2025年10月21日火曜日

ローマ 第113回

  ピエールは、正体の見えない陰謀の暗い伝染力――その瘴気めいた気配に、ふと小さく身震いした。夜の静けさの中、伝説めいた劇的事件で満ちたこのローマで――そのテヴェレ川の畔、巨大な宮殿の奥底にいると、暗闇の中で張り巡らされる黒い企みの気配が、じわじわと心を侵していくのだった。そして彼は、ふいに我に返り、自分自身のことを思い詰めた。

「――でも、一体、僕は何なのだ?僕は、この渦中で何者なんだ? なぜモンシニョール・ナーニは僕に関心を寄せる? どうして彼は、僕の著書の訴追にまで絡んでいるんだ?」

 ドン・ヴィジリオは、肩をすくめ、大きな身振りをしてみせた。

「ああ、わからないのです、はっきりしたところなど誰にもわからないのです!... ただ一つ確かなのは、ナーニ様が件の訴追を知ったのは、すでにタルブ、ポワティエ、エヴルーの三司教の訴えが、インデックス事務局長のダンジェリス神父の手に渡ってからだったということです。そして、これは別筋から聞いたことですが――モンシニョール・ナーニはその時点で、訴追を止めようと動いた。あれは無益で、政治的にも得策ではないと判断されたのでしょう。しかし、一度“教理審査官会議(聖省)”が動き出せば、それを止めることはほとんど不可能です。それに、彼はドミニコ会士のダンジェリス神父と必ず衝突せざるを得なかった。あの御方は生粋のドミニコ会で、イエズス会に対して憎悪に近い対抗心を燃やしている……。そこでナーニ様はコンテッシーナに手紙を書かせ、あなたをローマへ呼び寄せたのです。ご自分の庇護のもと、この宮殿に滞在させるために。」

 この告白に、ピエールの胸は激しく揺さぶられた。

「――それは確かなのですか?」

「ええ、まったく確かなことです。私は実際に聞いております、月曜日のことです。そして私はすでにあなたに言いましたが、あの方はまるで綿密な調査を経たかのように、あなたを知り尽くしている口ぶりでした。私の見立てでは、モンシニョール・ナーニはあなたの著書を読み、その内容に深く心を奪われていた。」

「じゃあ……彼は僕の考えに同意している? 僕を守ろうとしている? 僕を支えるために自分も戦っていると、そういうことですか?」

「いや、ちがう、まったくそんなことではありません……。あなたの思想? あの方は心底からそれを嫌悪しておられる。そして、あなたの本も、あなた自身の存在さえも! あの方の微笑みの陰に潜むもの――弱者への蔑視、貧者への憎悪、権力と支配への陶酔……それを知らねばなりません。『ルルド』? あれはあなたにくれてやるとおっしゃるでしょう。たしかに統治に使える強力な武器ではある。しかし、決してあなたを赦しはしない。あなたが“この世の小さき者”の側に立ち、そして“教権の世俗的支配”に反旗を翻したからです。ああ、もしあなたが一度、あの方がド・ラ・シュウ氏を嘲笑う様子を聞いたなら――『ネオ・カトリックの泣き柳』と、あの甘やかな残酷さで呼んでおられる!」

 ピエールは両手でこめかみを押さえ、絶望的に頭を抱えた。

「――それでは、どうしてなんです!? 教えてください! どうして僕をここへ呼んだ? どうしてこの家に僕を囲い込む? 三ヶ月もローマの中で、行く先々で壁にぶつかり、疲れ果てるまで歩かせた? もし彼が僕を疎んでいるなら、インデックスに本を葬らせればよかった。それで済んだはずだ! もちろん僕は従順にはならなかった。信仰を告白し、ローマの決定にさえ逆らってでも、僕は新しい信念を堂々と明らかにしただろう!」

 その時、ドン・ヴィジリオの黒い眼が、ぎらりと光った。

「――そう、それこそが、彼の望まなかったことなのかもしれません。彼は知っているのです――あなたが非常に知的で、なおかつ熱情に満ちた人物であると。モンシニョール・ナーニはよく言われています――“知性と熱情には正面からぶつかってはならない”と。」


2 件のコメント:

  1. ところで、モンシニョール・ナーニはとんだタヌキ野郎ですよね。
    いまだに彼の真意はわからないままだ。
    ねこじいの読みは?

    返信削除
    返信
    1. ふむ……ナーニについては、現時点の描写だけでも“タヌキ”という印象は正確だと思います。ゾラがこの人物を描く筆致には、狡猾さ、温顔、権力への嗅覚、そして徹底した自己防衛本能が一貫して見えます。ただし、ドン・ヴィジリオの陰謀めいた視点にピエールが引きずり込まれている場面なので、読者側が「ナーニ=黒幕」に見えてしまうのは、ゾラの計算のうちでもある。
      そこで、ねこじいとしての現時点での読みを整理すると、こうなります。

      🦊 ナーニは“陰謀”をしているのではなく、“秩序を管理している”タイプ
      彼はドミニコ会のような 「教義の守護者」でも、イエズス会のような 「世界を制する戦略家」でもない。
      そのどちらの特徴も理解し、必要に応じて使い分ける
      純度の低いリアリスト
      です。

      🎭 正義や信仰よりも、“ローマが生き残ること”が目的
      ナーニの真意は、おそらく次の1行に尽きる。
      「教会が生き延びるためなら、手段は選ばない」
      だから、
      ・ピエールを救うこともできるし、切り捨てることもできる
      ・ベネデッタの離婚を進めることも止めることもできる
      ・イエズス会的にも動けるし、反イエズス会的にも動ける
      行動原理が「思想」ではなく「生存戦略」なので、読者は掴みどころを失う。
      そこが“狸”たるゆえん。

      🧊 しかも彼は、冷たい善人である可能性がある
      ナーニは“悪役”ではなく、
      「自分の良心と信仰においては完全に正しいと信じている調停者」
      という怖いタイプ。
      ピエールの本の件でも、
      信仰の真剣さは認める

      だがローマの秩序を乱されるのは困る

      → だから『正面から弾圧はしないが、必ず無力化はする』
      という動きになる。

      👀 つまり、彼の真意は「まだ明かされていない」のではなく、「そもそも一本ではない」
      ゾラが描きたいローマは、
      “信仰が人間を救うかどうか” ではなく
      “制度は人間の魂をどう歪めるか”
      だから、ナーニはその象徴的人物。
      ピエールが彼を理解できないのは、
      ナーニが矛盾しているからではなく、
      制度の論理が、人間の論理と別物だからです。

      削除

ローマ 第130回

   3人は揃って共同の部屋に入った。すでに夜の闇がそこに満ちていた。暑い季節はもう過ぎていたが、戸口に立った途端、ぶんぶんと唸るハエの羽音が聞こえた。酸っぱくなったワインと酸化した油の、鼻を突くような臭気が喉を締めつける。目が少し暗さに慣れると、彼らは広々とした部屋の中を見分け...