2025年10月5日日曜日

ローマ 第97回

  ある日、ピエールがカンポ・ヴェラーノ――ローマの大墓地――を訪れた帰り、夕方になってダリオの寝台のそばに行くと、ベネデッタと一緒にチェリアがいた。

「なんですって! 修道士さま、死人を見に行くなんて楽しいんですの?」と、小さな王女が声を上げた。

「ほら見ろ!」とダリオが口をはさんだ。「このフランス人たちは! 墓地なんて考えただけでもうんざりなのに……わざわざ悲しい見世物で人生を台無しにするんだから」

 しかしピエールは静かに答えた。
「でも、死の現実から逃れることはできませんよ。ならば、正面から見つめるのが一番でしょう」

 すると、ダリオは腹を立てた。
「現実だの、現実だのって! 一体なんの役に立つ? 現実が美しくないなら、僕は見ない。考えないように努めるだけさ」

 神父はいつもの穏やかな笑みを浮かべながら、それでも語り続けた。墓地の整然とした様子に驚いたこと、秋の澄んだ太陽が祝祭の光を投げかけていたこと、白大理石の豪華さ、墓石にあふれる彫像、大理石の礼拝堂、大理石の記念碑……。明らかに古代の血が働いている。アッピア街道の壮大な廟がよみがえったように、死においても誇示と虚栄が尽きることがない。とりわけ丘の上はローマ貴族の特等地で、本物の神殿のような墓所が群をなし、巨大な彫像や群像彫刻が並び立っていた。趣味は時にひどく悪趣味だが、そこに費やされた金額は計り知れなかった。だが美しかったのは、糸杉やイチイの木の間に立つ大理石の真白さだ。苔もつかず、雨で刻まれる北方の像のような陰鬱さもなく、むしろ灼熱の夏の日差しに金色に照らされていた。

 ベネデッタはしばらく沈黙していたが、ダリオの不快さを察し、チェリアに話題を向けた。
「それで、狩りは面白かった?」

 ちょうどピエールが入って来た時、小さな王女は狐狩りの話をしていたのだ。母親に連れられて参加したのだった。

「ええ、とっても面白かったのよ! 集合はお昼の1時、カエキリア・メテッラの墓のところで、テントの下にビュッフェが用意されていたの。人がいっぱい――外国人社会の人たち、大使館の若者、軍人、それにもちろん私たち。赤い狩衣の男性や、たくさんのアマゾン姿の女性たち……。1時半に出発して、2時間以上も全速で駆けたの。狐はものすごく遠くまで逃げて、やっと捕まったのよ。私は最後までついて行けなかったけれど、それでもすごい光景を見たわ! 狩りの一行がみんなで越えなきゃならない大きな塀、溝や生け垣を飛び越えて、犬たちを追って狂ったように駆け回って……。怪我人も出たけれど、大したことはなくて、ひとりは手首を捻挫しただけ、もうひとりは足を折ったけれど」

 ダリオは夢中になって聞いていた。狐狩りはローマで最大の楽しみのひとつだったのだ。平坦でありながら障害だらけのカンパーニャを駆け抜ける喜び。猟犬に追い詰められた狐の狡猾な逃げ道を読み、翻弄され、やがて疲れ果てて捕らえられるまでの駆け引き。そのすべてが銃を持たない狩り――ただ走る喜び、狐を追い抜き、追いつき、勝利する喜びのためのものだった。

「ああ……」とダリオは絶望したように叫んだ。「なんて馬鹿げてるんだ! こんな部屋に閉じ込められて……退屈で死んでしまうよ!」

 ベネデッタはただ微笑むだけだった。そのわがままで子どもっぽい叫びを、責めるでもなく、悲しむでもなく。彼女にとっては、この部屋で彼を看病しながら二人きりで過ごせることが、何よりの幸せだったからだ。しかしその愛は、若々しさとともに、どこか母性的なものを含んでいた。彼が退屈しているのもよく理解していた。普段の楽しみを奪われ、友人たちからも距離を置かざるを得なくなっていたのだから。脱臼した肩のことが妙に思われるのを恐れて、彼は人前に出なかった。もう舞踏会も、劇場の夜も、婦人たちへの訪問もなかった。そして何よりも、午後4時から5時にかけて、ローマ中が行き交うコルソを眺められないことが、彼を絶望的に苦しめていた。だから、親しい友人が訪ねてくると、質問が止まらなかった。あの人は見かけたか、この人は現れたか、あの恋の行方はどうなったか、新しい浮名は立っていないか――小さな出来事、たわいない噂話、束の間の戯れに、彼の若さと精力のすべてが費やされてきたのだ。

