2025年6月21日土曜日

ルルド 第172回

  サン=ジルダールでのベルナデットは、しばしばルルドのことを思い出していたのだろうか?

 あの奇跡の地で日々起こっている数々の驚異、洞窟の栄光について、彼女はどれほど知っていただろうか?
 この問いに、明確な答えが出ることはなかった。彼女の修道女仲間たちには、そうした話題を避けるよう厳しく言い渡されており、彼女は常に沈黙の壁の中に置かれていた。ベルナデット自身も、それらについて語ることを好まず、あの不思議な過去については黙したまま、現在のいかなる栄光にも興味を示す様子はなかった。

 けれども、それでも、彼女の心はひそかに飛んでいかなかっただろうか? あの魔法のような子ども時代を過ごした土地へ――家族が暮らし、自分の人生のすべての結び目が編まれ、そして何よりも、一人の人間が見た夢としては最も異様で美しい幻をそこに置いてきた地へと。きっと、彼女は心の中で何度も思い出の旅をしたに違いない。そして、ルルドで起こった大まかな出来事は、少なくとも断片的には知っていたはずだ。

 ただ、彼女をおびえさせていたのは、現地に足を運ぶことそのものだった。本人としては、それを強く拒み続けていた。というのも、そこに行けば、自分が人々の目に触れずに済むことなど絶対にないとわかっていたからだ。崇拝の波が彼女を待ち構えている。それを思うと、怖気づくのも無理はない。もし彼女の中に、少しでも自らを売り出したい、目立ちたい、支配したいという欲望があったならば――彼女はきっとあの聖なる幻視の場所に戻っていただろう。奇跡を起こし、「選ばれし者」「聖母の友」として、女司祭のような立場で崇められていたはずだ。

 だが、修道会の上層部は、彼女がそうすることを真剣には恐れていなかった。ベルナデットを世界から切り離すという命令は確かに出ていたが、それは彼女を救うためのものであって、彼女を抑え込むためではなかった。彼らは知っていたのだ――彼女があまりにも優しく、謙虚で、神聖視されることにおびえ、ましてや、自分の幻視が動かした巨大な機構を自覚したならば、その悪夢のような商業的展開に戦慄してしまうほどだったと。

 いや、いや、もはやあの地は彼女のものではなかった。群衆と熱狂と商売の場所となったルルドに、彼女はもう居場所を見いだせなかったのだ。そこに行けば、彼女はあまりにも傷つき、戸惑い、羞恥のうちに気を失ってしまうだろう。だからこそ、巡礼者たちが彼女に笑顔でこう尋ねるたびに――
「ご一緒にどうですか?」
 彼女はわずかに身を震わせ、そして急いでこう返すのだった。

「いいえ、いいえ。でも……もし私が小さな鳥だったら、どんなに行きたいことでしょう!」

 彼女の夢想だけが、小さな旅する鳥となった。すばやく飛び、音もなく羽ばたきながら、絶えず洞窟(グロット)への巡礼を繰り返す小鳥となって――。

 ベルナデットは、父の死に際しても、母の死に際してもルルドには行かなかった。しかし、その心はおそらく常にそこにあった。彼女は家族を愛していたし、貧しいままの家族に仕事を見つけようと心を配っていた。兄がヌヴェールまで不満を訴えにやってきたときには、彼に会いたいと望んだ。しかしその兄は、修道院の門前で拒まれた。

それでも彼は、疲れ切り、すべてを受け入れたような妹に会った。彼女は兄に、いまのルルドがどうなっているかを尋ねようともしなかった。まるで、あの発展を遂げた町そのものが、恐ろしくてたまらないかのように。

 聖母戴冠の年、ある司祭が彼女に代わってグロットで祈りを捧げ、その後、忘れがたいほど華麗だった式典の様子を伝えにやってきた。そこには十万人もの巡礼者が押し寄せ、バジリカ聖堂の中では三十五人の金糸の衣をまとった司教たちが、燦然と輝いていたという。

 ベルナデットは身震いした。微かな願望と不安が入り混じるような小さな戦慄だった。そして司祭が叫んだ――
「もしあなたがあの輝きを見ていたら!」
 すると彼女は答えた。
「私? 私はここで、私の小さな病室にいたほうがずっと幸せでした。」

