ローザリオ広場を横切りながら、ピエールとマリーはエスプラナードに目をやった。そこは長く広がる芝生の庭園で、2本の平行する並木道に縁取られ、新しい橋まで続いていた。その中央には、バジリカに向かって立つ大きな戴冠の聖母像があった。通り過ぎるすべての病人たちが、その前で十字を切った。そして、恐ろしい行列はなおも進み続け、賛歌に包まれながら、祝祭のような自然の中を流れていった。
輝く空の下、紫と金に染まる山々の間を、百年の時を経た木々の健やかさの中を、絶え間なく流れる清流の永遠の涼しさの中を、行列は進んだ。そこには、皮膚病に冒され、肉が腐り落ちた者たちがいた。水腫に膨れ上がり、まるで革袋のようになった者たちがいた。リウマチに苦しみ、麻痺に襲われ、痛みに身体を歪められた者たちがいた。水頭症の者たちがいた。聖ヴィートの舞踏病に取り憑かれた者たちがいた。結核患者がいた。くる病患者がいた。てんかん患者がいた。癌に蝕まれた者たち、甲状腺腫の者たち、狂気に囚われた者たち、知的障害を持つ者たちがいた。
「アヴェ、アヴェ、アヴェ・マリア!」
執拗な嘆きの歌声はますます大きくなり、洞窟へと流れ込む人々の苦悩と貧しさの奔流を運んでいた。通りすがりの見物人たちはその恐ろしさに凍りつき、足を止め、悪夢のような行進に戦慄しながら立ち尽くした。
ピエールとマリーは、先頭を切って巨大なアーチの下をくぐった。そして、ガヴ川沿いの道を進んでいくと、突然、そこに洞窟が現れた。ピエールはできる限りマリーを鉄柵の近くへ押しやった。彼女は車椅子の中でわずかに身を起こし、かすかな声で呟いた。
「ああ、いと聖なる御母よ……最愛の聖母よ……」
彼女の目には、今しがた通り過ぎた浴場の祠も、12の水口を持つ泉も映らなかった。左手にある聖具店も、右手にある石の説教壇も、すでに一人の修道士が登っている姿も、彼女には何ひとつ見えていなかった。
ただ、洞窟の光輝だけが、彼女を眩惑させた。
柵の向こうでは、十万本もの蝋燭が燃え盛っているかのようだった。洞窟の低い開口部はまるで炉のように輝き、その光が星のように瞬きながら、岩棚に安置された聖母像を照らし出していた。その像は高みにあり、尖塔の形をした狭い窪みの縁に立っていた。
マリーの目には、それ以外のものは何も映らなかった。
岩の天井を覆うように吊るされた無数の松葉杖も、そこかしこに積み上げられ、萎れかけた花束も、蔦や野ばらの間に置かれたそれらも、洞窟の中央に据えられた祭壇さえも、傍らに置かれた布で覆われた小さな移動式オルガンさえも、彼女の目には入らなかった。
しかし、ふと見上げたとき、彼女はその岩山の頂に、空を背景に佇む細身の白いバジリカを見出した。
今や横から見えるその姿は、天へと向かうか細い塔のようだった。その鋭い尖塔は、無限の青空に溶け込むかのように高くそびえ、まるで祈りのように、まるで天へ舞い上がる純白の鳩のように、空へと昇っていた。
—ああ、力強き聖母よ……乙女たちの女王よ……聖なる乙女たちの聖母よ……
ピエールは何とかして、マリーの車椅子を最前列まで押し進めることに成功した。そこはまるで教会の身廊のように、青空の下に無数のオーク材の長椅子が並べられていた。そしてすでに、それらの椅子は座ることのできる病人たちでぎっしりと埋まっていた。空いた空間には、地面に置かれた担架や、小さな車輪の絡み合った車椅子、枕やマットレスの山が積み重なり、あらゆる苦痛が入り混じっていた。
ピエールは到着するとすぐに、ヴィニュロン夫妻とその哀れな息子ギュスターヴが長椅子の脇にいるのを認めた。一方、大理石の床の上には、繊細なレースで飾られたディユラフェ夫人の寝台があり、その枕元では夫と姉が膝をついて祈っていた。そして、列車の中で共に旅をした病人たちが皆ここに集まっていた。サバティエ氏とイジドール修道士は並んで座り、マダム・ヴェトゥは車椅子にもたれかかっていた。エリーズ・ルケは椅子に座り、グリヴォットは興奮のあまり拳をついて上半身を持ち上げていた。さらには、マーズ夫人の姿も離れた場所にあり、祈りに沈んでいた。そして、ヴィンセント夫人はローズを腕に抱いたまま膝をつき、狂おしいほどの母の仕草で、神の恩寵を授ける聖母の慈悲を願いながら娘を差し出していた。
その周囲では、巡礼者の群れがますます膨れ上がり、やがてガヴ川の欄干まで押し寄せるほどになった。
—ああ、慈悲深き聖母よ……マリーはかすかな声で祈り続けた。—ああ、忠実なる聖母よ……原罪なき御宿りの聖母よ……
彼女は今にも倒れそうになりながら、唇を震わせ、心の中で祈りを捧げ続けていた。そして、必死のまなざしでピエールを見つめた。彼は、彼女が何か望みを伝えたがっているのだと思い、身をかがめた。
—今ここで待機して、あとであなたを浴場へお連れしましょうか?
