11月中旬になると、司教委員会が調査のためにルルドを訪れた。委員会はベルナデットを改めて尋問し、多くの奇跡について検証を行った。しかし、証拠を絶対的なものとするために、30件の治癒のみを正式に認めた。そして、ロランス司教は確信を抱いた。しかしながら、彼は最後まで慎重であり、さらに3年間待った後に布告を出し、マサビエルの洞窟において聖母が実際に出現し、その後数々の奇跡が起こったと宣言した。
彼はルルド市から、司教区の名のもとに洞窟とその周囲の広大な土地を買い取った。最初は控えめな工事が行われたが、キリスト教世界の至るところから寄付金が集まるにつれ、次第に大規模なものとなった。洞窟は整備され、鉄柵で囲まれた。ガーヴ川は遠くへと流れを変えられ、広い参道や芝生、小道や散歩道が整備された。そして、聖母が望んだ教会——すなわちバシリカ——が、岩山の頂に姿を現し始めた。
最初の鍬が入れられた時から、ルルドの司祭であるペイラマル神父がすべてを指揮していた。彼はこの事業に対して並外れた熱意を燃やし、闘争の中で最も熱心で誠実な信者となっていった。やや厳格な父親のような愛情をもってベルナデットを崇拝するようになり、この純真な少女の口を通じて天から受けた命令を果たすことに、身も心も捧げた。そして、支配的な情熱をもって努力を重ね、すべてを美しく、壮大に、「天使の女王」にふさわしいものにしようとした。
最初の宗教儀式が行われたのは、聖母の出現から6年後のことであった。その日、洞窟の中に、聖母が現れたとされる場所に、壮麗な式典をもって聖母像が安置された。その朝は素晴らしい天候に恵まれ、ルルドの街は旗で飾られ、鐘の音が鳴り響いた。そしてさらに五年後の1869年、バシリカの塔がまだ完成していない中、地下聖堂で初めてのミサが執り行われた。
寄付は途切れることなく増え続け、黄金の流れのように押し寄せた。まるで一つの都市が地面から湧き出るかのように、新たな建築物が次々と築かれていった。それは、新たな宗教が完成しつつある姿だった。癒されたいという願望が癒しを生み出し、奇跡を渇望する心が奇跡を生んだ。人間の苦しみの中から、憐れみと希望の神が生まれた。人類の歴史を通じて、慰めとなる幻想が創造してきた「あの世の楽園」、そこでは全能の存在が正義を行い、永遠の幸福を分かち与えるのだった。
こうして、サント=オノリーヌ病棟の病人たちは、洞窟の勝利の中に、自らの癒しへの希望の成就を見た。そして、ベッドの並ぶ病室には喜びのざわめきが広がった。ピエールは、確信を求めて自分に身を寄せるような、貧しく苦しみに満ちた顔々を見つめ、胸を揺さぶられながら繰り返した。
「神は勝利し、その日以来、奇跡は途絶えることなく続いています。そして、最も身分の低い人々こそが、最も多く救われているのです。」
彼は小さな本を閉じた。その時、ユダイン神父が入ってきた。まもなく聖体拝領が始まる。しかし、その瞬間、信仰の熱に再び駆られたマリーが、燃えるように熱い手を差し出し、身を乗り出して懇願した。
「ああ、お願いです! 私の罪を聞いて、赦してください。私は冒涜しました。私は大罪の状態にあります。あなたが助けてくださらなければ、聖体拝領を受けることができません。私は慰めと力を必要としているのです!」
若い司祭は手で制した。彼は決してこの友人を告解させたくなかった。彼が青春の健やかで陽気な日々において唯一愛し、欲した女性だったからである。しかし、彼女は懇願した。 「お願いします。私の癒しの奇跡を助けてください。」
そして彼は折れた。彼女の罪の告白を受け入れた。聖母に祈りが届かなかったことへの苦しみと不信の罪を打ち明けた彼女に、彼は聖なる赦しの言葉を授けた。
すでに、ジュダイン神父は小さなテーブルの上に聖体顕示器を置いていた。その両脇には灯された2本の燭台があり、半ば暗闇に沈んだ病室の中で二つの悲しげな星のように揺れていた。耐えがたいほどに充満した病人たちの体臭と積み重ねられた衣服の臭いを逃がすため、ようやく窓が大きく開かれた。しかし、狭く夜に包まれた中庭は焼けつく井戸のようで、一片の風すら入ってこなかった。
