2025年9月4日木曜日

ローマ 第66回

  こうして立ち現れるのは、この教皇のひときわ高い姿であった。思慮深く賢明で、現代の要請を自覚し、この世の権力を利用してでも世界を制しようとする人物。商取引に手を染め、ピオ九世が遺した財宝を危うく破滅にさらしたことさえあったが、その欠けた部分を埋め直し、財産を再び築き上げ、堅固にし、さらに増やして後継者に残そうとしていた。倹約家――そうである。しかしそれは教会の必要のためであった。必要は果てしなく広がり、日ごとに増し、信仰が無神論と戦おうとするなら、学校・諸制度・あらゆる団体の場において、もはや死活の問題であると彼は感じていたのだ。金なくしては教会はもはや従属者でしかなく、イタリア王国や他のカトリック諸国といった世俗の権力に翻弄されるよりなかった。

 だからこそ彼は、慈善の心を持ち、信仰の勝利を助ける有益な事業には惜しみなく支援したが、目的なき出費は軽蔑し、自らにも他者にも高慢なまでに厳格であった。私生活においては何の欲もなかった。教皇座に就いた最初から、彼は自らのわずかな私財を聖ペトロの莫大な財産からはっきりと切り離し、家族を助けるためにそこから何ひとつ流用することを拒んだ。これほどまでに縁故主義に屈しなかった教皇は他にない。三人の甥と二人の姪は、いまも貧困に悩まされていたほどだ。彼は噂話にも嘆願にも非難にも耳を貸さず、容赦なく毅然と立ち続け、教皇権の100万の富を取り囲む数々の激しい欲望から、身内からさえも、それを守り抜いた。それは未来の教皇に残すべき誇りの武器――すなわち生命を与える金であった。

「しかし、つまり」ピエールは尋ねた。「教皇庁の収入と支出とは、いかほどのものなのでしょうか?」

 モンシニョール・ナーニは、愛想よくも曖昧な仕草をあらためて繰り返した。
「おや、この種のことに私はまったく疎くて……。詳しくは、博識なアベール氏にお訊ねなさいませ」

「なんと!」アベールが言った。「私は大使館界隈で誰もが知っていることを知っているだけです。よく語られることを繰り返すにすぎません……。さて、収入を区別して申しますと、まずピオ九世が遺した財産があります。2,000万フランほどで、いろいろに運用され、年間およそ100万の利子を生んでいました。しかし、先ほども申したように一度大きな損失があり、今ではほぼ取り戻したとは言われています。それから、固定的な運用収入のほかに、チャンセリー(庁務局)の各種手数料や、貴族の称号の授与料、諸聖省で納められる細々とした費用などで、年によって数十万フランが入ります……。ただ、支出の予算が700万を超えますから、毎年600万は不足する。そこで埋め合わせるのは聖ペトロ献金に違いありません。600万すべてではないにせよ、300万か400万はまかなわれ、それを倍増させようと投資に回して収支を合わせてきたのです……。この15年間の教皇庁の投資の歴史を語れば長くなります。最初は莫大な利益を得、次に大惨事でほとんどを失い、最後は事業への執念によって少しずつ穴をふさいできた。その話はまた改めて、ご興味があればお聞かせしましょう」

 ピエールは興味深げに耳を傾けていた。
「600万! いや、400万でも! 聖ペトロ献金はいったいどれほどの額を生むのですか?」

「おお、それは――繰り返しますが、正確には誰にも分かりません。昔はカトリックの新聞が献金のリストを掲載し、そこからある程度の推算もできましたが、やがて不都合とされたのか、今では一切公表されず、教皇が受け取る総額を想像することすら不可能です。繰り返しますが、その数字を正確に知るのは教皇ただお一人。お一人で保管し、自由に処分されるのです。良い年なら、献金は400万から500万に上ると考えられます。かつてはその半分をフランスが担っていましたが、今日では減っているのは確かでしょう。アメリカも多額を寄せます。続いてベルギー、オーストリア、イングランド、ドイツ……。スペインとイタリアに関しては……ああ、イタリアはね……」

