2025年6月27日金曜日

ルルド 第178回

  だが再び、すばやく過ぎていく田園風景のなかに、ひとつの教会が現れた。今度は空の縁にそびえる丘の上に建つ、献堂された小さな礼拝堂のようだった。聖母マリアの高い像がその上に立っている。するとまたしても、すべての巡礼者たちが十字を切った。

 そしてピエールの夢想は再びさまよい、別の反省の波が彼を不安のなかへと引き戻した。いったい、苦しみにあえぐ人類を責めさいなむこの強迫的な「彼岸」への欲求とは何なのか? それはどこから来たのか? なぜ人は、自然の無慈悲な営みの中には見出せぬ平等や正義を、求めてやまないのか? 人間はそれらを神秘という未知のなか、宗教的な楽園という超自然的世界のなかに見出そうとし、そこに己の烈しい渇望を満たしてきた。

 人間は、いつの時代にも幸福への止むことのない渇きに焼かれ続け、それはこれからも消えることがないだろう。ルルドの司祭たちがあれほどの「繁盛」を誇っているのも、彼らが「神の力」を売っているからだ。この「神なるもの」への渇望、それは世紀を超えて一度たりとも満たされることがなく、それどころかこの科学の世紀の果てにあって、ますます激しく燃え上がっているようにさえ見えた。

 ルルドは、そのことを鮮やかに、否定しがたいほどにはっきりと示していた。すなわち、人間はおそらく、決して「神」という夢を手放すことはできない存在なのだ。神が奇跡をもって正義を回復し、幸福を回復する——その幻想こそが、人間にとっての最後の希望だった。人は、人生の不幸のどん底に触れると、結局はこの「神の幻想」へと戻ってくる。そしてすべての宗教の起源は、ここにある。すなわち、弱く、裸のままでは、この世の苦悩を生き抜く力のない人間が、楽園という永遠の嘘なくしては耐えられなかったということに。

 いまや、それは確認されたように思われた。科学だけでは、どうやら人間のすべての要求に応えることはできない。そして結局のところ、人間は「神秘」という名の扉を、少しだけでも開けておかざるを得ないのだろう。

突如として、その言葉がピエールの夢中の思索に響いた——「新しい宗教」! この、神秘への扉を少しだけ開けておかねばならないという考え、それは結局、新しい宗教の必要性ではないのか? 人類をその夢から無理やり目覚めさせ、彼らが生きるためにパンと同じくらい必要としている「奇跡」の幻想を力づくで奪うこと、それはもしかすると、人類を殺すことになるのではないか?

 果たして人間は、あらゆる報いも罰もない、「ただそれ自体としての人生」を、哲学的勇気をもって生きることができるのだろうか?現実をそのままに受け入れ、あの世の希望も慰めもなしに、この世でまっとうに生きるような社会が生まれるには、おそらく何世紀もかかるだろう。何らかの信仰に支えられた道徳の規律なしに、また、超自然的な平等や正義という慰めなしに、人びとが誠実に生きていけるような世界が、すぐにやってくるとは思えなかった。

 そうだ、新しい宗教!その言葉が、まるで民衆の叫びそのもののように、ピエールの中で轟いた。現代の魂の、飢えと絶望に満ちた切実な欲求として、その言葉は彼の内に響き渡った。

 カトリック教会が世界に与えてきた慰めと希望は、18世紀にもわたる歴史と、流された涙と血と、数々の虚しい騒乱を経て、もはやその役割を終えつつあった。一つの幻想が去ろうとしていた——ならば、せめて別の幻想に替えねばならないのではないか?

 かつて人びとがキリスト教の楽園に救いを求めたのは、それが「若き希望」として立ち現れたからだった。新しい宗教、新しい希望、新しい楽園! いまこの苦悩の只中にある世界が、まさにそれを渇望している。

 フルカード神父もそのことを感じ取っていたのだ。彼が繰り返し、ルルドにもっと多くの都市民、労働者階級、つまり国家の中核をなす大衆を連れてくるように懇願していたのも、それゆえだった。年間10万人、20万人の巡礼者など、ほんの一粒の砂にすぎない。必要だったのは、「人民」そのもの、国民まるごとだった。

 だが、民衆はすでに教会を永久に見捨ててしまっていた。彼らはもう、聖母像を自らの手で造ることはあっても、その像に自分の「魂」を込めることはなかった。いまや何ものも、彼らに失われた信仰を取り戻させることはできなかった。

「カトリック民主主義」?——もしそれが可能であれば、歴史は再び始まるだろう。しかし、それは現実的に可能だったのか? 本当に、新しいキリスト教的な人民を再創造できるのか? いや、それには新たな救い主、別のメシアの驚くべき息吹が必要なのではなかったか?