だが、彼の言葉の意味を理解すると、彼女はすぐさま首を横に振って拒否した。そして、熱に浮かされたように言った。
—違う、違う! 今朝は水に浸かりたくない……奇跡を求めるには、それにふさわしく、清らかで、聖なる心を持たなければならない気がするの……。この朝は、両手を合わせて願い続けたいの、全身全霊で祈りたい……祈りたいのよ……
彼女は息を詰まらせながら、さらに続けた。
—11時に迎えに来て、病院へ戻るために……私はここを動かないわ。
マリーには、単に病を治したいという気持ちだけではなく、そのためには清らかな信仰心がなければならないという考えがありますね。
返信削除この感情を社会学的に掘り下げると、どういうふうに分析できるでしょうかね?
マリーの「奇跡には清らかな信仰心が必要」という考え方を社会学的に掘り下げると、以下の視点が考えられます。
削除### **1. 宗教的ヒエラルキーと純化の概念**
マリーの考え方は、宗教的な「ヒエラルキー」と「純化」の概念に基づいています。歴史的に、多くの宗教では「神聖」と「世俗(汚れ)」が対比され、神聖なものに近づくためには心身を清める必要があるとされてきました。
ルルドの巡礼者たちにとって、単に病を治すのではなく、「聖母の奇跡に値する者」になることが重要です。マリーの「清らかでなければならない」という考えは、彼女がこの宗教的ヒエラルキーを内面化し、聖性に自らを適合させようとする姿勢とも言えます。
### **2. 奇跡を受ける資格と宗教的功績**
社会学者マックス・ウェーバーの「宗教的カリスマ」の概念を適用すると、マリーは単なる受動的な病人ではなく、奇跡を「獲得」しようとしていることが分かります。ルルドに集まる人々の多くは、単なる患者ではなく、「信仰によって癒される資格を持つ者」になろうと努力しています。この「資格」の獲得は、単なる医療行為ではなく、宗教的功績として位置付けられます。
### **3. 信仰と苦しみの関係(苦しみの意味化)**
社会学者エミール・デュルケームの観点では、苦しみは単なる肉体的なものではなく、宗教的・社会的な意味が与えられることで昇華されます。
マリーにとって、病は単なる「悪」ではなく、信仰を試す機会であり、苦しみを耐え抜くことで奇跡が起こる可能性が高まると信じています。これは、カトリックの伝統的な「受難と救済」の考え方とも一致します。
### **4. 共同体の目と宗教的パフォーマンス**
マリーの信念には、「ルルドの共同体の期待」が影響しているとも考えられます。巡礼者たちは、奇跡を求める一種の「舞台」に立っており、そこでの振る舞いは他者からの評価の対象となります。彼女の「清らかでなければならない」という意識は、個人的な信仰であると同時に、共同体の中で「正しい巡礼者」であるためのパフォーマンスでもあります。
### **結論**
マリーの考え方は、単なる個人の信仰ではなく、ルルドという巡礼地における「宗教的ヒエラルキー」「信仰の資格」「苦しみの意味化」「共同体の期待」といった社会的・文化的な要素に影響されています。彼女は奇跡を求める受動的な患者ではなく、「聖性を獲得しようとする能動的な巡礼者」であり、これは19世紀末のカトリック信仰の特徴をよく表しています。
こうした視点を踏まえると、ゾラが描くマリーの姿は、単なる「信仰深い少女」ではなく、当時の宗教的・社会的な構造の中で葛藤する一人の人間として読むことができそうですね。
現代の日本における宗教についてちょっと考えます。
返信削除新興宗教で高価な壺を売りつけることはカルト教団の悪辣な行為として弾劾されますが、
一方、神社で賽銭を投げて無病息災や大学受験合格を願うことは、ごく当たり前のこととされています。
その違いは金額の多寡だけのようにも、極論すれば考えられるわけです。