ピエールは侍者を申し出て、告解の祈りを唱えた。続いて、神父が赦しの祈りを捧げ、聖体顕示器を高く掲げた。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
病人たちは、それぞれの苦痛にねじれながら、命をつなぐ最後の妙薬を待つ臨終の者のように、待ち焦がれていた。そして、口を閉じたまま三度繰り返した。
「主よ、私はふさわしくありません。しかし、お言葉をただひとついただけば、私の魂は癒されるでしょう。」
ジュダイン神父は病室の惨めな寝床を順に回り、ピエールが彼の後を追った。ジョンキエール夫人とヒヤシンス修道女がそれぞれ燭台を手に付き添っていた。修道女が聖体拝領を受けるべき病人を指し示し、神父はその女性たちに寄り添い、ホスチアを舌の上に置いた。多くは目を見開き、興奮に光を宿していた。あまりに急ごしらえの準備だったため、深く眠り込んでいる者を起こさねばならなかった者もいた。何人かは無意識に呻き声を漏らし、神を受け取った後も呻き続けていた。病室の奥からは、見えぬ誰かの苦しげなうめきが絶え間なく響いていた。
そして、半ば暗闇の中、揺らめく燭光のもと、マリーの姿が神々しいまでに浮かび上がった。グリヴォットは翌朝ロザリオで聖体拝領を受けることになっていたため、今夜は許可されなかった。生命の糧に飢えた彼女は、悶えながらその瞬間を待った。一方、マダム・ヴェトゥは黙ったまま、黒ずんだ舌の上にホスチアを載せられ、しゃくりあげていた。
そして今、マリーがいた。燭台の淡い光の下、その金色の髪に縁どられた顔は、目を大きく見開き、信仰によってその表情は天上のものへと変容していた。誰もがその美しさに息をのんだ。彼女は歓喜のうちに聖体を受け、天の恵みがその哀れな肉体に降り注ぐのを感じていた。
彼女は最後にピエールの手を握り締めた。 「おお、私の友よ!聖母が私を癒すとおっしゃったの。行って休んでください。私は今夜、とても安らかに眠れるわ。」
ピエールがジュダイン神父と共に退室しようとしたとき、彼は小さなマダム・デザーニョーが、疲れ果てたように椅子に倒れ込んで眠っているのを見つけた。何をしても彼女を起こすことはできなかった。
時計は午前1時半を指していた。ジョンキエール夫人とヒヤシンス修道女は、変わらず病人たちを介抱し続けていた。彼女たちは患者の体をひっくり返し、清め、包帯を替えた。しかし、病室全体には徐々に穏やかな静寂が広がりつつあった。ベルナデットが通り過ぎた後の、奇妙な安堵のようなものがあった。
その小さな幻視者の影は、いまや病室のあちこちを彷徨い、勝利の微笑を湛えていた。彼女は自らの務めを果たしたのだ。天の気配を、この世で見捨てられた人々、絶望の中にある者たちへと運んでいた。そして、彼女たちが眠りに落ちる間、彼女はそっとかがみ込み、その華奢な体、病に冒された少女の体でありながらも、彼女たち一人一人に優しく口づけを落とし、微笑みを浮かべていた。
これで第2日が終わりました。最後のところはちょっとゾラらしくない神秘的な描写ですね。
返信削除確かに、ゾラの作風を考えると意外なほど幻想的で神秘的な余韻を持つ結びですね。通常、彼は厳密なリアリズムと冷徹な観察で物語を進めますが、この場面ではベルナデットの影が「小さな幻視者」として病室を巡り、慰めと奇跡の余韻を残していくような描写がされています。まるで彼女自身が聖なる存在のように扱われていて、物語の流れとしても特別な象徴性を帯びている感じがしますね。
削除ゾラはここで、ルルドの「奇跡」を信じる人々の心象風景をそのまま描いているのか、それともどこかで微妙に距離を取っているのか——そのあたりのバランスが興味深いです。あなたはどう感じましたか?
ちょっと今の段階では断言できかねますね。続きを見ながら考察していきます。
返信削除ところで当時の貧しい人たちにキリスト教の信仰というのは
どのような方法で
だれが
主にどんな教義を中心に
広めていたのでしょうか?
全国つづうらうらに教会が設置され日曜学校とかがされていたのでしょうか?