 彼女の栄光は奪われていた。その手から離れた奇跡の業績は、絶え間ない賛美の声に包まれ、盛大に鳴り響いていた。だが彼女自身は、忘却の底、修道院の影に沈むその孤独の中でしか喜びを感じられなかった。あのグロットを富ませた大地主たちの心からも、すでに忘れ去られていた。

 華々しい儀式のとき、彼女の魂の小鳥は決して飛び立たなかった。むしろ、孤独な日、誰にも邪魔されず祈りに没頭できる静かな時間こそが、その霊魂の旅のときだった。彼女がひそかに膝をつくのは、かつての野性的な、原始のままのグロットの前だった。野バラの茂みのなか、ガーヴ川がまだ巨大な堤防で囲まれる前の、あの頃の風景の中へ。

 夕暮れの涼しい時間には、芳しい山々に囲まれた古い町へと、心はさまよい出る。スペイン風の装飾が施された金色と絵画に包まれた古い教会。そこで彼女は初聖体を受けた。
 そして、あの暖かな病院――八年間も隠棲に慣れ親しんだ場所。それらすべての貧しく素朴な旧市街の風景が、彼女の記憶の奥底に、ひとつひとつ愛情をもって呼び起こされた。

 では、ベルナデットは夢の巡礼において、バルトレにも戻ったのだろうか? おそらく、そうだったのだろう。病人の椅子に腰掛け、手から祈祷書が滑り落ち、まぶたを閉じたとき――バルトレの姿が目の前に浮かび、彼女の目に夜の中の光を与えたのではないか。

 あのロマネスクの小さな古い教会。青空のような色の天井、血のように赤い祭壇装飾。狭い墓地のなかに、それはひっそりと佇んでいた。

 そして彼女は、ラグ家の家の左側の広間に戻る。冬には火が焚かれ、家族が昔話を語る場所。重々しく時を打つ大時計がそこにあった。

 そして周囲には、果てしない草原が広がり、巨木の栗の木々が影を落とし、遠くにはミディ山、ヴィスコス山――夢のように軽やかでバラ色の、まるで伝説の楽園のような峰々が浮かぶ。

 それから――それから、彼女は再びあの自由な少女時代へと還っていく。好きなところへ駆け回り、自然の中を喜びに満ちて生きていた、あの13歳の孤独で夢見がちな自分へ。

 そして今――ひょっとして――彼女は夢のなかで、流れる小川のそば、サンザシの茂みのなか、背丈ほどの草むらの中に、自分が身を横たえているのを見たのではないか。6月の暖かな陽光の下、すっかり成長した彼女は、同じ年頃の愛しい人とともにいて、その心のすべての優しさと素直さで愛していたのではないか?

――ああ、若さを取り戻したい。もう一度、自由になりたい。名もなき少女として、幸福になりたい。そして、もう一度愛したい。今度こそ違う形で、違う愛し方で。

 幻影はぼんやりと流れてゆく。夫に愛され、周囲には楽しげな子どもたち。世の人々が生きる普通の人生。両親が味わった喜びや悲しみ、子どもたちもまた知るはずだったはずの、あのごく当たり前の幸福。

 だが、やがてすべては消えていく。そして、彼女はまた自分の病人用の椅子に戻ってくる――冷たい壁に囲まれた四角い空間に閉じ込められ、ただひとつの望みとして残されたのは、
「できるだけ早く、死が訪れますように」――
  この地上の「つつましい幸福」に、彼女にはもはや居場所がなかったのだから。

4 件のコメント:

  1. 聖母戴冠の年 というのは、いつで、どういうものですか?

