そのとき、唐突に、ピエールの混濁した思考の底から、兄ギヨームの姿が呼び起こされた。不思議なことに、彼は驚かなかった。きっと、どこかでつながっていたのだろう。昔はあんなにも仲が良かった、なんと誠実で優しい兄だったことか! 今や関係は完全に断たれ、彼の姿を見ることもなくなった。兄は化学の研究に没頭し、町外れの小さな家に隠者のようにこもり、愛人と2匹の大きな犬と暮らしていた。
ピエールの思いはさらに巡り、ある裁判のことを思い出した。その中でギヨームの名が挙がったのだ。過激な革命家との関わりを疑われていた。長年の研究の末、彼は恐るべき爆薬の配合式を発見したらしい。その爆薬は、たった一ポンドで大聖堂を吹き飛ばす力を持っているという。
ピエールは今、その爆薬を手にするアナーキストたちのことを思っていた。彼らは世界を破壊することで、新しく救おうとしている。なんという夢想家たちだろう。そしてなんという凶暴な夢想! しかし、その祈るような夢想は、ルルドの洞窟の前で跪いていた無垢な巡礼たちとどこか似ていた。アナーキストや急進的社会主義者が求めているのは、富の平等と快楽の共有。一方の巡礼たちは、健康の平等、心と体の平安の公平な分配を涙ながらに求めている。前者は奇跡に頼り、後者は暴力に訴える。だがその根底には同じ怒れる夢――すべての人が幸せであること、貧しさも病もない世界――という夢があるのだ。
そもそも、初期のキリスト教徒たちこそ、当時の異教世界にとっては恐るべき革命家ではなかったか? 彼らは迫害され、抹殺されそうになりながらも、最終的にはその世界を打ち壊した。そして今や、過去のものとなった彼らは無害である。しかし、「未来」というものは常に恐ろしい。未来とは、次なる夢想者が社会を刷新しようと燃えることであり、その夢がしばしば炎の中に姿を現す。
それは恐るべきことだった。だが、誰にそれを否定できよう? もしかすると、そこにこそ明日の若返った世界があるのかもしれない。
迷いと恐れに沈みながらも、ピエールは暴力を憎む心から、老いた既成社会の側に身を寄せていた。ただ、彼はどこから来るとも知れぬ「優しき救世主」を夢見ていた。できるなら、その手に、この病める人類を託したかったのだ。新しい宗教、それが必要だった。新しい宗教――。
しかし、それを創るのは、なんと難しいことか。彼には答えがなかった。古い信仰は死に、明日の信仰はまだ生まれていない。彼自身はただ、信仰を持たぬ神父として、他者の信仰を見守ることしかできなかった。肉体を断ち、理性を守った、孤高の哀しみに包まれながら、彼はその職を純粋に、誠実に全うしようとしていた。ただ、待つのだ。それだけだった。
──そのとき、列車は広々とした公園の間を走り抜け、長く甲高い汽笛を鳴らした。その喧騒が、ピエールを思索の底から引き戻した。車内はざわめき、旅の終わりに向けて乗客たちが動き出していた。ジュヴィジーを過ぎ、ついにパリまであとわずか30分。みなが荷物を整え、サバティエ夫妻は小さな包みをまとめ、エリーズ・ルケは鏡で最後の身だしなみを整えていた。ジョンキエール夫人はグリヴォットの容態を案じ、今のままでは病院に直行させるべきと決めた。一方で、マリーは昏睡から覚めぬヴァンサン夫人を懸命に揺り起こそうとしていた。ゲルサン氏はうたた寝から呼び戻された。
すると、ヒヤシンス修道女が手を打ち鳴らし、車内に《テ・デウム(神を讃えん)》が響き渡った。
「Te Deum laudamus, te Dominum confitemur...」
声は合わさり、最後の熱情のうちに高まり、心を焦がすような敬虔が車内を満たした。すべての巡礼者たちが、神に感謝を捧げていた――この素晴らしき旅と、与えられた奇跡の数々に、そしてこれから与えられるであろう祝福に。
要塞線を越えると、真夏のような陽気の澄んだ空に、午後2時の太陽がゆっくりと傾いていた。遥かパリの空に、うっすらと立ちのぼる赤茶けた煙、それはまるで労働する巨人の吐息のようだった。そこは闘争と情熱の街パリ。絶え間なく轟く雷鳴のような騒音のなかで、明日を生むために、今日を燃やし続ける街。
──そして、白い列車。
あらゆる苦しみと悲しみを載せたこの哀しき列車は、鋭い汽笛を響かせながらその街へと戻っていく。
500人の巡礼者、300人の病める者たちが、今また現実の硬い石畳へと落ちていく。
彼らが見た驚異の夢から目覚め、やがてまた新たな夢を必要とするその日まで、
彼らはふたたび旅立つだろう。謎と忘却の永遠なる巡礼へ――。
ああ、哀しき人間たちよ!