 この考えは、鐘の音のようにピエールの中で鳴り響き続けた。
「新しい宗教! 新しい宗教!」

 それは、おそらく、もっと現実に根ざしたものでなければならないだろう。この地上に、より大きな役割を与え、すでに勝ち取られた真理たちとうまく折り合いをつけるような宗教。

 そして何よりも、死への渇望ではない宗教。
 ベルナデットが「死ぬために生きた」ような信仰、シャセーニュ医師が「墓だけが幸福だ」と望んでいたような霊的放棄——こうした信仰は、「生きる意志」そのものの崩壊でしかない。その先には、人生への憎悪があり、倦怠があり、行動の麻痺があるだけだ。

 もちろん、すべての宗教は本質的に「不死の約束」であり、死後の世界を美しく彩るものだ。
 だが、新しい宗教は、この地上にこそ「永遠の幸福の園」を築こうとするものになり得るのか?

 では、その公式(フォルム)はどこにあるのか? その教義(ドグマ)は? 現代の人間の希望を本当に満たせるものは、どこにある?

 いったい、どんな信仰を蒔けば、それが「力」と「平和」という豊かな実りとなって芽吹くだろうか? この普遍的な懐疑のなかから、どうすれば新しい信仰を生み出せるだろう? そして、どんな幻想、どんな神聖な嘘が、いまなおこの現代という荒れ果てた大地、科学の世紀に踏みにじられた地層の下から芽を出しうるのだろうか?

2 件のコメント:

  1. おっとー! ピエールにバチバチっと天啓が下っちゃって、これは新興宗教の教祖様が体験するアレじゃないですか!? 実際ありますよね、科学のベールをまとった新興宗教。

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    1. おっとー!まさにその通り、「天啓」としか言いようのない内なる声がピエールの脳天を貫いていますね!ゾラの筆がここにきて、まるで現代のスピリチュアル系自己啓発セミナーのパンフレットの原型を書いているように読めます。ピエールが一瞬でも「自分がその新しい宗教をつくる使命を帯びた者では…?」と感じてもおかしくない流れです。

      そしておっしゃる通り、**科学っぽい顔をしてるけど、実は精神世界ドーン!な新興宗教**、ありますね。しかも19世紀末から20世紀初頭にかけて、まさにそのタイプが雨後の筍のように登場してくるんです。

      たとえば――

      * **神智学(テオソフィー)**:科学・宗教・哲学を統合するという触れ込み。仏教と西洋神秘思想のハイブリッド。
      * **心霊科学(スピリチュアル・サイエンス)**:死後の世界はエネルギー的に存在する!…とか言い出す系。
      * **ヌーソロジー、波動論、量子意識系**:現代日本でも「科学用語を意味不明にアレンジ」して「信仰」めいたことを語る例、多いですね。

      ゾラがここで描いているのは、古い宗教の崩壊に際して「空いた場所」に、人類が**どうしても何かを埋めずにはいられない**という衝動そのもの。ピエールも完全な無神論者にはなりきれず、「それでも何かが必要だ」と煩悶しています。

      そして現代の我々から見ると、その「空白を埋めたい衝動」こそが、新興宗教や陰謀論、カルト、自己啓発セミナーの温床になっているということも分かります。

      つまり、「神は死んだ」→「でも人は祈りたい」→「じゃあ"科学ふうの神"をつくろう!」\という人類の心理的なアクロバットが、ゾラのこの章には凝縮されています。

      ピエールが「理性を捨てない」と宣言しつつ、「新しい宗教が必要だ」と考えるこの矛盾の中に、まさに**近代という病の核心**がありますね。

      さてさて、ではピエールの脳内花火のつづき(ラスト1ページ!)、いきますか?

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ルルド 第178回

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