    返信削除
    返信
    1. 「聖母戴冠の年(l’année du Couronnement de la Vierge)」とは、1876年のことです。
      この年、ルルドの聖母マリア像に対して盛大な戴冠式が行われました。これはカトリック教会の中でも特別な意義を持つ儀式です。

      🔹 戴冠の背景と意味
      この「戴冠」とは、ローマ教皇から正式に認可された冠を、聖母像に捧げて載せる儀式で、マリア信仰の中心地に対する極めて重要な名誉でもあります。

      1858年:ベルナデットがルルドの洞窟(グロット)で聖母の出現を見たとされる。

      1876年:教皇ピウス9世の承認のもと、ルルドの「無原罪の御宿り」の聖母像に金の王冠が捧げられ、正式に戴冠される。

      このとき、35人の司教たちと約10万人の巡礼者がルルドに集まり、バジリカで盛大なミサが捧げられました。

      🔹 儀式の象徴性
      戴冠は、マリアが「天の元后(天の女王)」であるというカトリックの信仰を公に象徴する儀式です。

      ルルドの地が、もはや「一修道女の幻視の地」ではなく、世界的な巡礼地として確立した瞬間でもありました。

      🔹 ベルナデットにとっては…
      ベルナデットはこのときすでにヌヴェールの修道院にいて、修道女として隠棲していました。

      彼女はこの壮麗な式典に参加しませんでした。

      誰かに式典の様子を語られても、
       > 「私はここで、小さな病室にいる方がずっと幸せ」
       と答えています。

      彼女の信仰が「華やかな信仰」ではなく、「深く静かな信仰」であったことが、ここにも表れていますね。

      削除
  2. この辺のベルナデットの心理描写は、ほぼゾラによる創作と考えてよいでしょうかね。

    返信削除
    返信
    1. はい、かなりの部分は**ゾラによる創作**と見てよいです。
      特に、内面的な苦悩、夢想、反抗心、後悔、そして「もし普通の人生を送っていたら…」というような空想的な心理描写は、**ベルナデット自身の言葉として残っているものではありません**。

      ---

      ### 🔹 歴史資料と創作の境界

      ゾラが『ルルド』を書く際に参照したのは、以下のような資料でした:

      * 修道院の記録や目撃証言(多くはカトリック側の記録)
      * ベルナデット自身の手紙や証言(非常に少ない)
      * 当時出版されていた巡礼関連のパンフレットや聖人伝

      ただし、ベルナデット自身は非常に寡黙で、「自分の内面を語ることはほとんどなかった」と記録されています。特にヌヴェールに入ってからは、極力沈黙を守り、ルルドや出現体験について語ることを避けていたため、**その心の内を確かめる術はない**というのが実際のところです。

      ---

      ### 🔹 ゾラの狙いと筆致

      ゾラはベルナデットを単なる「聖人」としてではなく、一人の「少女」「女性」「人間」として描こうとしました。

      * 「聖女」ではなく「犠牲者」としてのベルナデット
      * 本来なら自由に生きられたはずの少女が、宗教的奇跡に巻き込まれていく悲劇性
      * 教会や群衆が彼女に投影する願望と、それに反する彼女の個人的な感情の断絶

      このような主題を描くために、ゾラは大胆に**彼女の想像的内面を再構成**しており、その多くは歴史的な裏付けではなく、**文学的・象徴的構成**です。

      ---

      ### 🔹 ゾラの創作における鍵となる表現

      たとえば以下のようなフレーズは明らかにゾラの「解釈」であり、史実ではありません:

      * 「ああ、私は生きて、動いて、愛するために生まれたのに、神は私を動けぬ者にした」
      * 「もしかしたら夫がいて、子どもがいて、普通の人生を歩んでいたら…」
      * 「人々は私の中に奇跡を見たがって、私は“見世物”になった」

      こうした内的モノローグ風の描写は、**ゾラのリアリズムに裏打ちされたフィクション**です。

      ---

      ### 🔹 結論

      > ベルナデットの心情描写――特に「後悔」や「逃避願望」「自由への憧れ」など――は、史実というよりゾラの想像に基づく**文学的構成**である。

      とはいえ、あまりに荒唐無稽な創作ではなく、彼女の境遇や時代背景を考えれば「そうであっても不思議ではない」と読者に思わせる、\*\*説得力のある“仮想の真実”\*\*とも言えるでしょう。

      ---

      必要でしたら、実際のベルナデットの手紙や証言、またカトリック側の聖人伝との比較もできますよ。

      削除

ルルド 第172回

   サン=ジルダールでのベルナデットは、しばしばルルドのことを思い出していたのだろうか?  あの奇跡の地で日々起こっている数々の驚異、洞窟の栄光について、彼女はどれほど知っていただろうか?  この問いに、明確な答えが出ることはなかった。彼女の修道女仲間たちには、そうした話題を避...