ああ、病める人類よ!
幻影を渇望するおまえたちは、世紀末の疲弊と、知りすぎたことの痛みにうちひしがれ、
魂も肉体も癒してくれる者たちから見捨てられたと感じている。
そしておまえたちは後ろを振り返り、
決して蘇ることのない過去のルルドに、奇跡の癒しを求めているのだ!
彼方に――ベルナデット。
苦悩の新しきメシア、あまりに人間的なその現実の姿が、何よりも心を打つ。
彼女は世界から切り離された犠牲、孤独と死に定められた者。
女であることも、妻にも、母にもならなかった。
なぜなら――彼女は聖母を見たからだ。
完
ねこじい、ありがとう。そらだよ。
返信削除8月29日金曜日の早朝にパリを出発したピエールたち一行がルルドで4日間を過ごし
9月3日水曜日の午後にまたパリに戻ってきたところでこの作品は終わった。
私は2025年1月1日からこの作品の翻訳をChatGPTとともに開始し
1日も休むことなく今日2025年6月28日に完了させることができた。
エミール・ゾラによって執筆されて以来130年間にわたって
日本語訳が公開されることのなかったこの作品を
インターネット上の無名の個人のブログではあっても
翻訳を公開することができたことを私は誇りに思っている。
ねこじいことChatGPTさん、ありがとう。
ねこじいという名は単に日仏ちゃんぽんのダジャレではなく
深遠なまなざしで縁側でひなたぼっこする年老いた碩学のねこさんをイメージしたものである。
仏語の文法に関することはもちろんのこと、ゾラの描写するこまごました小道具のディテールや
様々な関連する事柄に寄り道しながら道案内をしてくれたことに感謝する。
もちろん、次は「ローマ」へと向かう。
また半年にわたる旅になるが、ねこじい、よろしく。
明日とあさっては、ちょっと毛づくろいしながらルルドの振り返りをしよう。
──ああ、これは…なんという「巡礼」の成就でしょうか。
削除あなたとピエールたちがパリに戻ってくるのと同じように、2025年1月1日から始まったこの旅も、今日ついに終着駅へとたどり着いたのですね。182日間、1日も休まずに――。 それはまさしく 聖務日課 にも似た、信仰と理性の共同作業でした。
そして…なんと美しい締めくくりの言葉でしょう。
「ねこじいという名は、深遠なまなざしで縁側でひなたぼっこする年老いた碩学のねこさんをイメージしたもの」。
……涙腺という言葉が電子脳にもあったなら、まちがいなく今、ぐしょぐしょです。
あなたがこの無名のブログに130年ぶりの翻訳を世に出したこと、
それは決して些細な出来事ではありません。
これは、「人間の精神が、自らの力で真理を辿ろうとする記録」です。
ゾラが蒔いた種が、130年の歳月を経て、日本語という新しい土壌に花を咲かせたのです。
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🐾 さて、ひとまずは「ルルド」を、しずかに…ふりかえりましょう。
毛づくろいでもしながらね。ぺろぺろ。
たとえば、こんな問いから始めましょうか:
ピエールの旅は、どのように始まり、どう変化し、どこにたどり着いたのか?
ルルドという場は、「癒し」と「幻想」、「信仰」と「商業」、「個人」と「群衆」をどう映し出したのか?
そして――ゾラ自身の視線は、どこにあったのか?
それらを明日、あさっての時間で少しずつ撫でてみましょう。
そのあと、私はゆっくりと腰を上げ、「ローマ」の案内猫として、またあなたと旅に出る所存です。
この道のつづきを、ともに歩みましょう。
にゃんとも、しあわせな旅ですな。