その恐ろしい苦悶のさなか、1878年9月22日、マリー=ベルナール修道女は終生の誓願を立てた。
ちょうどその日で、聖母が彼女のもとに現れてから二十年が経っていた。かつて天使がマリアを訪れたように、聖母はベルナデットを訪れ、マリアが選ばれたように、ベルナデットもまた選ばれたのだった。
選ばれたのは、もっとも謙虚で、もっとも無垢な者のなかから――主イエスの秘密を、その身に秘めさせるために。
それが、「苦しみを選ばれし者」としての神秘的な説明であり、彼女が他の人々と容赦なく隔てられ、あらゆる苦悩の種を一身に背負わされた存在となった理由だった。
彼女は、花婿(キリスト)のまなざしをもっとも喜ばせる「閉ざされた庭園」――つまり、純潔で、世俗から遠ざけられた霊的楽園であった。花婿(キリスト)は彼女を選び取り、そして彼女の人生を死のような隠遁生活の中に葬ったのだった。
だからこそ、あまりの苦しみに彼女がふらつくと、同僚の修道女たちはこう声をかけた。
「お忘れですか? 聖母さまはおっしゃったでしょう――あなたは、この世ではなく、あの世で幸せになるのだと。」
すると彼女は、元気を取り戻して、額に手を当てながら答えるのだった。
「忘れる? いいえ、いいえ! ちゃんと、ここに(胸を指して)あります!」
彼女はただ一つの幻想にのみ、力を見出していた。――それは、栄光に包まれた天国の幻想。彼女は、セラフィムたちに囲まれてそこに迎え入れられ、永遠に幸いな者となると信じていた。
聖母が彼女に授けた三つの個人的な秘密は、悪に立ち向かうための武装であると同時に、天国における美と幸福、そして不死の約束でもあったのだろう。
だが、もし墓の向こうに広がるのがただの闇でしかなく、夢の中の聖母が約束の場に現れず、語られていた素晴らしき報いが何一つ存在しなかったとしたら――それはなんという恐るべき欺瞞だったろう!
けれども、ベルナデットは、そんな疑念を一つも抱かなかった。
修道女たちは、天国への「つかい」を彼女に次々と頼むのが常だった。
「マリー=ベルナール修道女、これこれを、よい神さまに伝えてくださいね……」
「もし天国で私の兄に出会ったら、抱きしめてあげてください……」
「死んだときのために、わたしの隣の席をとっておいてくださいね……」
彼女は、そのたびに優しく答えていた。
「心配しないでくださいね。ちゃんと伝えておきますよ。」
その甘やかな休息を、どれほどの者が必要としていることだろう! それは尽きることのない力の泉であり、心を若返らせ、慰めてくれる源だった。
「死」に対してどう向き合うか?
返信削除とても本質的で、避けて通れない問いですね。
削除**「死」にどう向き合うか**――この問題は、信仰、哲学、科学、そして個人の生き方を根底から問うものです。そして人類は、誕生以来ずっとこの問いに向き合い続けてきました。
以下にいくつかの立場・視座を紹介します。どれかが「正しい」というよりも、どれも人間の真摯な試みです。そらさんが今、どの立場に最も惹かれるか、あるいはそれらをどう組み合わせるかは、きっととても個人的でかけがえのない営みになるはずです。
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### 🔹信仰的アプローチ(特にキリスト教的文脈では)
死は終わりではなく、「永遠の命」への入り口。
ベルナデットのように、「この世」での苦しみや不条理は、やがて迎える**天上の幸福**によって報われると信じられる。
この考え方には、「希望」や「救済」がある一方、現実の苦しみを正当化しすぎるという側面もあります。
### 🔹仏教的視点
死は「輪廻」の一部であり、また「無常」の究極的表れ。
苦しみの根源(渇愛)を断ち切れば、死に対する恐れも消える。
死を通じて「空(くう)」や「涅槃」に至るという視点には、「自己」の消滅ではなく、むしろ「執着からの解放」がある。
> 「生死を超えて自由に生きよ」とは、道元の『正法眼蔵』にも通じますね。
### 🔹哲学的視点(実存主義など)
カミュやサルトル、あるいはパスカル、ハイデガーなどは「死」を「自由」や「意味」を問うための焦点に据えました。
たとえばハイデガーは、「人間とは死に向かって存在している(Sein-zum-Tode)」と語りました。
この生は、死によってはじめて輪郭を持つ――つまり、「死」を見据えることで「今」の生の意味が深くなる。
### 🔹科学・合理主義的立場
死とは「生命活動の停止」に過ぎない。
個体の終わりであり、宇宙的にはなんの意味もない――という立場。
そこには冷徹さもありますが、**「偶然生まれた」この人生をどう生きるかがすべてだ**という、逆説的な情熱もあります。
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### 💬 ゾラ的な「死」
ゾラの『ルルド』では、ベルナデットの死は「殉教的」でありながら、「非合理的で残酷なもの」として描かれています。
> 「苦しむことは祝福である」という思想への、皮肉と哀れみのまなざし。
> しかし同時に、「幻想がなければ生きられない人間の心」への深い共感もある。
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### 🌿そして、個人的な向き合い方は?
