2025年6月24日火曜日

ルルド 第175回

  そして、ついに苦悶が始まり、死が訪れた。1879年3月28日(金曜日)、その夜を越せないだろうと人々は思った。彼女は絶望的なまでに墓を求めた──もはや苦しまずにすむため、天にて復活するために。ゆえに彼女は、終油の秘蹟を受けることを頑なに拒んだ。これまでに二度、終油を受けて回復していたからだ。彼女は神に、今度こそ自分を死なせてくれと願っていた。もう十分だ、これ以上苦しみを望むなど、神はもはや賢明ではない──そう考えていたのである。

 しかし、結局は秘蹟を受け入れ、彼女の苦しみはさらに3週間延びることになった。彼女に付き添った神父はしばしばこう繰り返した。「娘よ、自分の命を犠牲にするのです。」ある日、彼女は苛立って鋭く言い返した。「でも、神父さま、それは犠牲ではありません。」──これもまた恐ろしい言葉だった。生きることへの嫌悪、存在への激しい軽蔑、それはまるで、もし一振りの手で終わらせられるなら、人類そのものが即座に終わりを迎えかねないような思いだった。

 無理もなかった。この可哀想な娘には悔やむべきものなど何一つ残されていなかった。彼女は生きる喜びをすべて奪われていた──健康、歓び、愛すらも。だからこそ、彼女が言ったとおり、「わたしの受難は、わたしの死によって終わる。そして、永遠に至るまで続くのです」と。彼女の“受難”という観念は彼女をとらえて離さず、神の子と共に、より深く十字架に磔にされたような気持ちにさせた。

 彼女は大きな十字架を持ってきてもらい、それを痛々しい処女の胸に力強く押し当てた。「これを喉に突き刺して、そのままにしておきたい!」と叫んだ。やがて、衰弱しきった彼女はその手でさえ十字架を握ることができなくなった。「わたしに縛りつけてください、しっかりと、息が絶えるまでこの十字架を感じていたいのです!」──それは、彼女の処女性が唯一知る“男性”だった。彼女の成しえなかった母性に対する、唯一の血まみれの口づけであった。

 修道女たちは縄を取り、痛む彼女の腰の下を通して縛り、痩せこけた不妊の身体を囲むように巻きつけ、十字架を喉元にきつく縛った──まるでそれが身体の一部にならんばかりに。

 ついに、死が憐れみを見せた。復活祭の月曜日、彼女は激しい悪寒に襲われた。幻覚が彼女を苛み、恐怖に震えながら、悪魔があざ笑いながら彼女のまわりをうろつくのを見た。「あっちへ行って、サタン! わたしに触らないで、連れていかないで!」その後の譫妄の中で、彼女は悪魔が自分に飛びかかろうとし、地獄の炎の息を吹きかけてきたのを感じたと語った。

 このように清らかな人生、このように無垢な魂の中に、なぜ悪魔が現れるのか──主よ、なぜですか? そしてまたもや問う、なぜ赦されることなきこの苦痛が、最後の最後まで彼女を苛むのですか? なぜ、この悪夢のような最期、想像を絶する死を迎えねばならなかったのか? なぜこのような純潔と無垢に満ちた美しき人生の終焉が、こうも惨たらしいものでなければならなかったのか?

 せめて、彼女はその純潔な魂のまま、穏やかに眠るように死ぬことはできなかったのか? だが、たぶん彼女が息をしている限り、人生──すなわち悪魔──への憎しみと恐怖を抱かせねばならなかったのだろう。それは彼女を脅かす「生」であり、彼女が追い払おうとした「生」であった。彼女はその「生」を否定し、天の花婿に捧げた処女性を、磔刑にしてささげた。

「無原罪の御宿り」という教義──それは、少女の夢が確証したもの──は、女であること、妻であること、母であることを打ち砕いた。「女は処女である限り崇拝に値する」とするこの教義──母となっても処女であり、そして無垢に生まれた存在を想定するとは、自然への侮辱であり、命への否定であり、女そのものの拒絶であり、女を堕落に追いやるものである。というのも、女は命を宿してこそ偉大であり、命を継いでこそ意味があるのだから。

「出て行って、サタン! わたしを不毛なまま死なせて!」
 彼女は病室に差し込む太陽を追い払い、窓から入る自由な空気を追い払った。その空気には花の香りが漂い、愛の種子が運ばれていた──世界を満たす命の芽が。

2 件のコメント:

  1. なんと壮絶なベルナデットの苦しみ。そして、ゾラは無原罪の御宿りの教義を強烈に批判していますね。しかし、そこには時代の限界というか「女は命を宿してこそ偉大であり」と、現代のジェンダー視点からは容認できない思考もあるわけですが。これをもって当時のゾラを批判することはできないと思います。

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    1. おっしゃる通りです、そらさん。

      ゾラのベルナデット描写は、信仰と肉体、女性性と犠牲、そして「聖」と「苦しみ」がいかにして結びつけられてきたかを、徹底的に批判的に照らし出します。しかしその批判の根底には、「女は命を宿してこそ偉大である」という、19世紀的なジェンダー観が透けて見えるのも事実です。

      ゾラは、女性を「自然」と結びつけ、生命を産むことにその価値を見いだす立場にありました。だからこそ、「無垢で、処女性を保ち、神に捧げられる」という教会の女性理想像を痛烈に「反生命的」「反人間的」として批判できたのですが、それ自体もまた、「母性こそ女性の本質」という思い込みに基づいています。

      現代の視点から見るとその限界は明らかですが、当時としてはむしろラディカルで、「女性の身体を神のために犠牲にするな」と言っただけでも十分に挑戦的でした。よって、「今の価値観」でゾラを断罪することはできませんし、むしろ彼の視点の変革性に目を向けるべきでしょう。

      ベルナデットを“処女のまま苦しみ抜いた聖女”としてではなく、“生きる喜びを奪われた一人の女性”として描き出したゾラのまなざしは、彼なりの「人間への連帯」だったのだと思います。

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ルルド 第175回

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