2025年10月19日日曜日

ローマ 第111回

  やせ衰え、顔色の黄ばんだ小柄な神父は、その叫びのうちに、長く胸中にため込んできた激情の怒りを一気に爆発させた。

——ああ、もうどうなっても構わない! また愚かな過ちを重ねることになっても!——
ついに、その言葉は口をついて出てしまったのだ。

 彼はなおも最後の用心深いまなざしを四方の壁に走らせた。しかし次の瞬間には、抑えきれぬ奔流のように言葉があふれ出し、長いあいだ心の底に押し込めてきたものを、一気に吐き出した。

「――ああ!イエズス会ですよ、イエズス会!……あなた方は彼らを知っているつもりでいて、実は何もわかっていない! 彼らの忌まわしい企てと、計り知れない権力のことなど、考えたこともないのでしょう。何事であっても、彼らがいる、どこにでも、いつでも、常に彼らなのです。もし理解できないことが起きたら、こう考えるのです——“彼らだ、また彼らが背後にいるのだ”と。もしあなたの身に不幸が降りかかったら、災厄が訪れたら、あなたが苦しみ、涙を流すときには、すぐに思いなさい——『彼らだ。やつらがここにいる』と。私はね、ベッドの下か、この洋服箪笥の中にですら一人潜んでいるかもしれないと思うほどですよ……ああ、イエズス会、イエズス会! 連中は私を食い尽くした! 今もなお私を食らい続けている! 肉も骨も、何一つ残そうとはしないのです!」

 途切れ途切れの声で、彼は自らの半生を語り始めた。希望に満ちた若き日のこと——。彼は地方の小貴族の出身で、そこそこの年金収入もあり、明晰で柔軟な知性の持ち主だった。未来は輝いて見えた。今日まで順調にいっていれば、いまごろはきっと聖省の高位聖職者となり、さらに高みへ手を伸ばしていたはずだった。

 しかし——愚かにも彼は、二度か三度、イエズス会に批判的な言葉を口にしてしまった。それ以来——彼の語るところによれば——考えうる限りの不幸が彼の身に降り注いだ。母も父も相次いで亡くなり、銀行家は財産を持って逃げ、教会の良い任務もいざ彼が就く段になって次々と失われ、聖職の務めでも最悪の災難ばかりに襲われ、ついには排斥寸前にまで追い込まれた。

 ただ一つの安息が訪れたのは、ボッカネーラ枢機卿が彼を哀れみ、身近に置いたその日以来のことであった。

「——ここは避難所、まさに“避けの聖域”なのです。枢機卿猊下は、決して彼らの側ではありませんから、連中は猊下を憎悪している。とはいえ、まだ猊下とその身内に手出しする勇気は持っていない……。でも私はわかっているのです。連中は必ず私を捕まえる。たとえ今この会話でさえ、すでに奴らの耳に入り、私はその報いを払わされるかもしれない……わかっていても口が止まらない……。奴らは私の幸福を奪い、私に可能な限りの不幸を与えたのです。すべてを! すべてをですよ!」

 ピエールは次第に居心地の悪さに包まれ、無理に冗談めかして言った。

「まあまあ……まさか、イエズス会があなたにマラリア熱まで与えたわけではないでしょう?」

「しかし、そうなのです!」
ヴィジリオ神父は激しく言い切った。
「私はあの日、ティベレ河畔で熱をもらった。あの晩は泣き崩れていたのです。私が奉仕していた小教会を追い出された悲しみで……」

 その瞬間まで、ピエールはイエズス会に纏わる“恐るべき伝説”を真に受けたことは一度もなかった。狼男を笑い飛ばし、“黒衣の男たちが壁の中に潜み家庭を脅かす”というブルジョワ趣味の迷信など、時代遅れの笑い話にすぎないと彼は考えていた。宗教的・政治的闘争が誇張した荒唐無稽なおとぎ話——それがピエールの認識だったのである。

 だが今、目の前のヴィジリオ神父を見つめるうち、彼は唖然とし、そして——この男は狂信に囚われた妄想者なのか、と、ひそかな恐れを抱き始めたのだった。

 しかし、ピエールの胸中には、イエズス会の異様ともいえる歴史が次々と呼び起こされていた。もし、アッシジの聖フランチェスコと聖ドミニコが中世そのものの精神と魂を体現しているのだとすれば——すなわち、前者は卑しい者にも及ぶ燃えるような慈愛の信仰を、後者は知と権力のために教義を守り固める厳格な信仰を——ではイグナチオ・デ・ロヨラとは何者か。

 彼は近代の扉口に現れ、沈みゆく暗い遺産を救おうとした者である。新しい社会に合わせて宗教を作り直し、誕生しつつある世界に再びカトリックの覇権を与えようとしたのだ。

 そのとき、すでに歴史の実験は終わっていたかのように見えた。もはや明らかだったのである——神は罪との果てしない戦いにおいて敗北しつつある、と。なぜなら、人間の中の欲望・情熱・血・心という「人間そのもの」を抹殺しようとする古い意志は、常に大惨敗へ至る道であり、その果てに教会は崩壊の瀬戸際へ追い込まれていたからだ。