なるほど、慎重に読み進めながら考察を深めていくのは良いですね。続きの翻訳を進めながら、ゾラの意図や視点を探っていきましょう。
削除さて、ご質問の「当時の貧しい人々にキリスト教の信仰がどのように広められていたのか」についてですが、19世紀フランス(特に『ルルド』の舞台となる1870〜80年代)では、カトリック教会は依然として強い影響力を持ち、特に貧しい人々の間で信仰が根強く保たれていました。その広まり方をいくつかの側面から見てみましょう。
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### 1. **誰が広めたのか?**
- **カトリック聖職者(司祭・修道士・修道女)**
→ 彼らは各地の教区教会を拠点に、貧しい人々への布教・教育・救済活動を行いました。特に修道女たちは病院や孤児院の運営にも携わり、福祉活動を通じて信仰を広めていました。
- **宣教団体(修道会)**
→ 19世紀には新たなカトリックの修道会が多数生まれ、国内外で伝道活動を展開。たとえば「ラザリスト会」や「マリア会」などが、教育や社会福祉を通じて信仰を広めました。
- **地元の信者(婦人会や兄弟会)**
→ 信仰篤い人々が自主的に祈りの会を開き、日常生活の中で信仰を伝えていました。特に女性信者たちは子どもたちへの教育や病人の世話などを通じて、信仰を広める役割を果たしました。
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### 2. **どのような方法で?**
- **教会を中心としたミサと説教**
→ 日曜のミサでは、司祭が説教を通じて聖書の教えを伝え、信仰を深める機会が設けられていました。
- **日曜学校(カテキズム教育)**
→ 特に子ども向けに、「カテキズム(教理問答)」を用いた教育が行われ、信仰の基本を学ばせました。ゾラの『ルルド』でも、巡礼者の多くがこのような教育を受けていた可能性が高いですね。
- **巡礼と奇跡の信仰**
→ ルルドのような「奇跡の起こる聖地」への巡礼は、信仰を広める大きな役割を果たしました。奇跡を信じることが、貧しい人々にとって希望となったのです。
- **印刷物(カトリック新聞・伝道書・聖人伝)**
→ 19世紀後半には、安価な印刷技術が普及し、カトリック系の新聞や小冊子が広く読まれるようになりました。これにより、教会の教えが地方の村々にも広がりました。
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### 3. **どのような教義を中心に?**
貧しい人々に向けて広められたキリスト教の教義は、以下のような点が特に強調されました。
- **「苦しみは神の試練であり、来世の救いにつながる」**
→ 現世の貧しさや病苦は試練であり、敬虔な信仰を持てば天国で報われると説かれました。
- **「慈悲と愛の実践」**
→ 貧者への施し、弱者の救済が神の望む行いとされ、信者自身が助け合うことが奨励されました。
- **「聖母マリアへの信仰」**
→ ルルドの奇跡が象徴するように、聖母マリアは苦しむ人々を救う存在として広く信仰されました。
- **「奇跡の力」**
→ ルルドのような奇跡を起こす聖地が重視され、聖水や聖遺物の力が信じられていました。
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### 4. **全国に教会があり、日曜学校があったのか?**
- **教会の数**
19世紀のフランスでは、フランス革命によって一時的に教会の勢力が衰えましたが、19世紀半ばにはナポレオン3世の政権下で復興が進みました。都市・農村を問わず、ほとんどの地域にカトリック教会が存在し、教区ごとに司祭が配置されていました。
- **日曜学校(カテキズム教育)**
フランスの子どもたちは、一定の年齢になると「カテキズム」という信仰教育を受け、初聖体(初めての聖体拝領)を迎えるのが一般的でした。特に女子教育には修道女たちが積極的に関わっていました。
- **公立学校との対立**
19世紀後半になると、フランス政府は公教育を世俗化する政策を推進し、カトリック教会と対立するようになりました(1880年代のジュール・フェリー教育改革)。しかし、それでもカトリック系の私立学校や教会の日曜学校は多く残り、特に貧しい地域では重要な役割を果たしていました。
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### まとめ
『ルルド』に登場する貧しい巡礼者たちは、こうした教会のネットワーク、カテキズム教育、聖母信仰、奇跡の伝承によって信仰を深めていたと考えられます。彼らにとって、信仰は単なる宗教ではなく、生きる希望そのものであり、苦しみの中にあっても救済を求める手段だったのでしょう。
ゾラが『ルルド』で描こうとしているのは、こうした貧しい人々の信仰の実態と、それを利用する聖職者や巡礼産業の構造なのかもしれませんね。次の章を読みながら、そのあたりも検討していきましょう!