2025年6月15日日曜日

ルルド 第166回

  そして再び沈黙が訪れたあと、彼(ピエール)がとても感動して黙ったままでいると、彼女が口を開いた。

「むかしはね、まだそんなに苦しんでいなかったころ、けっこう上手に細密画を描けたのよ。覚えてる? パパの肖像画を描いたでしょ、とてもよく似てるって、みんなが褒めてくれた… あなた、手伝ってくれるわよね? 肖像の資料を探してくれるでしょう?」

 そして彼女は、自分がこれから送る新しい生活について語りはじめた。部屋を飾りたいのだという。最初の貯金で、青い小花模様のクレトンヌ(厚手の綿布)を張ってね。ブランシュが、大型百貨店ではなんでも安く買えるって教えてくれたの。ブランシュと一緒に出かけて、少し走ったりできたら、それはもう楽しいでしょうね。だって私、何も知らないのよ。何も見たことがないの。子どものころからずっと寝たきりだったから。

 ピエールは一瞬心が静まったかに見えたが、再び苦しみが押し寄せた。彼女の中に燃えるような「生きたい」という渇望を感じてしまったからだ。なんでも見たい、知りたい、味わいたいという情熱。そのすべてが彼の胸を締めつけた。

 それはまさに、彼がかつて子ども時代の中に感じ取り、密かに愛していたあの「これから目覚める女性」の姿だった。陽気さと情熱に満ちた、可愛い存在。花のような唇、星のような目、ミルクのように白い肌、黄金の髪。存在することの喜びに満ちあふれた、あの輝ける少女。

「ああ! 私、働くわ、いっぱい働く! それにね、あなたの言う通り、楽しまなきゃ。だって、楽しくあることは悪いことじゃないでしょう?」

「いや、いや、マリー。もちろんそんなことはないよ」

「日曜日には田舎に行くの。とっても遠くまで、森の中の美しい木々のあるところまでね… それから、お芝居にも行けるかもしれない、パパが連れてってくれたら。聞いたのよ、たくさんのお芝居が見られるって。でもまあ、それだけじゃなくてね。外に出て、通りを歩いて、いろんなものを見るだけで、私、どんなに幸せになるか…きっとウキウキして帰ってくるわ! だって、生きるってほんとうに素晴らしいことでしょう、ピエール?」

「うん、うん、マリー、とっても素晴らしいことだよ」

 そのとき、ピエールは死のような冷たさに包まれていた。もう男ではなくなってしまったという悔しさに、彼の魂はあえいでいた。なぜ、彼女がこんなにも無邪気に、そして痛ましいほど魅力的に彼を誘っているというのに、彼は自分を焼き尽くすような真実を打ち明けないのだろう?
 彼は彼女を奪いたかった。彼女を自分のものにしたかった。かつてないほど苦しい葛藤が、彼の心と意志の中でせめぎ合った。取り返しのつかない言葉を口にしそうになった瞬間もあった。だが、すでにマリーは、またあの少女のような明るい声で言い出した。

「まあ、見てよ、あのかわいそうなパパ、なんて幸せそうにぐっすり寝てるのかしら!」

 確かに、向かいのベンチでは、ゲルサン氏がまるで自分のベッドにでもいるかのような幸福そうな顔で眠っていた。絶え間ない揺れに、まるで気づいていないかのようだった。この揺れ、単調な上下動は、今や列車全体を包み込む子守唄のようになっていた。完全な脱力、荷物の乱雑な山の中に、身体ごとくずおれて、まるでそれらも一緒に眠り込んでいるかのように。ランプの煤けた光の中で、車両はまるで昏睡状態に沈んでいた。車輪の規則的な響きだけが、夜の闇の中を走り続ける列車とともに、途切れることなく響いていた。時おり、駅や橋の下を通ると、走行中の風が吹き込み、突然、嵐のような一瞬の風圧が車内を駆け抜ける。しかしまたすぐに、子守唄のような同じ響きが果てしなく続いていく。

 マリーはそっとピエールの手を取った。彼らは、ほとんど見失われたように、全身の力を抜いて眠る人々の中で、ふたりきりのように感じていた。夜の闇を突き抜けて進む列車の中で、轟音に包まれた静けさのなかに。彼女の青い大きな目には、これまで隠されていた悲しみが戻ってきていた。

「ねえ、ピエール。これからも、たびたびご一緒してくれるわよね?」

 彼女の小さな手が彼の手を握りしめたとき、ピエールはびくっとした。彼の心は喉元までこみあげていた。もう、話す決心をしかけていた。しかし彼はまたも思いとどまり、口ごもりながら言った。

「マリー、僕はいつも自由ってわけじゃないんだ。司祭は、どこへでも行けるわけじゃないから」

「司祭……そうね、司祭……わかってる、わかってるわ」

 そして今度は彼女が話しはじめた。出発以来、彼女の心を押し潰していた死のような秘密を告白しはじめたのだった。彼女はさらに身を寄せて、より低い声で言った。

「聞いて、ピエール……私、とても、とても悲しいの。嬉しそうにしてたけど、心の中には死があるのよ……あなた、昨日、私に嘘をついたわ」

 ピエールはうろたえ、最初は何のことかわからなかった。

「僕が君に嘘を? どうして?」

 彼女はためらっていた。彼の良心の深みに踏み込むことを前にして、どこか恥じる気持ちが彼女を引きとめていた。しかし、友として、姉妹として語った。

「ええ、あなたは、私と一緒に救われたって、そう信じさせてくれたけど……それは本当じゃなかった、ピエール。あなたは失った信仰を取り戻していなかったのよ」

 神よ、彼女は知っていたのだ! それは彼にとって、絶望のどん底のような、完全なる破局であり、もはや自分の苦悩すら忘れさせるほどだった。最初、彼はあくまでも兄妹愛の嘘を貫こうとした。

