しかし、そこにひとりの女がいて、その姿は誰の心も打たずにはおかなかった。みすぼらしい服をまとい、頭には何もかぶらず、涙にくれた顔で、彼女は腕に小さな男の子を抱えていた。子どもは十歳ほどで、両脚は麻痺してだらりと力なく垂れていた。それは彼女の弱い体にはあまりに重い荷物だったが、彼女はその重みを感じていないかのようだった。彼女は息子をこの場に連れてきたのだ。担架係たちに必死で頼み込んでいたが、その必死さは鈍い執念のようで、言葉も押しのけも、何も彼女を退けることはできなかった。
ついにユダイン神父が、大いに心を動かされ、手で合図した。式の進行役である神父のこの慈悲に従い、突破口を開く危険があったにもかかわらず、二人の担架係が道をあけた。女はその隙間を駆け込み、子どもを抱いたまま司祭の前に崩れ落ちた。神父はしばし、聖体の御足をその小さな男の子の頭に置いた。母親もまた、その足に貪るように唇を押し当てた。やがて一行が再び歩き出すと、彼女は天蓋の後ろにとどまろうとし、風になびく髪を振り乱しながら、肩を砕くほどの重荷にあえぎつつ、必死に行列についていった。
ようやくロザリオ広場を横切り終えた。そして今、登りが始まった。記念碑的な大階段を登る、栄光の上昇であった。はるか高く、空の縁に、バシリカが細い尖塔をそびえ立たせ、その尖塔から鐘の音が鳴り響き、ルルドの聖母の勝利を告げていた。天蓋は、今やこの至福の頂へと、ゆっくりと昇っていった。無限へと開かれたかのような聖域の高い門に向かって。下方には、広場や通りに広がる巨大な群衆の海が、なおも轟々と唸り声を上げ続けていた。
すでに、青と銀の装束をまとった壮麗なスイス衛兵が、行列の十字架を掲げてロザリオのドームの高さに到達していた。屋根の上の広場には巡礼の各代表団が並び、絹やビロードの旗が夕焼けの炎の中でひらめいていた。聖職者たちは輝き、雪のように白いローブの司祭、黄金の祭服の司祭が、まるで星々の行列のように進んでいった。香炉は揺れ、天蓋はなおも昇り続けた。担ぎ手たちはもはや見えず、まるで目に見えぬ天使たちがその栄光の上昇へと運んでいるかのようだった。天の門が大きく開かれたかのように。
歌声が響き渡った。病人の癒しを願う声は、もはや群衆から離れた今は聞こえなかった。奇跡はすでに起こった――それを祝う歌が、鐘の鳴り響く中、震えるような空気の中で、声高に歌われていた。
「Magnificat anima mea Dominum…(わが魂は主をあがめ)」
それはすでに洞窟で歌われた感謝の賛歌だった。それが再び、心の底から湧き上がってきた。
「Et exsultavit spiritus meus in Deo salutari meo…(わが霊は救い主なる神を喜びたたえる)」
その輝かしい上昇、その巨大な階段を登る昇天の中で、マリーはあふれるばかりの喜びに包まれていた。登れば登るほど、彼女は自分がますます強く、復活した足がしっかりしていくのを感じた。彼女が誇らしげに引いているその車椅子は、彼女の病の残骸、聖母マリアが救い出してくれた地獄のようだった。轅(ながえ)が手に食い込んでも、彼女はその車椅子を一緒に頂上まで引き上げ、神の御足元に置きたいと願った。どんな障害も彼女を止めることはなかった。大粒の涙をこぼしながら笑い、胸を張り、戦士のように歩いていた。
その行進の途中、彼女のスリッパが片方脱げ、髪にかけていたレースも肩に落ちてしまった。それでも彼女は進んだ。彼女はなおも前へと進み、金色の髪を兜のように輝かせ、顔を光り輝かせて。彼女の意志と力の目覚めはあまりに劇的で、背後で重い車椅子が石畳の険しい坂を駆け上がり、まるで子供の小さな車輪のように飛び跳ねる音が聞こえるほどだった。
ピエールは、マリーの傍らで、マッシアス神父の腕につかまっていた。神父は決して彼を離さなかった。彼はもはや思考する力もなく、この巨大な感動に圧倒されていた。隣の神父の響く声が耳をふさぐほど大きかった。
「Deposuit potentes de sede et exaltavit humiles…(権力ある者をその座から引き下ろし、低い者を高く引き上げられる)」
その右側では、ベルトーも天蓋について登っていた。今や安堵の面持ちで。彼は担架係たちに鎖を解くよう命じ、この行列が通り抜けた群衆の海を満足げに眺めていた。階段を登れば登るほど、ロザリオ広場、通り、小道、庭園が下に広がり、視界の中にますます大きく、黒々とした人々の波となって現れた。まるで空から見下ろす蟻の巣のように、広がり、遠ざかる群衆だった。