 そしてそこへイエズス会が現れたのである。彼らは教会をその破局から引き戻し、再び征服者としての生命を与えた。
「世界がもはや教会へ来ないなら、教会が世界へ行けばよい」
——彼らが下したのは、その決断だった。

 かくして、すべてが一変した。天と交渉し、人間の世俗と取引し、風俗にも偏見にも、さらには悪徳にすら合わせてみせる。笑みを絶やさず、寛容で、厳格さとは無縁。どんな醜悪ですら「神の栄光のために」と転換してしまう外交術——それが彼らの旗印であり、また彼らが罪ある道徳とまで非難された所以でもある。

「目的が神の王国なら、手段は問わぬ」
——この倫理のもと、彼らはたちまち眩しい成功を収めた。王の告解師となり、巨万の富を蓄え、世界のどこへ足を踏み入れても、やがて魂も肉体も権力も財も手中に収める。とりわけ彼らは学校を作った。未来の世代を支配することこそ永遠の統治であると見抜き、若者の魂を練り上げていったからである。

 トリエント公会議以後、カトリックの精神そのものを彼らが変えたと言ってよかった。ローマは彼らの兵営となり、ヴァチカンは彼らの戦略拠点となった。世界規模に張り巡らされた鉄のごとき組織網——ただし手触りはビロード、苦しむ人間を扱うことに慣れた、あの柔らかい手の中に。

 そして驚くべきは、その生命力である。迫害され、断罪され、火刑にされても、彼らは倒れない。彼らが力を増すほど憎悪も膨れ上がり、醜聞は絶えず、パスカルに糾弾され、議会に焚書され、大学には毒物扱いされ、それでも彼らは消えなかった。追放され、戻り、また追われ、それでもまた戻る。ついには教皇自身の手で一度は廃止されたにもかかわらず、別の教皇によって復活し——今では「存在しないふりをしたまま勝利し続けている」。そういう兵士たちであった。

 ピエールは知っていた。表面だけを見るなら、今日の彼らはローマを追われている。ジェズ教会《イル・ジェズ》も、ローマ学院も、もはや彼らの支配にはなく、小さなドイツ学院の一室にある粗末な聖堂でひっそり暮らしているにすぎない。そこではまだ教え、告解もしているが、かつての輝きはどこにもない。

 だが——それは果たして敗北なのか? むしろ「影に退くことで世界を制する」という究極の策略なのではないか? 教皇の「不可謬(誤りなき権威)」の宣言は彼らの仕業だとも言われていた。大動乱の訪れを前に、決定的な戦いのための武器をヴァチカンに授けたふりをして、実は自らが握ったのだ、と。

 もしドン・ヴィジリオの語る“秘密の支配権”が真実だとすれば——それは、ヴァチカン全体を覆う見えざる王権なのである。


2 件のコメント:

  1. 歴史的背景の解説をお願いします!
    ドン・ヴィジリオのような陰謀論に取りつかれた人って、この時代に多かったのかな?
    現代も陰謀論が絶えない人間の心理、社会的背景も含めて解説してください。

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    1. いいですね、そらさん。では、《19世紀末〜20世紀初頭の イエズス会 と ドミニコ会 をめぐるカトリック教会内の背景》と、《「陰謀論に取りつかれやすい人間の心理と社会構造」》について、じっくり解説します。かなりボリュームありますので、後半を2部構成とします。

      1.歴史的背景:イエズス会・ドミニコ会・19世紀末のヴァチカン
      イエズス会 vs ドミニコ会 +教会と近代国家の緊張
      ドミニコ会
      中世からルネサンス期にかけて、神学・異端審問・学問で大きな役割を果たしました。ゾラの描くように、「教会の知の守備隊」でもありました。
      しかし、ルネサンス・宗教改革・啓蒙時代を経て、教会の世俗的支配力が弱まり、ドミニコ会もその絶頂期を過ぎていました。ゾラが「過去の巨大な建造物の残骸」のようと表現したのもこの文脈です。

      イエズス会(Societas Jesu)
      1534年設立。教育、布教、書籍発行、王侯顧問などを通じて、カトリック反改革(カウンター・リフォーメーション)の先鋒となりました。
      18世紀にはヨーロッパ諸国で追放・弾圧を受け(例:フランス、スペイン、ポルトガル)、一時解散されたものの(1773年教皇クレメンス14世による)、その影響力が消えたわけではありません。
      19世紀には再び台頭し、教皇権の再強化(ウルトラモンタニズム)の文脈でも、イエズス会は「教皇庁の知と実務の中核」として機能しました。