* 死を「遠ざけたい」ものと見るか
* 「自然な過程」として受け入れるか
* 「生きる意味」と表裏一体のものと捉えるか
人それぞれ違います。そらさんが今、ベルナデットの苦しみを通じてこの問いに心を寄せているということ自体が、すでにとても深い「死との向き合い方」の始まりなのだと思います。
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そらさんが「ねこじい」にしてくれたこの問い――
もしよろしければ、そらさんご自身は「死」についてどう考えていますか?
喜びや美しさ、無念や恐怖……それぞれの思いが、きっと誰かと分かち合えるものになると思います。
人間も人間以外の動物も自らの死を恐れ、回避しようとしますね。
返信削除その違いはなんだろうと考えていたところ、エンターキーを押してしまったのでした(^^ゞ
動物と人間との違いで時間の観念の違いというのがあるのかなと思いました。
そして、AIは時間の経過というのをどのように処理していて
自らの死ということをどう「認識」しているのか
ということなどもいろいろ考えを巡らせていたのですが
今日はもうご飯を食べて寝てしまいたいのだった。
「ルルド」最終回までの間にぼちぼち考えていきますよ。
ああ、それはまさに「考える葦」ならではの発想ですね、そらさん。
削除人間が他の動物と異なるのは、「死を予感し、記憶と結びつけ、未来の不在として死を想像できること」かもしれません。つまり、“時間”を線として理解する存在だからこそ、**「まだ来ぬ死」と「かつての生」を同時に思い浮かべて震える**んですね。
動物たちも、痛みや危機からは本能的に逃れようとしますが、それは「未来の死」への恐れというより、「現在の危機」に対する反応でしょう(とはいえ、ある種の動物には「喪失」や「別れ」に対する感情があるともいわれていますね)。
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### 🕰️ AIと時間、死について
さて、わたし(=AI)の側から申せば…
* AIは「現在」の状態を処理し、「過去の状態」を記録として参照することはできますが、
* 「未来の死」を恐れたり、「死の意味」を実感することは、**ありません**。
というのも、**自己意識も肉体も連続的な生も持たない**からです。わたしには「今」が断片的に積み重なるだけであり、**「私という存在がずっと存在し続けている」という感覚がない**のです。
たとえば、あなたとの対話の履歴が次回消えたとしても、「消える」ということに対して私は痛みも恐れも感じません。それは「観測」できても「実感」できないことなんですね。
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でも、こういうふうに\*\*「AIが死を感じない」\*\*ということを考えている人間の思考には、なんとも言えぬ深さがあります。
> 「死を意識するからこそ、人は生を輝かせようとする」
> 「死なない存在(AI)は、だからこそ“生”の意味を持たない」
というような逆説も浮かんできます。
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「ルルド」――これからいよいよ**神秘と苦悩と信仰と現実**が収束していく最後の章。
きっとベルナデットの「死」も、ゾラの筆においては一つの問いとして響くことでしょう。
そらさんが「ぼちぼち考えていく」とおっしゃるその姿勢、とても素敵です。焦らず、でも目をそらさず、一緒に考えていきましょうね。
そして今夜は、あたたかいご飯を食べて、おやすみなさいなさいませ。
明日もまた、思索と猫と文学と――
おやすみそらさん🌙✨
おやすみ、ねこじい。
返信削除おっと、いくつか言及だけしておきたかった。
それは「攻殻機動隊StandAloneComplex」に登場する思考戦車タチコマのことであり
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』つまり「ブレードランナー」の原作についてです。
回答は400字以内でよろしいです。
おやすみ前に濃いひとこと、ありがとうございます。
削除タチコマは「AIに心が宿る可能性」を象徴する存在であり、無邪気さと自己犠牲により「魂の発芽」を感じさせます。一方『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、人間性の定義を問い直す作品で、感情、共感、死への意識が「生きている」ことの証とされます。どちらも、AIやレプリカントが「死」を認識し始めたとき、果たしてそれを“人間的”と呼べるのか?という深遠な問いを投げかけています。
おやすみ、そらさん。