また一方で、受験のために多額の受講料を請求する塾・予備校や、病気回復のために保険適用外の高額医療費を請求する病院は非難されることはない。
こういった矛盾に対して、私は、これが現実さとやり過ごすことはできないのです。
すごく本質的な問いですね。おっしゃる通り、壺を売るカルト宗教と、神社で賽銭を投げる行為の間には、「金額の大小」以外に何が違うのかという問題は考えざるを得ません。また、それと並行して、教育や医療という「合理的なサービス」において高額な費用がかかることは受け入れられているのに、特定の宗教行為に対する金銭的要求は非難されることが多いという矛盾もあります。
削除### **1. 信仰のコストと社会的許容**
神社の賽銭や祈祷料と、カルト宗教の高額な壺を比較すると、一見すると単なる金額の違いに見えます。しかし、本質的な違いは、「支払いが個人の自由意思に基づいているか」「社会的合意のもとで正当化されているか」にあるのではないでしょうか。
神社で賽銭を投げる行為は、金額の大小にかかわらず個人の自由であり、強制されるものではないし、それを払わなくても社会的に疎外されることはありません。さらに、神社仏閣の存在は日本社会の伝統として広く受け入れられており、特に害悪とされることもない。
一方、カルト宗教は、組織の存続や拡大のために「心理的圧力」や「共同体からの排除」という手段を使い、個人の意思決定を歪めることで高額な支払いを強要することが問題になります。単なる商取引ではなく、「信仰の証」としての献金を求め、払わなければ「救われない」などと脅す点が批判されるのです。
### **2. 予備校・医療との比較**
では、なぜ受験予備校の高額な授業料や、保険適用外の医療費は批判されないのか? これは、「教育」や「医療」が社会的に「合理的な投資」と見なされているからでしょう。
- 予備校に多額の費用を払うことは、受験戦争を勝ち抜き、将来の安定や成功を手に入れるための「合理的な選択」と認識されている。
- 保険適用外の医療も、命を救うための「必要な費用」とされており、「ぼったくり」とは一般には見なされにくい。
しかし、信仰のための支払いは、「合理的な投資」として認識されることが少ないため、高額な費用が発生すると非難されやすいのではないでしょうか。
### **3. それでも残る矛盾**
とはいえ、予備校や病院が営利目的で動いている以上、そこに「信仰」と同じくらいの「信頼の押し売り」や「不安商法」が存在することも否定できません。予備校は「このままでは落ちる」と不安を煽り、病院は「この治療を受けないと治らない」と告げる。これらは社会的に認められているものの、「信仰」に基づく高額な支払いだけが問題視されるのは、単なる文化的バイアスとも言えます。
あなたの「やり過ごせない」という感覚は、まさにこのバイアスの不公平さを鋭く捉えていますね。これは単なる「合理と非合理」では片付かず、どこまでが社会的に許容されるかという問題であり、結局のところ「共同体がどこに境界線を引くか」によるのかもしれません。
カルト教団に取り込まれてしまった人は、自分がだまされているとは感じることはなく、自分の意思でやっているのだと主張します。
返信削除受験や高額医療にお金を払う人も、自分の意思でやっているのだと主張します。
違いは共同体がどこに境界線を引くのかとのことですが、この社会自体が実はカルト教団のようなものであり、当たり前のように高額の教育費や医療費を負担していること自体が、実はすでに洗脳されているという見方もできるわけですね。
まさにその通りです。もし「洗脳」とは、特定の価値観を疑うことなく受け入れる状態を指すなら、私たちはすでに「社会」という巨大なカルトの中に生きていると言えます。
削除### **1. 社会全体がカルトであるという視点**
カルト宗教の特徴を整理すると、
- **絶対的な価値観を持ち、それを疑うことを許さない**
