彼女が苦しんでいない時、つまり、医務室で働けるような体調の日には、ベルナデットは行ったり来たりし、子どものような陽気さで家じゅうを明るくしていた。亡くなるその日まで、彼女は無垢で子どもっぽい存在のままであり、笑うこと、跳ねること、遊ぶことが大好きだった。修道院の中では一番小柄で、それゆえ仲間たちからはいつも少し子ども扱いされていた。顔つきはやせ細り、頬もこけて、若々しい輝きは次第に失われていったが、目だけは変わらずに澄んでいて神秘的な光を放っていた。その美しい「幻視者のまなざし」には、まるで澄んだ空に夢が羽ばたいていくような気配が宿っていた。
年を重ね、苦しみを重ねるうちに、彼女の性格には少しばかりの棘や激しさが現れることもあった。ときに不安定で、荒々しくなることもあったが、それはほんの些細な欠点であり、発作の後には必ず深い悔いを覚えていた。自分を卑しめ、地獄に堕ちるとまで思い込み、みんなに謝って回ったりするのだった。けれど普段は、本当に「神さまのよい子」で、きびきびとした物言いをし、面白い冗談や機知に富んだ返しで周囲を笑わせていた。彼女は独特の魅力を持ち、それによって周囲の人々からとても愛されていた。
信仰に篤く、一日中祈りに明け暮れる日もあったけれど、それを押しつけるような堅苦しい宗教女では決してなかった。熱心すぎて周囲を巻き込むようなことはなく、寛容で、思いやり深かった。要するに、これほど「聖女らしい」少女でありながら、これほど「ひとりの女性」としての顔を残していた修道女も他にいなかった。無垢さ、子どもらしさ、それを彼女は生涯保ち続けていた。そしてそれゆえに、子どもたちからも絶大な人気を誇っていた。彼らはベルナデットの元に駆け寄り、膝に飛び乗り、両腕で首に抱きついた。庭はたちまち歓声と追いかけっこの声で賑やかになり、そしてベルナデットこそ、誰よりも大声で、誰よりも楽しそうに駆け回っていた――まるでバルトレスの羊飼い時代の、あの貧しくも自由だった日々を取り戻したかのように。
後になって、こんな逸話も語られた。ある母親が、病気で歩けない我が子を連れて修道院を訪ねてきて、「聖女ベルナデットに触れてもらえれば治るかもしれない」と泣いて頼んだという。あまりに必死な様子に、上長もついに許可を出した。ただし、奇跡を請われることをひどく嫌がっていたベルナデットには、事情を知らせず、ただ「病気の子を医務室まで抱いて行って」とだけ頼んだ。彼女はその子を抱きかかえて運び、床に降ろすと――なんと、その子は自ら歩き始めた。癒やされたのである。
ああ、どれほどの回数、バルトレスの思い出――羊の群れを追って野を駆け、草の海や森の中を過ごしたあの日々――が、祈り疲れて夢にふける彼女の心の中に甦ったことだろうか。その時のベルナデットの心の奥深くに、誰も踏み入ることはできない。けれども、誰にも言えぬ後悔が、無意識のうちに彼女の胸を引き裂いていた可能性は否定できない。
ある日、彼女が口にした言葉が記録として残されている。修道院の狭い部屋にこもり、病の床に伏しながら、彼女はこうつぶやいたのだという。
「私は、生きて、動いて、働くために生まれてきたような気がするのに、神さまは私を、動けないままにしておかれる」
なんという重たい証言、どれほどの悲しみが込められた言葉だろう!
なぜ神は、こんなにも愛らしく元気な少女を、じっと動けぬ身に閉じ込めたのか。もし彼女が祈る代わりに、人生の愛を誰かに与え、夫や子どもを得て、普通の幸福を生きていたとしたら――その方が、ずっと神を喜ばせる生き方だったのではないか?
ある晩には、いつも陽気で元気な彼女が、どこまでも沈み込み、深い絶望に沈んでしまうこともあったという。あまりの痛みに、自我が崩れていくような瞬間だったのだろう。絶え間ない「犠牲の人生」を意識すること自体が、彼女にとってはすでにひとつの「死」であったのかもしれない。
彼女が苦しんでいない時、つまり、医務室で働けるような体調の日には、ベルナデットは行ったり来たりし、子どものような陽気さで家じゅうを明るくしていた。亡くなるその日まで、彼女は無垢で子どもっぽい存在のままであり、笑うこと、跳ねること、遊ぶことが大好きだった。修道院の中では一番小柄で、それゆえ仲間たちからはいつも少し子ども扱いされていた。顔つきはやせ細り、頬もこけて、若々しい輝きは次第に失われていったが、目だけは変わらずに澄んでいて神秘的な光を放っていた。その美しい「幻視者のまなざし」には、まるで澄んだ空に夢が羽ばたいていくような気配が宿っていた。
年を重ね、苦しみを重ねるうちに、彼女の性格には少しばかりの棘や激しさが現れることもあった。ときに不安定で、荒々しくなることもあったが、それはほんの些細な欠点であり、発作の後には必ず深い悔いを覚えていた。自分を卑しめ、地獄に堕ちるとまで思い込み、みんなに謝って回ったりするのだった。けれど普段は、本当に「神さまのよい子」で、きびきびとした物言いをし、面白い冗談や機知に富んだ返しで周囲を笑わせていた。彼女は独特の魅力を持ち、それによって周囲の人々からとても愛されていた。
