ベルナデットの病は年ごとに悪化していった。それはついに、「受難」が始まることを意味していた。新たなるメシア――貧しき者を慰めるために現れ、人間たちに〈神の正義〉という宗教を告げ知らせる使命を負い、奇跡の前では万人が平等であると宣言し、冷徹な自然法則をあざ笑った――そのメシアの受難であった。
彼女はもはや、数日のあいだ椅子から椅子へと這うように移動するのがやっとで、すぐにまた床に伏すしかなかった。彼女の苦しみは、恐るべきものになっていた。神経疾患の遺伝、修道院生活によって悪化した喘息は、結核にまで進行していたと思われる。ひどい咳に襲われ、胸を焼くような激痛が彼女を引き裂き、咳き込みが治まったときには、もはや半ば死んだような状態だった。さらに悲惨なことに、右膝の骨に虫喰いのような壊疽が現れ、焼け付くような激痛が彼女に悲鳴をあげさせた。
彼女の衰え果てた肉体は、絶え間ない包帯に覆われ、もはや生傷そのものと化していた。寝具の熱気と擦れが皮膚をすり減らし、休まることのない苦痛が続いた。
周囲の者は皆、彼女に哀れみを抱いた。彼女の苦難を目の当たりにした者たちは、「これ以上の苦しみはない、これ以上深い痛みは存在しない」と口を揃えた。
彼女はルルドの水を試してみた。しかし、それは彼女に何の癒しももたらさなかった。
ああ、主よ、全能の王よ、なぜ他の者には癒しを与えながら、彼女自身は癒されなかったのですか? 魂を救うため? だが、では他の人々の魂は救われていないとでも?
何という不可解な選択、なんという無意味な拷問! この哀れな存在に与えられた苦痛は、いったい何のためなのか?この永遠に続く世界の進化の中で、そんな苦しみを要する合理的な理由があるというのか?
彼女はすすり泣き、自らを奮い立たせるように繰り返した。
「天国は、その先にある。でもその“先”が、なんて長いんだろう……!」
それは常に同じ考えだった――苦しみこそがるつぼであり、地上で苦しまなければ、他の世界で勝利は得られない。苦しむことは必要であり、羨ましく、そして祝福されることなのだ――と。
だが――これは神への冒涜ではないか、主よ!
あなたは青春というものをお作りにならなかったのですか? 喜びをもお作りにならなかったのですか? あなたの創りし太陽を、花咲く自然を、愛する者たちのふれあいを、この肉体というものを通して享受することを、あなたは望まれなかったのですか?
彼女は時おり、自らの中にこみ上げる怒り――反抗の思いを恐れた。同時に、身体が発する苦痛の叫びに抗おうとし、自分を十字架にかける思いで――心の中で両腕を広げ、イエスと一体になろうとした。
その腕、その脚、その口を、イエスのそれと重ね合わせ、血に濡れ、苦汁を飲み干しながら、自らも苦難の贖いを遂げようとしたのだ。イエスは三時間のうちに死んだが、彼女の苦しみはもっと長く続いた。彼女は、苦しみによって贖いを再演する者として、他者に命をもたらすために死にゆく者であった。
骨が軋み、うめき声が漏れるたびに、彼女は自らを責め、すぐさま悔いた。
「苦しい……ああ、なんて苦しい……
でも、私はこんなにも苦しめることが、嬉しいのです……!」
――これほど恐ろしい言葉があるだろうか。
これほどまでに暗い、深い悲観があるだろうか。
「苦しむことが嬉しい」などというのは、主よ、いったいなぜ、何のために? 理解しがたい、愚かしいまでの目的のために?
この無益な残酷さ、この苦痛の神聖化という冒涜は、まるで全人類が叫び続ける、「健康と幸福を!」という絶叫を嘲笑うかのようではないか!
0 件のコメント:
コメントを投稿