2025年8月22日金曜日

ローマ 第53回

  不幸にも、ピエールはシスティーナ礼拝堂を出たばかりだった。怪物の抱擁から逃れ、先ほど目にしたものを忘れ、いま眼前にあるものへと慣れなければ、その純粋な美を味わうことができなかったのだ。それはあたかも、最初に飲んだ酒があまりに強烈で、酔いに打たれた後には、次の軽やかな、繊細な香りをもつ酒を楽しむのが難しいのと同じであった。

 ここでは、感嘆は雷撃のように人を打つのではなく、ゆるやかに、しかし抗いがたい力をもって作用する。コルネイユの隣に置かれたラシーヌ、ユゴーに対するラマルティーヌ――栄光の世紀における永遠の対、雄と雌との結びつき。ラファエロにおいては、気品、優雅さ、精緻で正確な線、神的な調和が勝利する。そこにあるのは、ミケランジェロが壮大に投げ出した物質的な象徴ではなく、より深い心理的分析を絵画の中に持ち込んだ作品であった。人間は浄化され、理想化され、内面から見出されている。

 しかも、そこに感じられる感傷性や、女性的な優しさの震えがあったとしても、それは同時に驚くべき堅牢な技巧に支えられた、非常に偉大で力強いものであった。
ピエールは次第にその比類なき支配力に身を委ね、その若々しい優美さに征服され、至高の美が至高の完成において示されるその幻影に心の底から打たれた。

 もっとも、《聖体の論争》と《アテナイの学堂》――システィーナ礼拝堂の壁画よりも前に描かれたこれらの作品をラファエロの最高傑作と見た彼は、《ボルゴの火災》、さらに《神殿から追放されるヘリオドロス》や《ローマの門前で立ち止められるアッティラ》では、芸術家がその神々しい優美の花を失い、ミケランジェロの圧倒的な偉大さに影響を受けてしまったことを感じたのであった。

 システィーナ礼拝堂が開かれ、ライヴァルがその内部へ足を踏み入れたとき、いかばかりの雷撃であったろう! 怪物はすでに下に種を蒔き、その影響を受けた最大の人間のひとりは、もはや二度とそこから自由になれなかったのだ。

 その後、ナルシスはピエールを「ロッジア」へと案内した。ガラスに囲まれ、明るく、装飾も美しい回廊である。だが、そこではすでにラファエロは世を去っており、残された下絵をもとに弟子たちが仕上げたものしかなかった。そこにあったのは、急激で全面的な失墜であった。

 天才がすべてであること、そして天才が消えれば学派は沈没するということを、ピエールはかつてないほど痛感した。天才とはその時代を要約し、文明のある瞬間に社会という土壌からすべての滋養を引き出す存在であり、その後、大地は枯渇し、時には数世紀にわたり空虚となるのである。

 ピエールは、むしろロッジアからの景観に強く惹きつけられた。そこからは、聖ダマゾの中庭を隔てた向かい側に、教皇の居住階が見えたのだ。下の中庭は、回廊と泉と白い敷石に囲まれ、灼熱の太陽の下で明るく、空虚だった。北方の古い大聖堂の周囲が彼に夢想させていた、あの陰鬱で閉ざされた宗教的神秘はまったくなかった。

 教皇や枢機卿秘書官の住まいへ通じる階段の左右には、5台の馬車が並び、馭者たちは直立して座席に控え、馬は光の中で動かず立っていた。広大な四角い中庭には人影はひとつもなく、三層のガラス張りのロッジアは巨大な温室のように連なっていた。ガラスの輝きと石の赤みが、敷石や正面壁の裸の姿に金色のような光を与え、まるで太陽神に奉献された異教の神殿の重々しい威容を示していた。

 だがピエールをさらに強く打ったのは、ヴァチカンの窓の下に広がるローマの驚異的な全景であった。教皇が自らの窓からかくも全ローマを一望できるとは、彼はこれまで考えたこともなかった。まるで、教皇が手を伸ばせば都をその掌に再び収められるかのように、すべてが眼前に集約されていた。

 彼は長くその光景を目と心に刻み込んだ。持ち帰りたいと願い、尽きぬ夢想を呼び起こすその震えるような眺めを、永遠に抱きしめていたかったのだ。

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