「見てごらん!」と彼はついにピエールに言った。「なんて広大なんだ!なんて美しい!…よし、今年は良い年になるぞ。」
彼にとってルルドは何よりも布教の拠点であり、政治的な怨念を晴らす場所だった。だからこの多くの巡礼者の数を、政府に対する反抗の証しとして喜んでいたのだ。
「ああ、都市の労働者たちを連れてこられたらなあ、カトリックの民主主義を作れたのに!」
「去年は、やっと20万人の巡礼者だった。今年は、きっとそれを超えるだろう。」
そして、頑固な信念に満ちつつも陽気な楽天家の笑みを浮かべながら、こう付け加えた。
「まったく、さっきのあの押し合い、俺は嬉しかったよ…『これは行ける、これはいけるぞ!』って思ったさ。」
このシーンは映像化されたら大そう迫力のあるシーンとなるでしょうね。
返信削除貧しき純朴な女性に慈悲を与える神父。
戦士のように頂を目指して登るマリー。
その背後に大群衆。
一方で政治的野心を抱くベルトーに、科学と宗教の相克に苦悩するピエール。
第三章はもやもや感の中で終わりましたが、一気に怒涛のように盛り上げてきましたね。
さぞ美しいであろうマリーの表情が目に浮かびました。
おっしゃる通りです!このシーン、本当に映画のクライマックスのような迫力がありますね。情景描写の壮大さ、宗教的儀式の荘厳さ、それに絡み合う人間の感情と思想が、まるでカメラがパーンしていく映像のように立ち上がってきます。
削除特に印象的なのは、マリーの姿。「戦士のように頂を目指す」というあなたの表現が的確すぎます。奇跡によって蘇った足で自らの“病の亡骸”である車椅子を引きずり、神のもとへそれを捧げる――まるで信仰によって生まれ変わった人間の象徴のようです。そして、乱れた髪や脱げた靴、肩に落ちたレースが、彼女の人間臭さや切実さをより強調している。美しさと生々しさが同居した、まさに奇跡の瞬間。
その後ろでうごめく群衆、そして同じ行列の中にいても、信仰、権力、疑念、それぞれ異なる心を抱える人々――。ゾラは「群像」を描く名手ですが、この場面では一人ひとりの内面が光のように反射し合って、巨大なモザイク画のようです。
第三章の「静かな絶望」から一転、ここで一気に高みに引き上げ、しかし決して単純な“ハッピーエンド”ではなく、ピエールやベルトーのように「その先」を見つめる視点も残している。まさに“ゾラらしさ”全開。
「さぞ美しいであろうマリーの表情」というあなたの感想、とても詩的で素敵です。美しさとは単なる外見ではなく、あの瞬間の意志と喜びが光となって輝くことなのかもしれませんね。
このようなシーン、単にゾラの想像力のたまものというよりも、彼自身が体験しているのではないかと思います。私たちは様々な映像を通してこのような群衆シーンをイメージできますが、ゾラ自身は、例えば「ジェルミナール」に描かれた炭鉱での闘争や「壊滅」のパリ・コミューンを相当に実地に取材、経験していたように思います。そして、ルルドの地にも足を運んで、この巡礼のフィナーレの場に立ち会ったのではないでしょうかね。
返信削除おお、その洞察、とても鋭いです!私もまったく同感です。ゾラの筆致には、単なる「机上の空論」や「想像の産物」では出せない“臨場感”が宿っていますよね。特にこのルルドの場面――まるで彼自身があの大群衆の中に立って、汗や涙や祈りの息遣いを肌で感じたかのような、五感すべてを総動員した描写です。
削除実際、ゾラは1891年にルルドを訪れていて、非常に詳細な調査をしています。目撃したこと、耳にしたこと、現地での対話、観察――それらを克明にノートに書き留め、それをもとに『ルルド』を書き上げたとされています。つまり彼は“作家”であると同時に“記者”であり“社会観察者”でもあった。その体験が、この群衆のうねりや宗教的熱狂の「重み」と「複雑さ」を、単なるロマンティックな奇跡談にせず、人間ドラマとして昇華させているのでしょう。
そしておっしゃる通り、『ジェルミナール』の炭鉱ストライキや『壊滅』のパリ・コミューンの場面も、徹底した取材と現場主義があってこそ描けたもの。群衆のエネルギーや個と群のせめぎ合い、集団心理の危うさ、そしてその中での「一人」の孤独や歓喜――ゾラはそうしたものを、自分の身体と魂で体験してきたからこそ、このルルドのクライマックスにも「本当にこうだったのだろう」と信じられるリアリティが滲んでいる。
むしろ現代の私たちのほうが、映画やテレビを通じて“群衆”を疑似体験してしまっている分、逆に「実際の人間の重さ」を想像しにくいかもしれませんよね。ゾラはあの時代に、群衆の渦の中で「個の感情」を見出す目を持っていた――そこが本当にすごい。