2025年9月11日木曜日

ローマ 第73回

 ある月曜の朝10時15分ごろ、ドンナ・セラフィーナの居間には若者たちだけが残っていた。モンシニョール・ナーニは顔を見せただけで去り、サルノ枢機卿もいましがた帰ったばかりだった。そして暖炉のそば、自分のいつもの席に腰を下ろしていたドンナ・セラフィーナは、弁護士モラーノの空席をじっと見つめていた。彼は意地になって姿を現そうとしないのである。ソファの前には、ベネデッタとチェリアが並んで座り、ダリオ、ピエール・フロマン神父、ナルシス・アベールが立って談笑していた。数分前からナルシスが若き王子をからかっていた。彼が絶世の美女と連れ立つところを見た、と言うのである。

「だが親愛なる友よ、言い逃れはなさらぬ方がいい。実際に彼女は見事な美しさでしたよ……あなたは彼女と並んで歩いておられた。そして二人で人気のない路地に入っていった。ボルゴ・アンジェリコ通りだったかな? 私はさすがに、そこからは追いかけませんでしたよ、慎みからね。」

 ダリオは余裕の笑みを浮かべ、幸福な男らしい気楽さで、美への情熱を否定する気などさらさらないようだった。

「確かに、確かに、間違いなく僕だよ。否定はしない……けれども、君が考えているような話じゃない。」

 そう言って彼はベネデッタに振り向いた。彼女もまた明るい笑みを浮かべ、嫉妬の影などまったくなく、むしろ彼が一瞬の美を味わったことを喜んでいるかのようだった。

「知ってるだろう、あれはあの可哀そうな娘のことだ。6週間ほど前、涙を流しているのを見かけた……そう、失業のために泣いていた真珠細工の職人の娘だよ。僕が銀貨を渡そうとしたら、顔を真っ赤にして走りだし、両親の家まで案内してくれたんだ……ピエリーナだ、思い出すだろ?」

「ピエリーナ、もちろんよ!」

「それからというもの、この娘に四、五度は出会った。確かに、あまりに美しいものだから、つい立ち止まって話しかけてしまう……この前も工房の主人の所まで連れて行ったけど、まだ仕事は見つからず、また泣き出してしまった。それで気の毒になって、慰めるつもりでちょっと抱き寄せて口づけしたんだ……ああ、彼女は驚きつつも、本当に幸せそうだったよ!」

 一同はその話にどっと笑った。しかしチェリアは真っ先に真顔に戻り、深刻な口調で言った。

「ご存じでしょう、ダリオ。あの娘はあなたを愛しています。いじわるはなさってはいけません。」

 ダリオもまた同じことを感じていたのか、ベネデッタに向き直り、陽気に首を振ってみせた。それは、もし愛されているとしても、自分は愛してはいない、というしぐさだった。真珠職人の娘、下層民の娘を? まさか! 彼女がヴィーナスのように美しかろうと、愛人にはなり得ない。
 そこでナルシスが古風なソネット風に仕立てて、この恋物語をからかい始めた。――真珠職人の美しい娘が、若き王子を見かけて狂おしいほど恋に落ちる。王子は陽光のごとく美しく、彼女に銀貨を施し、不幸に心を打たれる。娘はその慈悲深さと美しさに胸を揺さぶられ、もはや彼のことしか夢に見ない。どこまでも彼の後を追い、その足跡に火のような絆で縛りつけられる。そして娘は、施しとして銀貨を受け取らず、ただひたすらに従順で愛らしいまなざしを向け、ついに若き王子から心そのものの施しを受け取る……。ベネデッタもこの遊びを大いに楽しんだ。だがチェリアは、天使のような顔つきと、まるで世のことを知らぬ少女のような風情で、真剣なまま繰り返した。

「ダリオ、ダリオ、あの娘はあなたを愛しているのです。彼女を苦しめてはいけません。」

 とうとうコンテッシーナも哀れに思い始めた。

「可哀そうに……あの人たちは本当に惨めなのね!」

「おお!」と王子は叫んだ。「信じられないほどの悲惨さだ! あの日、彼女に連れられてシャトー・プレ地区へ行った時は、息が詰まる思いだった。まったく恐ろしい、信じられぬほどの悲惨だ!」

「そういえば」と彼女は続けた。「あの不幸な人たちを訪ねようって話していたのに、ずいぶん延ばしてしまって……ねえ、フロマン神父、あなたもとても関心がおありでしたね。ご研究のためにも、ローマの貧しい人びとを間近に見ることを望んでおられましたでしょう?」 

2 件のコメント:

  1. 全く、金持ちのボンボンのクソガキの恋愛遊戯には吐き気がするわっ!!!!!

    シャトー・プレ地区の解説してください。

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    1. おお、そらさん、そこは吐き気するポイントですよね😅
      ゾラもまさに「ローマ上流貴族の恋愛遊戯」と「貧民の惨状」を対照させて、読者の怒りを煽る仕掛けをしてます。

      ---

      ### シャトー・プレ地区(Près du Château)とは

      「シャトー・プレ(Prati del Castello)」は、サン・ピエトロ大聖堂の北西に広がっていた地域で、現在のプラーティ地区(Prati)にあたります。

      * 名前の由来:「プレ(Prati)」=草原、原っぱ。
      「シャトー(Castello)」はサンタンジェロ城(Castel Sant’Angelo)のこと。つまり「城の草原地帯」。

      * 19世紀当時の状況

      * まだ都市化が進む前の、湿地混じりの荒れ地や空き地が広がっていました。
      * ローマ統一後(1870年以降)、イタリア政府が新首都ローマに近代的都市計画を導入する前は、このあたりはほぼスラム状態。
      * 貧しい労働者、失業者、日雇い、移民が押し込められる地区として悪名高く、「不健康な場所」「道徳の荒廃した場所」とまで言われていました。

      * ゾラの描写意図
      ダリオが「信じられぬほどの悲惨」と口にしたのは、単なる誇張ではなく、当時のローマの社会問題そのもの。

      * 貧困層がすし詰めに住むバラックや不衛生な小屋。
      * 失業者の多さ、病気、売春や犯罪の蔓延。
      * そしてそれを横目に、「美しい娘」と戯れる貴族の坊や。
      → ゾラはここで、古代ローマの栄光のすぐ隣にある、現代ローマの貧困の地獄を突きつけています。

      ---

      つまり、ダリオにとっては「退屈な日常のちょっとしたロマンティックな冒険」でも、
      ピエリーナにとっては「飢えと生活の不安から救い出してくれる唯一のチャンス」なんですよね。

      だからこそ、チェリア(無垢な少女の目線)が繰り返し「ダリオ、彼女を苦しめてはいけません」と言う場面が、読者の良心を代弁しているわけです。

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ローマ 第73回

 ある月曜の朝10時15分ごろ、ドンナ・セラフィーナの居間には若者たちだけが残っていた。モンシニョール・ナーニは顔を見せただけで去り、サルノ枢機卿もいましがた帰ったばかりだった。そして暖炉のそば、自分のいつもの席に腰を下ろしていたドンナ・セラフィーナは、弁護士モラーノの空席をじっ...