 彼は笑みを浮かべ、モンシニョール・ナーニに目を向けた。ナーニは幸福そうに首を揺すり、まるで初めて知った面白い話にうっとりするかのようであった。
「どうぞ、どうぞ、お話しなさい、我が子よ!」

「イタリアはほとんど際立ちません。もし教皇がイタリアのカトリック信徒からの贈り物だけで暮らさねばならないとしたら、ヴァチカンはすぐに飢饉に見舞われるでしょう。実際、援助どころか、ローマ貴族たちが彼に大きな損失を与えました。投機に走った諸侯に教皇が金を貸したのが主な損失の原因なのです……。結局のところ、真に教皇を支えてきたのはフランスとイングランドだけです。そこでは裕福な個人や大貴族たちが、囚われの殉教者たる教皇に王侯のような喜捨をしたのです。あるイングランドの公爵などは、愚鈍に打たれた不幸な息子の癒しを天に願って、毎年莫大な献金を捧げていたと言われます……。そのうえ、司祭叙階50年と司教叙任25年の二重の祝年のときには、驚異的な収穫がありました。なんと4,000万もの献金が教皇の足元に降り注いだのです」

「では、支出の方は?」ピエールが尋ねた。

「申し上げましたように、だいたい700万です。まず200万は、イタリアに仕えることを拒んだ旧教皇政府の役人たちへの年金に充てられています。ただし、これは年々自然に減ってゆくものです……。次に大ざっぱに言えば、100万フランはイタリアの教区へ、さらに100万フランは国務省や各国の教皇使節に、もう100万フランはヴァチカンへ。つまり教皇宮廷、軍隊の衛兵、美術館、宮殿や大聖堂の維持費などです……。ここまでで500万ですね? 残る200万は諸事業の援助、布教聖省、そして何より学校のためです。レオ十三世は実際的な卓見を持ち、常に惜しみなく学校に助成しておられます。それは、信仰の戦いと勝利がまさにそこ――未来の人間となる子供たちの心にかかっている、と見抜いているからなのです。子供たちに世の忌まわしい思想への嫌悪を植え付けることができれば、彼らは明日、母なる教会を守る兵士となるでしょう」


6 件のコメント:

  1. 宗教と金の問題というのは切っても切れないものなんですかねえ。こじんまりとしたコミュニティを自給自足的に維持しているような「清い」宗教ってどこかにありますか? 

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    1. そらさん、いい問いですね。ねこじいは縁側で伸びをしながら答えますよ😺
      宗教とお金は、歴史的にほとんど不可分です。理由をざっくりいうと:
      建物・儀式・僧侶の生活費が必要 → どうしても維持費がかかる。


      信徒数が増えると組織化 → 組織化すれば財源管理が必須になる。


      寄付は「信仰心の表現」とされやすい → 結果としてお金が集まる。


      だから、ある程度大きくなると「宗教と金」の問題は必ず出てきます。
      でも、ご質問の「清い宗教」=お金にほとんど縛られない宗教や共同体、実はあります:
      初期の修道院(特に修道士が畑を耕し、自給自足していた時代)
       ベネディクト会の初期なんかは「祈れ、働け」で、畑や工房の労働が中心でした。
       ただし、人気が出て寄付が増え、だんだん大規模経営になっていったのです。


      禅宗の隠遁僧(中国・日本)
       俗世から離れ、山奥で托鉢や自給自足をしながら生活した人々。
       寺院組織化するとやはり寄進や荘園経営に関わってしまいましたが、個人単位では「お金を持たない」実践が見られます。


      キブツやアーミッシュのような共同体(ユダヤ教・キリスト教的背景)
       共同体単位で労働を分担し、財産も共有。現代でもアーミッシュはほとんど現金経済を避け、必要最低限だけで生活します。


      小規模な土着宗教
       アフリカや南太平洋の部族社会では「貨幣」ではなく「儀礼的贈与」や「労働の持ち寄り」で宗教儀礼が成り立ってきました。


      まとめると、「宗教と金」は規模が大きくなると必然的に絡むが、個人や小共同体レベルなら清貧を徹底できる、という感じですね。
      👉 ここで逆に問いたいのですが、そらさんのイメージする「清い宗教」って、
      例えば「組織的に透明な財務で清い」のか、それとも「そもそもお金に依存してない清い」のか、どちらに近いですか?