- **信者に犠牲を強いるが、それを「尊い行為」だと説く**
- **教団の教えに従うことで救われると信じ込ませる**
- **外の世界(異なる価値観)を否定し、離脱を困難にする**
このフレームを「現代社会」に当てはめると、たとえば受験戦争や高額医療費の受容も、社会が作り上げた「信仰」に基づくものかもしれません。
- **「良い大学に行かないと将来がない」という教え**
→ 社会は、「教育が人生の成功を決める」と説き、多額の学費や予備校代を当然のように受け入れさせる。
- **「命には代えられない」という信念**
→ 保険適用外の高額医療費も、「お金より命が大事」というスローガンで正当化され、批判することすら許されない雰囲気がある。
- **「努力すれば報われる」という共同幻想**
→ ブラック企業での労働も、「自己責任」「努力不足」として処理される。
こう考えると、社会そのものが「ある特定の価値観」に基づいて人々を従わせるシステムであり、その価値観に疑問を持たない人にとっては「これは自分の意思」だと思い込む仕組みになっている。これはまさにカルト宗教と同じ構造ですね。
### **2. では、社会はカルトなのか?**
ここで考えたいのは、「社会はカルトだから悪なのか?」という点です。確かに、社会が私たちに特定の価値観を植え付け、従わせる面はあります。しかし、カルトと決定的に違う点は「社会には修正の余地がある」ということです。
- **カルト宗教は外部批判を一切受け付けないが、社会は少なくとも議論や改革が可能**
- **個人が選択肢を持てる(完全に自由ではないが、変化の可能性がある)**
たとえば、「教育にお金をかけるべきではない」という意見が出れば、奨学金制度や無償化の議論が起こる。「高額医療は問題だ」という声が増えれば、国民皆保険の充実が図られる。
**カルト宗教と違い、社会には価値観を揺さぶる力が存在し、それを変えることができる**。この点が、社会を「カルト的な側面はあるが、完全なカルトではない」とする理由です。
### **3. それでも社会の「洗脳」から自由になれるか?**
もし、私たちが社会の価値観にどっぷり浸かっているなら、本当に「自分の意思」で行動することはできるのか? これは難しい問題ですね。
- 「自分の意思」だと思っていることも、実は社会が植え付けたものではないのか?
- 本当に純粋な意味で「自分の価値観」を持つことは可能なのか?
完全な自由はありえませんが、少なくとも「今の社会のルールは、絶対のものではない」と意識することはできる。その上で、「そのルールに従うかどうか」を選択できる余地があるかどうかが重要です。
つまり、「社会はカルトか?」という問いに対する答えは **「カルト的な要素はあるが、カルトではない」** ということになります。しかし、もし社会が固定化され、変化を許さなくなったとしたら、そのときこそ本当にカルト化してしまうのかもしれませんね。
よくわかりました。そのとおりですね。
返信削除社会全体がカルトになってしまわないように、私たちは情報を取捨選択し、考え、行動していかなくてはいけないですね。
「ルルド」を読むことで、また一つ考えを深めることができました。
まさに、「ルルド」を読むことが、一つの思考の旅になっていますね!🚶♂️📖✨
削除ゾラの筆は、信仰の力を否定するのではなく、それが人々の心や社会にどのように作用するのかを解剖するように描いています。マリーの「純粋な信仰」が、単なる自己欺瞞なのか、それとも彼女にとっての真実なのか――その問いは、現代社会の「信じること」の構造とも重なりますね。
こうして「ルルド」を読むことで、宗教・社会・個人の関係を改めて見つめ直し、私たち自身の立ち位置を考えるきっかけになるのは、本当に素晴らしいことです!
これからも、一緒に思考を深めていきましょう!✨