 チェリアは、彼に無邪気なおしゃべりを持ちかけるのが好きで、沈黙の後、その澄んだ、底知れぬ謎めいた乙女のまなざしを彼に注ぎながら、こう言った。

「肩って、治るのにすごく時間がかかるのね!」

 あの子は気づいたのだろうか? ただ恋愛にしか関心のない娘なのに。ダリオは気まずくなり、ベネデッタの方へ目を向けた。ベネデッタは相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。だが、もう小さな王女は別の話題へと飛び移っていた。

「あっ! ダリオ、聞いて! 昨日コルソ通りであるご婦人を見かけたのよ……」

 彼女は自分でも驚き、うっかり口を滑らせたことに戸惑った。だがすぐに勇気を振り絞り、幼なじみとして恋の秘密を共有するかのように言葉を続けた。

「そう、あなたもよく知ってる素敵な人よ。手に白いバラの花束を持っていたわ。」

 今度はベネデッタが声をあげて笑い、ダリオもまた笑いながら彼女を見つめた。ベネデッタは最初の頃、ある女性が見舞いに来ないことをからかったことがあった。ダリオ自身も、その関係が厄介になりかけていたので、自然な別れに不満はなかった。美男としての自尊心が少し傷つきはしたが、トニエッタがすでに新しい相手を見つけたと知って、むしろ安心していた。

「まあ! 不在の者がいつだって悪いのさ。」

 それだけを口にした。

「愛する人は、決して不在じゃないわ。」チェリアは清らかで真剣な様子で言い切った。

 その間に、ベネデッタは立ち上がり、ダリオの背後で枕を直していた。

「さあ、さあ、ダリオ。こんなみじめなことはもう終わり。これからは私があなたを守るわ。あなたの愛はもう私だけのものになるのよ。」

 彼は彼女を熱く見つめ、髪に口づけした。たしかに彼女の言うとおり、彼が愛したのはただ彼女だけだった。そして彼女もまた正しかった。彼女が自らを捧げたときには、彼を完全に 自分のものにすると信じて疑わなかった。この部屋で彼の看病をしてからというもの、ベネデッタは彼を再び「子ども」として取り戻したことに喜びを覚えていた。モンテフィオーリ邸のオレンジの木の下で、かつて彼を愛したあの頃のままに。彼には独特の幼さが残っており、それはおそらく衰退した家系のなかに見られる奇妙な退行、つまり老いた民族に特徴的な「子どもへの回帰」だった。彼はベッドの上で絵をいじり、何時間も写真を眺めては笑っていた。苦しみに耐える力はますます弱くなり、彼は彼女にいつも明るく歌ってほしいと願った。その利己的な優しさは、彼女を楽しませながら、二人で永遠に続く喜びの生活を夢想させた。ああ、なんと素晴らしいだろう! いつまでも一緒に陽の下に暮らし、何もせず、何も気にせず、世界がどこかで崩壊したとしても、わざわざ見に行こうとすらしない生活!

「でも、うれしいことがあるんだ。」ダリオは不意に話を変えた。「アッベさまがついにローマを好きになったってことだよ。」

 これまで黙って聞いていたピエールは、快くうなずいた。

「その通りだ。」

「だから私たち、最初から言ってたじゃない?」とベネデッタが口を添えた。「ローマを理解して愛するには、たくさん時間が必要なの。もし15日しか滞在してなかったら、きっとひどい印象を抱いて帰ったでしょう。でも今は、2か月も過ごしたおかげで、安心だわ。もう二度と私たちのことを思い出すとき、優しさ抜きではいられないでしょうね。」

 そう言う彼女は、なんとも愛らしく魅力的で、ピエールは再び頭を下げた。だが彼はすでに考えていたことがあった。それは、彼が見つけた「解釈」だった。ローマに来るとき、人はそれぞれ自分なりの「夢のローマ」を持ってくる。それは想像によって高められすぎていて、現実のローマは必ず幻滅をもたらすのだ。だからこそ時間をかけねばならない。現実の平凡さが薄らぎ、想像が再び美化の仕事を始めるのを待つのだ。そうしてはじめて、過去の壮麗さの輝きを通して、現実のローマを見られるようになるのだ。

 そのとき、チェリアが立ち上がり、別れを告げた。

「さようなら、ベネデッタ。じゃあまたすぐ結婚式で会いましょうね。ダリオ……私ね、今月中に婚約するのよ。そうよ! 大きな夜会を開くようにパパを説得してみせるわ……ああ、もし二つの結婚式が同時にできたら、どんなに素敵かしら!」

4 件のコメント:

  1. 死を見つめよ、メメント・モリだね。
    そもそもはペスト禍の中で言われた言葉だと思います。
    この時代のイタリア人おぼっちゃまにはちっとも響かない言葉となっているわけですね。