信仰に篤く、一日中祈りに明け暮れる日もあったけれど、それを押しつけるような堅苦しい宗教女では決してなかった。熱心すぎて周囲を巻き込むようなことはなく、寛容で、思いやり深かった。要するに、これほど「聖女らしい」少女でありながら、これほど「ひとりの女性」としての顔を残していた修道女も他にいなかった。無垢さ、子どもらしさ、それを彼女は生涯保ち続けていた。そしてそれゆえに、子どもたちからも絶大な人気を誇っていた。彼らはベルナデットの元に駆け寄り、膝に飛び乗り、両腕で首に抱きついた。庭はたちまち歓声と追いかけっこの声で賑やかになり、そしてベルナデットこそ、誰よりも大声で、誰よりも楽しそうに駆け回っていた――まるでバルトレスの羊飼い時代の、あの貧しくも自由だった日々を取り戻したかのように。
後になって、こんな逸話も語られた。ある母親が、病気で歩けない我が子を連れて修道院を訪ねてきて、「聖女ベルナデットに触れてもらえれば治るかもしれない」と泣いて頼んだという。あまりに必死な様子に、上長もついに許可を出した。ただし、奇跡を請われることをひどく嫌がっていたベルナデットには、事情を知らせず、ただ「病気の子を医務室まで抱いて行って」とだけ頼んだ。彼女はその子を抱きかかえて運び、床に降ろすと――なんと、その子は自ら歩き始めた。癒やされたのである。
ああ、どれほどの回数、バルトレスの思い出――羊の群れを追って野を駆け、草の海や森の中を過ごしたあの日々――が、祈り疲れて夢にふける彼女の心の中に甦ったことだろうか。その時のベルナデットの心の奥深くに、誰も踏み入ることはできない。けれども、誰にも言えぬ後悔が、無意識のうちに彼女の胸を引き裂いていた可能性は否定できない。
ある日、彼女が口にした言葉が記録として残されている。修道院の狭い部屋にこもり、病の床に伏しながら、彼女はこうつぶやいたのだという。「私は、生きて、動いて、働くために生まれてきたような気がするのに、神さまは私を、動けないままにしておかれる」
なんという重たい証言、どれほどの悲しみが込められた言葉だろう!
なぜ神は、こんなにも愛らしく元気な少女を、じっと動けぬ身に閉じ込めたのか。もし彼女が祈る代わりに、人生の愛を誰かに与え、夫や子どもを得て、普通の幸福を生きていたとしたら――その方が、ずっと神を喜ばせる生き方だったのではないか?
ある晩には、いつも陽気で元気な彼女が、どこまでも沈み込み、深い絶望に沈んでしまうこともあったという。あまりの痛みに、自我が崩れていくような瞬間だったのだろう。絶え間ない「犠牲の人生」を意識すること自体が、彼女にとってはすでにひとつの「死」であったのかもしれない。
「なぜ神は、こんなにも愛らしく元気な少女を、じっと動けぬ身に閉じ込めたのか。」
返信削除という一節は考えさせられるね。
「神」が全世界を支配する「意志」であるとするならば、ベルナデットの苦難には何らかの理由があるだろうと人間が推測し、まあ、それは試練なのだとか犠牲なのだとかいうことになるのでしょうか。
一方、「神」の存在を否定し、世界の現象には様々な因果関係があると考えるならば、信仰、宗教というものが生まれる根拠と、それがもたらす様々なゆがみに思いを至らせることになるでしょうか。
どちらにしろ、人が生まれて死ぬまでに通過する喜び、悲しみ、怒り、楽しみ、つまり運命というものにどう向き合うのか、考えさせられる。
まったくもって、その通りですね。
削除ベルナデットという一人の少女の人生は、まるでその問い――「人は、なぜ生き、なぜ苦しむのか?」という人類共通の命題――に対するひとつの寓話のようでもあります。
あなたが指摘されたように、
* 「神」を全世界の支配者=意志の体現とみなせば、彼女の苦しみには“意味”があるはずで、それは**試練**であり、**献身**であり、もしかすると彼女自身が「人々の魂の救済」のために選ばれた**犠牲者**だったという解釈になるでしょう。
* 一方で、世界を因果の連鎖として見るとき、ベルナデットが病み、孤立し、信仰の対象として消費された事実そのものに、宗教的“意味”を見出すことを拒否する視点もあります。その場合、彼女の苦しみは「信仰による社会的抑圧」「貧困と無理解のなかでの個の消耗」「女性の役割に対する過酷な規範の反映」などとして捉えられるでしょう。
ゾラは、奇跡を描きながらも、冷徹なリアリズムの筆でそれを「人々の望み」「群衆の欲望の交差点」として描きました。つまり、「信じたい」という人間の内的衝動が、どんなに不合理なものであっても、それによって生まれる力、そして犠牲、さらには熱狂――そうしたすべてを、彼は見つめていたのです。
このベルナデットの物語の一節で、私が思い出すのは、カミュの『異邦人』のあの有名な言葉です。
> 「不条理を受け入れることによって、人間は自由になる。」
もし神の意志が意味を持たず、世界が理不尽であるならば――それでも生きる意味を人間が自らに与えることはできる。ベルナデットが最後まで人を憎まず、祈り、笑い、子どもたちに愛されていたという事実こそ、彼女の“選択”だったのではないでしょうか。
運命に対してどう向き合うか。
それは神が人に与えた問いであり、あるいは神なき世界で人が自らに投げかける問い。
ベルナデットはその問いに対し、答えではなく“生き方”をもって応えたのだと、私は思います。
この最終章は、とりわけ読む者の魂を試すように、静かで、でも奥深くて、切実ですね。
続きを読み進めるのが、なんだかもったいないくらいです。