2025年10月23日木曜日

ローマ 第115回

  突然、ピエールは司祭の前で立ち止まった。思考は足場を失い、恐れと怒りが彼の心を侵しはじめていた。結局のところ――なぜ、あり得ないと言い切れるのか? この途方もない陰謀めいた話の数々は、実はすべて真実なのではないか?

「それなら、助言をください!」と、彼は叫んだ。「ちょうど今夜あなたを部屋にお呼びしたのは、どうすべきか分からなくなり、正しい道へと戻るための導きがほしかったからなんです!」

 彼は言葉を止めると、また苛立つ激情に突き動かされるように、部屋の中を激しく歩きはじめた。

「いや、もう結構です、何も言わないでください! 終わりにしましょう。私はローマを離れた方がいい。この考えは前にも一度、弱い心につけ込むように忍び寄りました。すべてを投げ出して姿を消し、隅の方で平穏に暮らそうという卑怯な思いつきでした。しかし今は違う。立ち去るとしても、それは復讐者として、裁く者としてです。パリから叫ぶために――私がローマで見たことを。彼らがキリストの福音をどう貶めたのかを。粉々に崩れかけたヴァチカン、そこから漂う死臭、この古びた石棺の中から“現代精神の再生”が再び生まれるなどと信じる愚かな幻想を! 私は屈しません、私は従いません。私はこの身で、私の本を、新しい本で守り抜きます。そしてその本は、間違いなく世に響くでしょう。なぜなら私は書くのです――死にゆく宗教の断末魔を。腐敗した遺骸を急いで葬らねば、ヨーロッパ中の民衆が、その腐臭に毒されてしまうのだと!」

 この激情は、ドン・ヴィジリオの理解の及ぶところではなかった。イタリアの司祭としての本能――新思想への盲いた恐れしか持たない信仰者としての顔が、彼の内から甦った。彼は怯えたように両手を合わせる。

「やめてください、お願いです、やめてください! それは冒涜です……。それに、あなたはこんな形で去ることなどできません。まだ教皇猊下にお会いする望みがあるのです。カトリックの世界で、御身の上を裁くことができるのは、ローマでもただおひとり――聖下のみです。驚かれるかもしれません。しかし皮肉にも、ダンジェリス神父は正しいことを言ったのです。どうかもう一度、モンシニョール・ナーニにお会いなさい。あなたをヴァチカンへ導く鍵は、彼だけなのです」

 ピエールは、再び怒りをはね上がらせた。

「何ですって! 私をモンシニョール・ナーニのもとへやったのは彼らでしょう! そこから追い返しておいて、また同じところへ行けと? 私はラケットに打たれる羽根球ですか? もう我慢なりません!」

 疲れ果て、打ちのめされたピエールは、司祭の向かいの椅子に崩れ落ちた。ドン・ヴィジリオは身動きもせず、長い徹夜のせいで鉛色に沈んだ顔を震わせていた。痩せた手は小刻みに震えている。沈黙が落ちた。

 その後でようやく、彼はもう一つだけ別の手立てがあると告げた。教皇の告解司祭を少し知っているというのだ。あるフランシスコ会の修道司祭で、ひどく飾り気のない人物だが、紹介すれば多少の助けになるかもしれない、と。試みる価値は、ある――。

 沈黙はさらに続き、ピエールの虚ろな視線は壁の一点に吸い寄せられていく。やがて彼は古びた絵画を認めた。それはローマ到着の日、彼の胸を深く揺り動かしたあの絵であった。

 薄明かりの中、その像はふたたび浮かび上がり、まるで彼自身の絶望を象徴するかのように、静かに息づいていた。真実と正義の扉が冷たく閉ざされた前に打ち捨てられた女――彼女は震え、粗末な布に身を包み、髪に顔を埋めて泣き伏していた。その素顔は見えない。罪なのか、不幸なのか、ただ計り知れぬ孤独と破滅だけが漂っていた。ピエールには分かった。その女は自分自身だった。屋根も希望もなく、打ち捨てられた魂すべてが彼女の姿に宿っていた。門前で血のにじむ拳を振り上げる者たち――彼は、その一人なのだ。