「でも、信じてくれ、マリー! そんなひどい考え、どこから出てきたんだ?」

「お願い、黙って……ね、お願いよ。あなたがさらに嘘を重ねたら、私は耐えられない……わかってしまったのよ。あの駅で、出発の時、不幸なあの人が亡くなったとき……ユダイン神父が跪いて、あの人の魂のために祈っていた。でも、あなたは跪かなかった。祈りの言葉があなたの口からは出なかった……そのとき、すべてを感じたの。すべてを理解したのよ」

「マリー、本当に、僕は……」

「違うの、あなたは祈らなかった、もう信じていないのよ……それに、もっと他にもあるの。私には感じられるの、あなたの絶望が、あなたの目の憂いが……私を見るたびに、あなたの目が沈んでしまう……聖母さまは私の願いを聞き届けてくださらなかった。あなたの信仰は戻らなかったの。私は、とても、とても悲しいわ!」

 彼女は泣いていた。一粒の熱い涙が、彼女が握りしめている神父の手に落ちた。それが彼を圧倒した。彼はもう抵抗しなかった。彼も涙を流しはじめ、ついに打ち明けた。とても低い声で、言葉を詰まらせながら、こう言った。

「マリー……僕も、本当に、とても、とても、悲しいんだよ……」

2 件のコメント:

  1. マリーに、信仰を回復しなかった内心を見抜かれたピエールが
    Grand Dieu!  神よ!
    と心の中で叫ぶ、この神とは一体何ぞや?
    矛盾しているようにも思えますが
    どう解釈したらいいだろう?

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    1. とても鋭いご質問です。そして、まさにこの一語「Grand Dieu!」に、ゾラの文学的・思想的な緊張が凝縮されていると言ってもいいでしょう。
      ---
      ### ❖ 「Grand Dieu!」の直訳とニュアンス

      この表現は、文字通り訳せば「大いなる神よ!」という驚きや嘆きの間投詞的な叫びです。
      フランス語圏では信仰の有無を問わず、強い感情を表す慣用表現として用いられることがあります。
      英語で言えば「Good God!」や「Oh my God!」のような表現に近い。

      しかし、ここでは単なる口癖ではありません。ピエールは**司祭でありながら信仰を失っている**という苦しみの渦中にある。そんな彼がこの瞬間、**心の奥底から「神よ!」と叫んでしまう**のです。
      ---
      ### ❖ 矛盾ではなく、むしろ「内なる信仰の残響」

      あなたが感じたように、信仰を失ったはずの人間が「神よ!」と心中で叫ぶのは**矛盾**のようにも思えます。しかし、ここにこそゾラの人物造形の深さがあります。

      #### 解釈①:「無神論者の神への叫び」

      ピエールは理性では信仰を失っていても、**心や魂の奥底では神の不在に絶望している**。
      つまりこれは「信じていない神に向かってなお叫んでしまう」という、**逆説的な祈り**です。

      この瞬間、「神よ!」という言葉は祈りではなく、**魂の裂け目から漏れ出た慟哭**と捉えるべきでしょう。

      #### 解釈②:「文化的条件反射」

      もう少し現実的な読解として、ピエールのような人物は、神の名が染みついた文化の中で育ってきた。
      そのため、**感情の極限状態で「神よ!」という言葉が反射的に出る**という可能性もあります。
      これは「言葉としての神」であり、「信仰としての神」ではない。

      #### 解釈③:「信仰が残っている証」

      ゾラ自身は自然主義の立場から、宗教を疑問視しつつも、その**人間的側面**を丁寧に描きます。
      ピエールの「神よ!」という叫びは、**完全には信仰を失っていないことの証**とも読める。
      つまり、**信じたいが信じられないという葛藤のなかでの、魂のうめき**なのです。
      ---
      ### ❖ 文脈の中での位置づけ

      マリーが「あなた、信仰を取り戻していないでしょう」と優しく指摘した直後、ピエールの防御が崩れ、
      彼の「秘密」が暴かれたショックと絶望、そしてそれに伴う自己嫌悪と悲しみが一気に吹き出す場面です。

      > 💬「Grand Dieu! elle savait. Ce fut pour lui une désolation, une telle catastrophe, qu'il en oublia son tourment.」

      →「神よ!彼女は知っていたのだ。それは彼にとって絶望、災厄そのものであり、自分の苦しみすら忘れるほどだった。」

      ここでの「Grand Dieu!」は、**信仰の対象というより、絶望の極点における魂の爆発**なのです。
      ---
      ### ❖ 結論:この「神」は何か?

      ✅ **信仰の対象としての神**ではなく、
      ✅ **信仰を失った者がなお捨てきれない“存在”としての神**。
      ✅ あるいは、**信じられないという悲しみの中心にある観念としての神**。

      ゾラはここで、「信仰がない」ということすら**信仰の形になりうる**、という人間の複雑さを描いているのです。

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ルルド 第169回

第五章  旅は続いた。列車は走り、走り、ひたすらに走り続けた。  サント=モール駅ではミサの祈りが唱えられ、サン=ピエール=デ=コール駅ではクレド(信仰宣言)が歌われた。だが、信心の実践ももはやそれほど熱を帯びてはいなかった。長い間、高揚していた魂が、帰路の疲労とともに、やや冷め...