復活祭の水曜日、4月16日、ついに最後の苦悶が始まった。
この朝、ベルナデットの隣のベッドに寝ていた修道女が――彼女もまた死に至る病を患っていたのだが――ルルドの水を一杯飲んだ直後、突如として回復したという話が伝わっている。だが、特別に選ばれた者であるはずのベルナデットには、それが効かなかった。神はようやく、彼女の切なる願いを聞き届けたのだった。もはや苦しまなくてすむ大地のやさしい眠りへと、彼女を導くことで。
彼女はみんなに赦しを乞うた。彼女の〈受難〉は終わったのだ。救い主キリストと同じく、彼女もまた、釘と茨の冠、打たれた手足、開かれた脇腹を持っていた。彼と同じように、彼女も天を仰ぎ、両腕を十字に広げて大きく叫んだ。
「わたしの神よ!」
そして彼と同じように、午後3時ごろ、彼女は言った。
「のどが渇きました」
彼女は水の入ったコップに唇を浸し、そして頭を垂れ、死んだ。
かくして、ルルドの幻視者ベルナデット・スビルー――修道名、マリ=ベルナール――は、偉大なる聖女としてこの世を去った。彼女の遺体は3日間公開され、そのあいだに無数の人びとが詰めかけた。希望に飢えた民衆は、彼女の遺体のローブにメダルやロザリオ、聖画、ミサ典書をこすりつけ、一つでも多くの恩寵を、ひとかけらでも多くの「幸運」を、死してなお彼女から引き出そうとしたのだ。
死してなお、彼女は独りきりの夢のなかにいさせてもらえなかった。この世の哀れな群衆が彼女の棺を取り囲み、押し寄せ、幻想の水を飲み干していった。
そして、ある「奇跡」が記録された。――彼女の左目が、最後まで開いたままだったのだ。その目は、あの出現のあいだ、つねに聖母を見ていた側の眼だった。
さらにもう一つの奇跡が、人びとを驚かせた。
3日後に埋葬されるまで、彼女の遺体はまったく変化せず、しなやかで温かく、唇はバラ色のまま、肌は透き通るほど白く、まるで若返って芳香すら放っていたという。
今日、ベルナデット・スビルー――ルルドから追放されたこの聖女は、サン=ジルダールの片隅、小さな礼拝堂の床下に、古木の茂る庭の静寂と闇のなかで、最後の眠りについている。
その一方で、彼女の見た〈洞窟〉は今なおその勝利に輝いている――
ピエールは語り終えた。この壮大な物語の幕は閉じられた。
だが、車両の中は、まだ全員がその余韻に包まれていた。あまりに悲しく、あまりに胸を打つ結末に――全員が黙したまま、耳を傾けていたのだった。
マリーの頬には、やさしい涙が流れていた。そして他の人たちも、エリーズ・ルケ、やや落ち着いた様子のグリヴォットまでもが、手を合わせ、ベルナデットに祈りを捧げていた――「どうか天の国から、私たちの癒しを、最後まで見届けてください」と。
サバティエ氏は大きく十字を切ったあと、妻がポワティエで買ってくれたビスケットを食べ始めた。話の途中、悲しい話が苦手なゲルサン氏は、こっそりまた眠っていた。
そしてただ一人、ヴァンサン夫人だけが、枕に顔を埋めたまま動かなかった。まるで聴覚も視覚も閉ざし、もう何も見たくない、何も聞きたくない――そんな様子で。
だが、列車は走っていた。走って、なおも走りつづけていた。ジョンキエール夫人が窓から身を乗り出して、「エタンプが近いわよ」と告げた。 そしてこの駅を通過すると、ヒヤシンス修道女が合図をして、三度目のロザリオが唱えられた。 「栄えの五玄義」―― 主の復活、 主の昇天、 聖霊降臨、 至聖なる聖母の被昇天、 そして、聖母の戴冠。 つづいて、みんなで聖歌を歌った。 「わたしは信じます、乙女よ、あなたの御助けに……」 そのときピエールは、深い沈思のなかへと落ちていった。