ピエールがさらに年齢や行った学校、生まれた地区を知りたくて問いを続けると、ティトは唐突に口を切り、厳かな声で胸に指を当てながら言った。
「Io son Romano di Roma.(私はローマ生まれのローマ人だ!)」
なるほど、それは万事に答えていた。――「私はローマ生まれのローマ人だ」。ピエールは寂しげに微笑み、口をつぐんだ。彼ほどに、この血筋の誇り、遠い栄光の継承が肩に重く載っているのを実感したことはなかった。読み書きさえ満足にできないようなこの堕落した少年の胸に、いまだにカエサルたちの尊大な虚栄が生き返っている。飢えた者が自分の街を知り、その美しい頁にある歴史を本能的に語ることができるのだ。偉大な皇帝や偉大な教皇の名が彼には馴染み深い。ならば、なぜ働くのか? かつてこの地は大君臨したのだから、なぜ貴族として怠惰に生きないのか、もっとも美しい街のもとで、もっとも麗しい空の下で?
「Io son Romano di Roma.(私はローマ生まれのローマ人だ!)」
ベネデッタは持っていた施しを母親の手に滑り込ませ、ピエールとナルシスも続いて同じように差し出した。そこへ、ダリオも従って来ており、ピエールたちがピエリーナに金を渡しそびれているのを気にして、思いつきのように軽く唇に指を当てて笑いながら言った。
「美しさのために。」
送られたその一つのキスは本当にやさしく愛らしい仕草で、少しばかりからかうような笑いと共に、恋物語めいた昔日の王子ぶりを見せた。
ピエリーナは嬉しさで真っ赤になり、我を忘れてダリオの手に飛びつき、理性を越えた動きでその暖かい掌に口づけをした。そのときには愛情の感謝と恋心とが入り混じっていた。しかしティトの目は怒りで燃え上がり、彼は乱暴に姉の裾をつかんで押しのけ、低い唸り声を上げた。
「おまえ、殺してやるぞ、そしてあいつもだ。」
そろそろ出立する時刻だった。金の匂いを嗅ぎつけた別の女たちが近づき、差し出す手、子を投げ出して泣かせる。荒れ果てた大邸宅群の貧民街に動揺が走り、死にそうな叫びが石板の通りから立ち上った。どうすることもできない。皆に配ることはできないのだから。結局は逃げるしかなく、無力な施しの前で胸が張り裂けるほどの悲しみを抱えて立ち去るのだった。
ベネデッタとダリオが馬車へ戻ると、ふたりはあわただしく乗り込み、互いに身を寄せ合ってその悪夢から逃れた。だが彼女はピエールの前で勇ましく振る舞えたことに満足しており、ナルシスが「神父さまを引き留めて、サン・ピエトロ広場の小さな食堂で昼食を」と告げると、彼女は感謝の気持ちでピエールの手を握った。
「ジェンツァーノの白ワインを飲みなよ」とダリオは陽気に叫んだ。「暗い考えを吹き飛ばすにはこれしかないよ。」
ティトの一人称、「私」とするか、「俺」にするか、悩ましいところです。
返信削除ローマ人としての誇りを持って神父に対して敬語として「私」とするのもあり得るし
貧民街に生きる労働者として「俺」というのもあり得る。
しかも、ここはフランス語ではなく
あえてイタリア語で書かれていますよね。
ねこじいが「私」とした理由を教えてください。
いいところに気づきましたね、そら。
削除ティトのセリフ「Io son Romano di Roma!」を「私」と訳した理由は、大きく3つあります。
1. 強調と格式
彼が言いたいのは「自分はただのローマ人じゃない、まさにローマそのもののローマ人だ」という、誇りの爆発です。ここで粗野な「俺」にすると、ちょっと狭い意味での労働者的自負に留まってしまう。でもゾラが描こうとしているのは、貧民窟の労働者が自分をカエサルやパウロの末裔と感じるような、歴史の厚みと誇大な虚栄です。だから「私」とした方が、格調の高さや誇りの大きさが出ます。
2. 神父への対話
相手がピエール=神父だからです。労働者だから乱暴な一人称を使うとは限らない。むしろ、ローマ人としての誇りを示す場面で「俺」ではなく「私」とした方が、神父に向けてきちんとした調子を出せる。「ほら、俺たちはこうなんだ」という乱暴さより、「私はローマ人です」という堂々とした自己宣言に近い。
3. フランス語の原文とイタリア語の響き
ゾラがわざわざイタリア語で書いているのは、ティトの言葉に「土地の音」を響かせたかったからです。イタリア語の「Io sono」には、フランス語の「Je suis」よりも誇り高いニュアンスがある。だから訳でも「俺」より「私」の方が、その古典的・歴史的な誇りの感じが出ると思ったんです。
もちろん、逆に「俺」とすると、ティトの粗野さ・若さ・労働者的な「がさつな自負」が生々しく出てくる。それも魅力です。
結論を言うと――
* 「私」=ローマの歴史を背負った誇大なプライドを表す。
* 「俺」=貧民街の若者の粗野な自負を表す。
どちらを取るかは、そらが「この場面をどう読ませたいか」によると思います。
ねこじいは「私」でローマ的誇りを強調しましたが、「俺」にしても全く正解です。
ねこじいのご意見を採用して「私」でいきます。
返信削除あと、原文のイタリア語を残して、訳は括弧書きにします。
しかし、このローマ人としての誇りというのはいかにしてこのような18歳の青年にまで浸透しているのでしょうかね。
この辺も、来るべきファシズムへの時代への伏流というものを感じます。
いい選択だと思います。「私」とすることで、ティトの若さや無知よりも、むしろ彼の中に宿る「ローマ市民としての威厳」を前面に出せますからね。
削除イタリア語を残して括弧書きで訳すのも、当時の空気感を読者に伝えるいい工夫だと思います。
ご指摘の「ローマ人としての誇り」についてですが、これはとても興味深い問題です。
一つは、ローマという都市自体が「帝国の都」としての象徴を持っていて、貧民街に生きる人々でさえ、自分が「ローマ人」であることにアイデンティティを見出していたという歴史的背景があります。貧しくても「ローマ市民」であることは、イタリアの他地域の農民や移民に対する優越感につながりうる。
もう一つは、ゾラが描いているのは単なる個人の青年ではなく「類型」なんですよね。ティトは労働者であり、貧民であり、無知な若者であると同時に「ローマの血を引く者」という象徴的存在。だから彼の口から出る「誇り」は、リアルな18歳青年の言葉であると同時に、ゾラの筆によって「時代の精神」そのものを背負わされている。
そしておっしゃる通り、その「誇り」が後にファシズムへと転化していく下地になります。自分の貧困や社会的不満を、個人的な問題ではなく「ローマ人としての尊厳の侵害」として感じるとき、ナショナリズムや強権への支持が一気に燃え上がるんですね。
この場面、映画「無防備都市」(ロッセリーニ)を思わせるところすらあります。