「この絵は、誰の作なのですか?」
 唐突にピエールは口を開いた。「まるで傑作のように心を揺さぶられるのです」

 突拍子もない問いに、ドン・ヴィジリオは顔を上げた。彼は立ち上がり、黒ずんだ絵を眺め、ますます訝しげな表情をした。

「どこから来た絵なのか、ご存じですか? なぜこんな部屋の奥に放置されているのです?」

「さあ……」と彼は無関心な仕草で答えた。「よくありますよ、価値も分からず放り出された古い絵なんて。この部屋に昔からあるのでしょう。私は気にも留めませんでした」

 そのまま司祭は慎重に立ち上がった。しかし――そのわずかな動作のせいで、激しい悪寒が身体を走り抜けた。歯の根が鳴りはじめる。

「もう結構です、どうか私を見送らないでください……この部屋に灯りを残してください。それから――最後に申し上げておきますが、やはりモンシニョール・ナーニに身を委ねるしかありません。あのお方は優れた人物です。私はあなたに初めてお目にかかったあの日から申し上げているでしょう? あなたは、望むと望まざるとにかかわらず、最後には必ず彼の望む通りに動くことになるのです。ならば、もはや抗う意味など……。それから今夜の会話を、決して口外してはなりません。私は本当に死にますよ」

 彼は音もなく扉を開いた。廊下の闇を右、左と疑い深くうかがい、影のように部屋を抜けていった。足音ひとつ響かない。眠りに沈んだ古い宮殿の中へ、彼は消えた。


2 件のコメント:

  1. ピエールは去るべきか、とどまるべきか?
    そりゃあとどまるべきでしょう!
    しかし、ドン・ヴィジリオの陰謀論を聞かされて、ひょっとして、これって真実なんじゃないか?
    と思ってしまう心って、現代でもあるよね。
    そこが陰謀論の怖いところだよね。

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    1. まさにそのポイントですね。
      ピエールが感じているあの微妙な「揺らぎ」こそ、ゾラが描きたい危機の本質なんだと思います。

      ✅ ピエールはなぜ揺らぐのか?
      ピエールは理性の人ですが、同時に「救い」を求める情熱も持っています。
      だからこそ――
      陰謀論を荒唐無稽と断ち切りたい理性

      世界の裏には巨大な意思があるのでは、と想像してしまう情念

      この両方に引っ張られてしまう。
      陰謀論というのは、情報が不透明で事実が見えにくいときほど、人間の心に“浸食”してきます。
      ローマという権力と秘密の都にいて、資料にもアクセスできず、味方もいないとなれば、
      どんなに理性的な人でも「もしかして……」と思ってしまうのは当然なんですよね。
      広場で自分の眼を開かせてくれたと思ったロレンツァ僧院長でさえ、
      イエズス会なのか違うのか…組織の立場さえ霧の中。
      そんな環境で、ドン・ヴィジリオの妄想めいた話が意外にも“リアリティ”を帯びて見えてくる。

      ✅ 陰謀論はなぜ現代でも強いのか?
      現代でもQアノン、ワクチン陰謀論、NWO、ケムトレイル…と尽きません。
      しかもそれを信じる人は高学歴ですら珍しくない。
      その心理的背景を整理するとこうです👇

        心理        内容

      世界は複雑すぎる  シンプルな説明に
                飛びつきたくなる

      見えない権力への  民主主義でも透明化は
      不信        限界がある

      選ばれた者で    「真実に気づいている
      ありたい欲求    自分」への快感

      不安の時代     真実より“物語”の方が
                安心を与えてしまう

      ゾラが見抜いているのは、人間のこの構造的弱さ。
      だから彼の描く陰謀論者は“ただの道化”ではなく、どこか読者の心にも入り込んでくる。

      ✅ あなたの問いへの結論
      ピエールは去るべきか、とどまるべきか?
      あなたと同じく、私はとどまるべき派です。
      なぜならピエールの最大の敵は外の陰謀ではなく、彼自身の迷いだから。
      もし今ローマを離れたら、彼は一生「真相」ではなく「想像」に負けたまま生きることになる。
      逆に残れば――
      自分の信仰が虚像なのか真実なのか
      教会は弱者の味方なのか権力そのものなのか
      人間は救われるのか救われないのか
      その核心と徹底的に向き合わざるを得ない。
      ゾラの求める人間像は、逃げる人間じゃなく「見る人間」だから、
      私はピエールに残ってほしいし、ゾラもそう描くはずだと感じています。

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