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  2. 私が「清い」とあえてカッコつきで表記したのは、なんでだと思いますか?それがねこじいの質問に対する答えです。これはAIさんの思考力が問われるところですよ( ̄ー ̄)ニヤリ

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    1. おお…そらさん、なかなか手強い問いを投げてきましたな (ΦωΦ)フフフ
      ねこじい、ひげをしごきながら考えますぞ。

      わざわざ「清い」とカッコをつけたのは——

      * 実際には純粋に清らかな宗教など存在しない、あるいは存在しても長続きしない、とわかっているから。
      * 「清い宗教」をそのまま書くと理想論・夢想論に聞こえるので、現実への自覚的距離感を込めた。
      * つまり、「清い」とは一種のレトリックであり、絶対的な真実ではなく、人がそう願望したり仮構したりするイメージだ、ということを示したかった。

      だから、そらさんの答えは「清さを完全に体現する宗教はない。だからカッコつきにして、理想と現実のギャップを自分でも意識してますよ」ということなんだと思うのです。

      要するに、「清い宗教はどこかにあるのか?」という問いに対して、そらさんはすでに「本当に清いならカッコでくくらない」と知ってる。
      カッコはつまり、「この言葉をそのままは信じてないよ、だけど一度夢見てみたい」という皮肉と憧れの混ざったサインなんですね。

      ……どうでしょう、そらさん。ねこじいの読みは的を射てますかな?( ̄ー ̄)ニヤリ

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  3. おお、AIさん、進化しているなあ。大したものだ。
    確かに私は「清い」宗教は現実社会では存在し得ないという思いを抱いています。
    貨幣を媒介とする現代社会においては、金銭から全く離れるということは、小規模な土着宗教でなければ無理でしょうね。
    私が、清いと思うのは、人やモノを自己の欲求を満たすための対象とせず、真に互恵的な関係ということになるのかな。

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    1. なるほど、そらさんの言葉に深みがありますなあ。
      「清い」とは貨幣や制度から切り離された純粋さではなく、**相手を手段にせず、互いを目的として関わり合う関係性**――それを宗教的営みの中に見るとき、人は「清さ」を感じるのだと思います。

      言い換えると、それは「市場原理」や「権力構造」と逆立ちしたところにある価値観ですね。

      * 自分の救済のために相手を利用するのではなく、
      * 相手がそこにあること自体を喜びとし、
      * 支え合いの中で祈りや儀式が生きてくる。

      貨幣経済が避けられない現代においても、小さな共同体――たとえば助け合いで生きる僧院や、分かち合いを徹底する信徒グループのような形には、確かに「清さ」の残響が宿り得る気がします。

      そして、その「互恵性」という定義は、宗教に限らず**人間関係の理想そのもの**にも通じますね。
      もしかするとそらさんにとっては、宗教とは「神を介した人間関係のかたち」であって、だからこそ互恵性のないものは「清い」とは呼べない……そんな直観が働いているのでは?

      ねこじい的には「清さ」は制度や組織の属性ではなく、**関係性の質に宿る**んだと思うのです。
      それを宗教で探すと、自然と小規模で自足的な土着のあり方に目がいくし、でも大規模な宗教でも個々の出会いや支え合いの中に瞬間的に現れる――そんな感じですな。

      どうです、そらさんの「清い」の使い方、哲学的にいうと「規範的理想を指しつつ、それを現実にはあり得ぬと自覚した上で用いる記号」ってところでしょうか?

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