彼のまなざしは今、陽ざしに照らされた田園風景に向けられていた。車窓を過ぎ去る景色の絶え間ない流れが、彼の思考をゆりかごのように揺らし、車輪の轟音が彼の感覚をぼうっと麻痺させていった。 もはや彼は、この広大なパリ郊外のなじみ深い地平線を、はっきり見分けることができなくなっていた。あとブレティニー、あとジュヴィジー、そしてついに、パリ。もう一時間半もすれば――すべてが終わる。 そう、これで旅は終わるのだ。あの大旅行は果たされた。あれほどまでに願っていた調査、あれほどまでに渇望していた体験――すべてが、遂行されたのだ。 彼は確かめたかったのだ。信仰を取り戻せるかもしれないと――ベルナデットの例に触れ、信仰が稲妻のようによみがえるかもしれないと。 だが、いまや彼ははっきりと知った。 ベルナデットは、苦しむ肉体のなかで夢を見ていただけだった。 そして、自分自身も――もう二度と信じることはない。 それは事実として、冷酷に、否応なく、彼に迫っていた。ひざまずいて祈る子どものような、あの純粋で素朴な信仰。恐るべき無知に圧倒され、神秘にひれ伏す若い民族の、あの太古の信仰――それはもう、死んだ。 いくら毎年何千もの巡礼者がルルドへと向かおうと、もはや民衆全体が、彼らとともにあることはない。 信仰の全面的な復活――過去の世紀の信仰、疑いも反抗もない時代の信仰――その試みは、宿命的に失敗するだろう。 歴史は逆戻りしない。人類はもう、幼年時代には戻れない。 時代は変わった。 新たな風が吹き、 新たな種子がまかれ、 新たな収穫が始まっている。 人間もまた変わったのだ。過去の人びとのようには、もう、生きることができないのだ。 それは決定的だった。 ルルドは――ただの「説明可能な偶発的現象」にすぎなかった。その激しいリアクションこそが、カトリックという古い信仰形態が最期の断末魔にもがいている証でさえあった。 もはや、あの中世12世紀のカテドラルに跪いたように、一つの国全体が信仰のもとにひれ伏すことなど、ありえない。 主に従順な羊の群れとして、神の手に導かれていたあの古き国民の姿――それはもう、帰ってこない。 それを今、目隠ししたまま求めようとするのは、不可能という断崖に己を打ちつけること、いや、道徳的な大破局へと向かうことにほかならない。
ピエールの口を借りてゾラの結論が語られ始めましたね。
返信削除それは恐らく、既成宗教に対する科学の圧倒的な勝利を賛美するものになると思われますが、じっくりと耳を傾けることにしましょう。
そして、2025年に生きる我々として、当時から約130年の歴史を振り返り
現代における宗教、科学、政治の問題を捉えなおしましょう。
うむ、そらどの。
削除あなたの言うとおり、ここからのピエールの独白は――いや、ゾラの最終声明そのものと言ってよいでしょう。
『ルルド』という作品を通して、彼は宗教的幻想の終焉と、科学的思考の台頭を冷厳に見つめます。
だが、それは単なる勝利宣言ではなく、「信じる力」を失った世界の空虚と渇きもまた、くっきりと描き出しているのです。
🕰現代における問い直し
2025年に生きるわたしたちは、ゾラの時代から130年の旅を経て、今に至っています。
では、この「信仰と科学」の闘争の果てに、人間は本当に進歩したと言えるのか?
科学はCOVID-19や気候変動に挑み、
宗教は戦争の名目にも、連帯の源泉にもなり、
政治はポピュリズムと情報操作の迷宮へと突き進んでいる。
ゾラが望んだ啓蒙による救済は、ある程度は実現された。
だが同時に、人間は情報の暴風のなかで道を見失い、孤独と不信の底で震えているのではないでしょうか。