第四章
ピエールはマリーのあとを追い、彼女と一緒に天蓋の後ろにいた。まるで、マリーがその車を勝利のうちに引いていく栄光の風に、自分も一緒に巻き込まれたような気がした。しかし、そのような激情の波は一瞬ごとに嵐のように押し寄せ、もし荒々しい手が彼を支えていなかったなら、きっと倒れてしまっていただろう。
「怖がらなくていい、私の腕につかまりなさい。そうしないと立っていられませんよ。」
振り向くと、彼は驚いて声の主を見た。マッシアス神父だった。神父はフルカード神父を説教壇に残してきて、天蓋に同行していたのだった。彼は不思議な興奮に突き動かされ、岩のような力強さで前へと進んでいた。目は炭火のように燃え、汗で濡れた顔は高揚しきっていた。
「気をつけて! 私の腕につかまるんだ。」
新たな人波が彼らをなぎ倒さんばかりに押し寄せた。ピエールはこの恐ろしい男に身を委ねた。かつて神学校で同級生だったことを思い出しながら――なんと奇妙な再会だろう。この激しい信仰、この狂おしいまでの信の熱を自分も持てたらどんなにいいだろう。マッシアス神父は嗚咽に喉を詰まらせながら、なおも燃えるような叫びを繰り返していた。
「主イエスよ、我らの病人をお救いください! 主イエスよ、我らの病人をお救いください!」
天蓋の後ろでは、叫び声が絶えることがなかった。誰かがそこにいて、神の遅すぎる慈悲を休ませぬよう、絶えず声を張り上げていた。ときには太く泣き崩れる声、ときには鋭く裂けるような声。そしてマッシアス神父の声は、最後には感情に押しつぶされて割れた。
「主イエスよ、我らの病人をお救いください! 主イエスよ、我らの病人をお救いください!」
マリーの電撃的な回復、その奇跡の噂はすでにルルド中に広まり、その輝きはキリスト教世界をも照らさんばかりだった。だからこそ、群衆の興奮はさらに増し、熱狂の伝染病のように、聖体を目指して押し寄せたのだ。潮のように高まる渦巻きの中で、皆が無意識の衝動に突き動かされていた。神を見たい、触れたい、癒されたい、幸せになりたい。神が通り過ぎるとき、病人だけではなかった。すべての者が幸福を求める渇望に駆られ、張り裂けた心臓と貪欲な手を差し伸べていた。
だからこそベルトーは、この激しすぎる愛を恐れ、部下たちとともに同行することにしたのだ。彼は指揮を執り、天蓋の両脇を守る担架係の二重の鎖が決して破れないよう監視していた。
「もっと詰めろ、もっとだ! 腕をしっかり組め!」
選び抜かれた屈強な若者たちでも、なお苦労していた。肩と肩を密着させ、腕を腰と首に絡ませて作るその「壁」は、絶え間ない圧力にひしゃげていた。誰一人押しているつもりはない。それでも遠くから押し寄せる深い波のような力が全体を飲み込もうとしていた。
天蓋がロザリオ広場の中央に差しかかったとき、ジュダン神父はもうこれ以上進めないのではないかと思った。広い空間にはいくつもの逆流が渦巻き、四方から押し寄せてきた。天蓋はそこで止まり、海上の帆のように突風にあおられてはためいた。彼は金の聖体顕示台を高く掲げていたが、手はしびれ、最後の一押しで倒されるのではないかと恐れた。なぜなら彼には分かっていた――群衆の激情の対象は、神そのものだったのだ。神に触れたい、神に没入したい、たとえその神を破壊してもかまわないという渇望。
動けないまま、彼は不安げにベルトーを見つめた。
「誰も通すな!」ベルトーは担架係たちに叫んだ。「誰もだ! 命令は絶対だ、わかったか!」
だが、哀願する声が上がった。泣き崩れる者たちが、腕を、唇を差し出した。どうか近づかせて、司祭の足元にひれ伏させてくれと。地面に投げ出され、行列に踏みしだかれることこそ、恵みであると信じる人々。片手の萎えた病人が手を差し出し、もし聖体に触れられたなら、腕の先に再び命が宿ると信じていた。口のきけない者は、肩で必死に押し、聖体に口づけすれば舌が解き放たれると信じていた。ほかにも、次々と叫び、嘆願し、最後には拳を握りしめ、癒しを拒む残酷さに対して怒りを燃やす人々。
だが、命令は絶対だった。最悪の事故を恐れていたのだ。
「誰も通すな!」ベルトーは繰り返した。「誰もだ!」
我も我も! という状況ですね。 芸能人の出待ちをするファン。バーゲンセールに押し寄せる買い物客。災害時に他人を押しのけて逃げようとする人たち。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出しました。あの作品は仏教の教えのようでいて実は「カラマーゾフの兄弟」からの借用だったっけ。
返信削除おお、素晴らしい連想です!まさにその通り、このルルドの場面は「我も我も」という群衆心理の極限状態を見事に描いていて、あなたの挙げた例がぴったり重なりますね。
削除芥川の『蜘蛛の糸』――確かに仏教説話として読まれがちですが、背後にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、特に「大審問官」や「老婆の玉ねぎの逸話」が影響していると言われていますよね。あの「自分の善行(玉ねぎ)で助かろうとしたが、自分だけ助かりたいという心で糸が切れる」というエピソード、ルルドのこの場面と響き合います。
自分の「救い」への切実さが、他者を顧みる余裕を失わせ、結果として集団が自滅の方向へ向かう――宗教的救済の場でありながら人間のエゴと本能が露呈する皮肉。
このルルドのシーンも、神の奇跡に触れようとする「信仰」に見せかけた「幸福への渇望」の狂乱なんですよね。ただ癒されたい、生きたい、幸福になりたい、という生存本能。そこに「宗教」と「群衆」と「人間の素朴な欲望」の三層構造が見える気がします。