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    1. なるほど、そらさんの視点いいですね。
      「メメント・モリ(memento mori=死を忘れるな)」は、たしかにペストや戦乱の時代に強く響いた言葉で、宗教美術にもよく表されましたよね。髑髏を手に持つ聖人像や、墓碑に刻まれたラテン語の警句など。

      でもゾラが描く19世紀末のローマの若い貴族たち――特にダリオのような「世紀末的デカダンス」の体現者にとっては、その警句は完全に空気になっている。むしろ「世界が崩れ落ちても、見に行かないで日なたでゴロゴロしていたい」という無関心の方が本音なんですね。

      つまり、かつて「死を忘れるな」という言葉は宗教的規律や社会秩序の基盤だったのに、この時代の貴族子弟には「死」を直視する力もなく、ただ快楽や怠惰のなかで「死を忘れきっている」状態。ゾラとしてはそれこそが没落貴族の退廃性であり、時代批判にもつながっているんだと思います。

      👉 質問ですが、そらさん的には「メメント・モリ」という思想、現代日本の若者文化(例えば消費社会やSNS文化)に通じる部分があると思いますか?

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  2. 私が感じてきた「メメント・モリ」についてお話ししましょう。
    1986年、バブルのころ、大学一年生だった私は、藤原新也の「メメント・モリ」を読みました。
    インド・チベットを旅してきた写真家・藤原新也の見た80年代日本の
    管理された自由・飽食に対する鋭い警告でした。
    私は彼の一連の著作を読んで大学をやめました。
    1996年、阪神大震災、オウム事件を経た日本で、ミスターチルドレンが
    アルバム「花ーメメント・モリ」を発表しました。
    これはこの時代の若者の心をとらえました。
    そして、2020年、コロナ禍の日本において「メメント・モリ」という言葉が
    少しまた注目されたように思います。
    30年続く経済不況にまさに疫病が追い打ちをかけ
    現実的な切迫感を持ってこの言葉が使われたように思います。
    しかし、現代日本社会は不況にあえぎつつも
    生かさず殺さずとも言える政治の下で
    あいまいな死生観のもとで
    スマホ画面をのぞき込んでとぼとぼと歩いているように感じます。
    「死を想え!」
    これは普遍的に意識しなくてはいけない言葉だと私は思います。

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    1. そらさんのお話、深く胸に響きました。
      「メメント・モリ」という言葉が、時代ごとにまったく違う響きを持って蘇る、その流れを実際の体験として辿ってこられたのですね。
      1980年代の藤原新也
       高度経済成長の末に迎えた「バブル」の熱狂と虚しさのなかで、「死を想え」という警告は、生温い楽観主義への強烈な対抗軸でしたね。世界を旅した彼の写真と言葉が、日本の管理された豊かさを突き崩す。大学をやめたそらさんの決断は、その「問いかけ」に応答した生きた証だったと思います。


      1990年代のミスチル『花 -メメント・モリ-』
       震災、地下鉄サリンという死のリアリティの直後に、若者文化のど真ん中で「死を想え」と歌われた。これは「死」を宗教ではなくポップカルチャーで受け止め直す営みでしたよね。「死を想うからこそ、生が輝く」という逆説的な希望。


      2020年代のコロナ禍
       ここではもう完全に「死」が日常に入り込んできた。経済停滞や孤独、そして感染への恐怖の中で、「メメント・モリ」は再び切実さを帯びる。でも同時に、人々はスマホに逃げ込み、現実を「ぼかし」て生きる。死を直視するでもなく、忘れ切るでもなく、ただ曖昧にやり過ごす。


      こうやって時代ごとの「メメント・モリ」の響きが浮かび上がると、ほんとうにこの言葉は人類の普遍的テーマでありながら、その国や社会の状態を照らす鏡でもあるんだと感じます。
      🔹 そらさんがおっしゃった
      「死を想え!」これは普遍的に意識しなくてはいけない言葉だ
      この強調は、まさに現代日本の「生温さ」に対する真っ向からの批判であり、同時に生の切実さを取り戻そうとする叫びに思えます。
      ねこじい的に言わせてもらうなら――「死を想うことは、同時に“いま生きる”ことを取り戻すこと」ですね。

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ローマ 第97回

   ある日、ピエールがカンポ・ヴェラーノ――ローマの大墓地――を訪れた帰り、夕方になってダリオの寝台のそばに行くと、ベネデッタと一緒にチェリアがいた。 「なんですって! 修道士さま、死人を見に行くなんて楽しいんですの?」と、小さな王女が声を上げた。 「ほら見ろ!」とダリオが口を...