      19世紀末のヴァチカン/イタリア統一後の情勢
      イタリア統一(1870年にローマ併合)により、教皇領が消滅し、教皇は“バチカンという小さい領土の中”に閉じ込められた („鉄の扉“ の時代) 状況となりました。これが教会にとって深刻なアイデンティティの危機をもたらしました。
      さらに産業化・世俗化・科学技術の進展が「教義的世界観」を揺さぶっており、教会内部では「教会の役割とは何か」「世界はどうあるべきか」をめぐる激しい議論がありました。
      その中で、イエズス会は「近代世界へ宗教を適応させる/支配し続ける」ための戦略的装置と見なされ、ドミニコ会やその他の伝統的修道会・聖職者層との軋轢が目立つようになりました。

      ゾラ『ローマ』における投影
      ゾラが描いた場面では、
      ドミニコ会的な役割を負った修道者(ヴィジリオ)=旧来教会知識階層/審問機構の残滓。

      イエズス会=見えざる支配者、近代のための教会装置。
      という二項対立を構図化しています。
      ヴィジリオの「イエズス会がすべてを支配している」という叫びは、実際の教会政治・社会構造に風刺的に根差しています。
      つまり、ゾラは「教会の内部に眠る近代権力装置」を描きたかったわけです。

      なぜ「陰謀論的な語り」が出るのか?
      教会がかつての巨大支配構造を失いながらも、世界的影響力を維持しようとする中で、透明さも失われ、議論も閉ざされがちになりました。
      その種の「見えない力」による支配感/被支配感は、陰謀論を生む温床です。ヴィジリオの言葉にある「誰か隠れているかもしれない」「裏で操作されている」感覚は、まさにこの時代の宗教・社会的不安を映しています。

      2.「陰謀論に取りつかれた人間の心理と社会構造」
      心理的背景
      不可視の他者への恐怖・被害経験
      自分では制御できない・理解し難い世界があると、人は「誰か/何かが裏で操作している」と感じがちです。ヴィジリオのような人は、自らの不遇・病・失敗を、「隠された力」に帰属させることで、自分の無力感を説明しようとします。

      因果の単純化
      複雑な出来事(病気、失敗、制度的抑圧など)をひとつの原因=「イエズス会」と結びつけることで、心理的な安心を得ようとします。

      所属/アイデンティティの危機
      時代が急変し、自分が信じてきた価値や秩序が揺らぐとき、人は「敵」と「味方」を単純に分けたがります。陰謀論はその“味方・敵”マッピングを提供します。

      ナラティブ欲求(物語性)
      混沌や不条理な現実を“悪しき陰謀に立ち向かう物語”として構成することで、自己の位置づけ・意味を確保しようとします。ヴィジリオの告白もそれに応えています。

      社会的背景
      制度・権力・透明性の不足
      非民主的・非透明な制度(この時代の教会、あるいは今日の閉鎖的組織)は、「見えない支配」への疑念を呼びます。人々は説明されない事象を“陰謀”として語りたがります。

      変動・不安の時代
      産業化、都市化、科学技術の進展、国家の再編——こういった急速な変化の時代は、既存のアイデンティティ・所属・価値が揺らぎやすく、陰謀論を受け入れやすい土壌になります。

      情報の非対称性
      当時は印刷・流通・教育・情報アクセスに格差が大きく、「何が真実か」を一般人が知り得ないという構造が強かった。現代でも“情報過多”で逆に信頼できる情報が見えにくく、陰謀論が広がりやすい。

      集団的代償の論理
      社会的不満・経済的挫折があると、人は集合的な「敵」を探し、その存在を糾弾することで自己の怒りを正当化します。ヴィジリオの語る「彼らが私を食った」感覚も、この構図に当てはまります。

      現代との類似
      教会ではなくても、巨大な企業・政府・国際機関など「説明がつきにくい権力」が“陰謀対象”になります。

      焚書・言論弾圧・監視社会といったテーマは、ゾラの時代と構造的に似ています。

      また、SNS・ネット論壇で陰謀論が拡散する背景には、「情報の速度」「情報の信頼性の低さ」「分断化された集団」が共存しており、まさに「見えない支配」への想像力が働く土壌があります。

      🧭 まとめ
      19世紀末のカトリック教会では、伝統的修道会(ドミニコ会)と近代展開を担う修道会(イエズス会)との間に、勢力・影響力・思想的緊張があり、ゾラはそれを鋭く捉えました。

      ドン・ヴィジリオのような「陰謀論者的信仰者」は、制度の不透明さ・急変する社会・情報アクセスの限界という時代背景の中で生まれやすい。

      現代も、変動の時代・情報の氾濫・巨大組織への不信という構造的条件があり、陰謀論が消えない構造があります。
      ゾラの作品が今日も響くのは、「知と権力」「言論と抑圧」という普遍的なテーマを突いているからです。

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