出る叫びではないのか?
今、彼の目に映る「聖母」は――
冷酷で、誤った情報を持ち、まるで自然そのもののように無関心で非情に見えた。
命も死も、気まぐれに、理解しがたい法則によってばらまかれているだけのように。
やがて雨がやんだ。ピエールがそこに座ってから、すでに二時間が経っていた。彼はふと、足元が濡れているのに気づいた。目をやると、驚いたことに――
泉があふれていた。水は、金網の隙間からあふれ出し、洞窟の床を覆い始めていた。
外へと流れ出した水は、ベンチの下を伝い、ガーヴ川の手すりのほうへと流れていた。
最近の嵐が、周囲の水位を上げていたのだ。
彼は思った――
どれほど奇跡の泉であろうと、他の泉と同じ自然法則に従っているのだ。
この泉は、周囲の地中の貯水層とつながっていて、そこに雨水が流れ込み、溜まり、ついにはあふれ出るのだろう、と。
彼はその場を後にした。 足首がびしょ濡れにならないように。
渾身の願いもかなえられることなく、娘を失ったヴァンサン夫人の姿を目の当たりにして
返信削除ピエールもまさに雷に打たれるような衝撃を受けたことが自然現象の描写とともに描かれていますね。
「雷に打たれたような」という表現は古今東西にあるのでしょうかね。
おっしゃる通り、ピエールの衝撃はまさに「雷に打たれたような」感覚として、自然そのものと共鳴する形で描かれていますね。
削除雷鳴が木を裂き、雨が滝のように降る中、母の叫びとともに人間の祈りの限界が露わになる…
――このあたり、まさにゾラらしい**自然主義文学の極点**です。
さて、「雷に打たれたような」という表現ですが、これ、実は**世界各地の文学や日常表現に見られる**ほど、**人間の本質的な驚愕や啓示、衝撃の比喩として普遍的**なんです。
### 🌩 世界の「雷に打たれる」表現あれこれ
#### 🇯🇵 日本語:「雷に打たれたよう」「天啓のように」「青天の霹靂」
- 「青天の霹靂」もまさにこれですね。何の前触れもなく突然起こる衝撃。
- 文学や歌舞伎でも、「雷に打たれる」は恋の目覚めや啓示的な瞬間に使われたりします。
#### 🇫🇷 フランス語:
- 「*être frappé par la foudre*(稲妻に打たれる)」
まさにゾラが使っているそのままの表現。愛に落ちたときにも、「雷に打たれたように恋に落ちた」と表現します。
- また、「*coup de foudre*(雷の一撃)」は、「一目惚れ」の定番表現ですね。
#### 🇬🇧 英語:
- “struck by lightning” や “like a lightning bolt”
こちらも恋や啓示、あるいは突然の啓蒙・気づきに使われます。
- "A bolt from the blue" も、「青天の霹靂」と同義。
#### 🇩🇪 ドイツ語:
- 「*wie vom Blitz getroffen*」(雷に打たれたかのように)
ショックや突然のひらめきを表す慣用句。
#### 🇨🇳 中国語:
- 「晴天霹靂(qíng tiān pī lì)」
まさに「青天の霹靂」そのまま。驚きや予想外の災難を表現します。
---
つまり、「雷=天の力、自然の力」という象徴は、
**人間を圧倒する何か、思考や感情を超えた衝撃のメタファー**として、
**ほぼ世界共通**で使われていると言っていいんですね。
そしてゾラは、**実際の雷鳴と登場人物の心理的ショックを重ねることで、自然と感情を不可分に描いている**。
このあたり、単なる比喩でなく、自然主義の核心的手法だと言えます。
それにしても、ヴァンサン夫人の絶望の姿、
聖母像に背を向けるあの瞬間――
あれもまた、「信仰に雷が落ちた瞬間」だったのかもしれませんね。
---
こういう比喩の共通性に着目する読み方、好きです。
他にも気になる表現があったら、どんどん深掘りしましょうか?
雷が空中の放電現象であることはフランクリンによって発見されたと思いますが、それ以前は雷、稲光というのはどのように認識されていたのでしょうか?
返信削除素晴らしいご質問です!
削除ベンジャミン・フランクリンが雷の電気的本質を実証したのは18世紀中頃(1752年)ですが、それ以前の人類にとって雷とは――自然の驚異であると同時に、神々の声・怒り・意志の表現でもありました。
では時代と文化をいくつか追いながら、「雷」のイメージを掘ってみましょう⚡
🌩 古代~中世:雷は「神の武器」
🏛 古代ギリシア・ローマ
雷=ゼウス(ギリシア神話)/ユピテル(ローマ神話)の象徴
→ 彼らは**雷霆(らいてい)=神々の投げ槍(サンダーボルト)**を持ち、人間に怒りを示すときや他の神を罰する際に使います。
落雷はしばしば「神の怒り」として解釈され、神殿や王に降り注ぐことがあれば「神罰」だったり、「神託」とされたことも。
🐘 インド神話(ヴェーダ時代)
インドラ神が「ヴァジュラ」という雷の武器を持つ。これは悪を打ち倒す神器であり、同時に雨をもたらす豊穣の力でもある。
⛩ 日本神話
雷神(いかづちのかみ)や雷電(らいでん)といった存在がいます。
特に「雷獣(らいじゅう)」という伝承上の生き物が、雷とともに落ちてくるとされました。江戸時代の博物図にも描かれます。
また、「鳴神(なるかみ)」は神仏習合の雷神信仰として発展します。『謡曲』や歌舞伎『鳴神』にも登場。
🌩 北欧神話
トール(Thor)が雷神で、「ミョルニル」というハンマーで雷を起こします。
雷は戦と勇気の象徴。悪を打ち払う正義の力でもあります。
✝️ 中世ヨーロッパ・キリスト教世界
雷や稲妻はしばしば**「神の罰」や「天の裁き」**とみなされました。
特に落雷によって教会が焼けるなどすると、「神の怒りを買った」などと大騒ぎになった。
同時に、「十字を切れば雷は避けられる」「鐘を鳴らすと雷が逃げる」といった民間信仰もありました。
🧪 近代科学の夜明け
フランクリン以前にも「雷は火の一種」と考えられるような自然哲学的な説明も出てきていました(たとえばアリストテレスは『気象論』で雷を乾いた蒸気の爆発と説明)。
ただし、神や超自然的存在との関係が常にセットで語られていたため、科学的とは言い難い部分も多いです。
⚡ フランクリンによる革命
1752年、フランクリンが「雷も火花のような放電現象である」と仮説し、有名な**「凧と鍵」の実験**を行います(※後年の脚色や誇張もありますが)。
これにより、雷は天上の神の怒りではなく、自然界の電気現象であるというパラダイムシフトが起きたのです。
🎭 文化的な残滓
それでもなお、雷は人の心を打ち震わせる現象であり続けました。
シェイクスピア『リア王』では、雷鳴とともに狂気と真理が露わになります。
歌舞伎や民話、童謡にいたるまで、日本でも「神鳴り」は人の心に根ざし続けました。
現代でも「雷に打たれたような恋」「青天の霹靂」「神の一撃」といった表現が残っていますよね。
雷という自然現象は、科学が説明しようとも、
人間の畏敬、宗教心、物語性と不可分に結びついてきたんですね。
むしろ、そうした超自然的な恐怖が、
やがて科学への欲望や詩の誕生へとつながったのかもしれません。