2025年9月27日土曜日

ローマ 第89回

  幸いなことに、ダリオの住まいは寝室・洗面所・サロンからなる3室続きの部屋で、枢機卿の居室に続く、テヴェレ川に面した棟の1階にあった。彼らは足音を殺しながら回廊を進み、ついに、負傷者を彼の寝台に横たえることができて、ようやく胸をなでおろした。

 ヴィクトリーヌは小さく満足げに笑った。

「やったわ!…ランプをお持ちのお嬢さま、ここ、このテーブルに置いてちょうだい…ね、だれにも聞かれていないわよ。セラフィーナが外出していて、枢機卿猊下もドン・ヴィジリオをお側に置いて戸を閉じておられる、ほんと運がよかったわ。肩はスカートで包んだから、血は一滴も落ちていないはず。後でわたしが自分で下の方を拭いておくわ。」

 彼女は言葉を切り、ダリオの方を見やった。そして素早く、

「息をしているわね…それじゃ、あなたたちお二人で見ていて。わたしは今から、お嬢さまを取り上げたあのお馴染みのジョルダーノ先生を呼んでくるわ、あの先生なら大丈夫。」

 二人きりになった。昏い半ばの部屋で、昏倒した負傷者を前に、いま胸に渦巻く恐ろしい悪夢が震えているようだった。ベネデッタはベッドの両側でピエールとともに立ち、まだ一言も言えずにいた。彼女は腕を広げ、両手をねじり、押し殺したうめき声をあげ、苦悩を吐き出そうとした。そして身をかがめ、その閉じた目の顔に生命のしるしを探した。確かに息をしていたが、それはきわめてゆっくりで、かすかに感じられるほどだった。しかし弱い紅が頬に上り、ついに彼は目を開けた。

 彼女はすぐに彼の手を取り、胸の痛みを伝えんばかりに握りしめた。弱々しくも彼が握り返してくれるのを感じて、彼女はほっとした。

「ねえ、わたしが見える? 聞こえる? いったい何があったの、神さま…」

 しかし彼は答えず、ピエールの存在を気にしていた。彼を認めると受け入れたようで、恐る恐る部屋にほかの者がいないか視線で探った。そしてようやくささやいた。

「誰も見ていない、誰も知らない…?」

「ええ、ええ、安心して。ヴィクトリーヌと一緒に、誰にも会わずにあなたを運べたわ。叔母は外出中だし、叔父は自室にこもっているの。」

 すると彼はほっとしたように微笑んだ。

「誰にも知られたくない、ばかげたことだから…」

「いったい何があったの、神さま…?」彼女はもう一度たずねた。

「ああ…わからない、わからないんだ…」

 彼は疲れた様子でまぶたを伏せ、質問から逃れようとした。だが、いくらか真実を語ったほうがいいと悟ったようだった。

「夕暮れ時、門の影に隠れていた男がいたんだ、きっと僕を待っていたんだろう…僕が帰ったときに、肩にナイフを突き立てたんだ。」

身震いしながら、彼女はもう一度身をかがめ、その目の奥をのぞき込んでたずねた。

「でも誰、誰なの、その男は?」

 彼がますます疲れた声で、知らない、暗闇に逃げられて顔もわからなかった、と言いよどむのを聞いて、彼女は恐ろしい叫びをあげた。

「プラダよ、プラダなのよ、そうでしょう、わたし知っているわ!」

 彼女は錯乱していた。

「知っているのよ、聞いて! わたしが彼のものにならなかったから、わたしたちが一緒になるのを許さないから、自由になったらあなたを殺すっていうのよ。あの人はそういう人だもの、決してわたしは幸せになれない…プラダよ、プラダ!」

 だが負傷者は突然の力をふるって身を起こし、正直に抗議した。

「いや、違う! プラダじゃないし、彼の手先でもない…それは誓って言える。男はわからなかったけれど、プラダじゃない、違う、違うんだ!」

 ダリオの言葉には、あまりにも真実味があったので、ベネデッタは信じざるを得なかった。だが、その瞬間、彼女は再び恐怖に襲われた。自分が握っていた彼の手が、再び湿って、力を失い、氷のように冷たくなっていくのを感じたのだ。先ほどの力を使い果たしたダリオは、再びぐったりと倒れ込み、顔は真っ白になり、目を閉じて気を失った。まるで死んでしまったかのように見えた。

 取り乱した彼女は、手探りで彼の体に触れた。

「神父さま、見て、見てください…死んでしまう! もう死んでしまう! ほら、もうこんなに冷たい…ああ、神さま、死んでしまう!」

 彼女の叫びに動揺しながらも、ピエールは必死に彼女をなだめようとした。

「話し過ぎて、また気を失っただけです…心臓はちゃんと打っています、ほら、手を当ててみてください…どうか落ち着いて。すぐにお医者さまが来ます、きっと大丈夫です。」

 だが、彼女はもう彼の言葉を聞いていなかった。そしてピエールは、彼女が突然見せた異様な光景を、驚愕しながら見守ることになった。

 ベネデッタは、愛する男の体にいきなり身を投げかけ、狂おしい抱擁でしがみついた。涙で彼を濡らし、口づけの雨を浴びせ、炎のような言葉をつぶやいた。

「もしあなたを失ったら、もしあなたを失ってしまったら…そしてわたしは、あなたに身を委ねなかった。幸せを知る時間がまだあったのに、わたしは愚かにも拒んでしまった…。そう、マドンナへのひとつの思いつき、乙女のままで夫に嫁げばマドンナが祝福してくれるだろうという思い込み…。でも、そんなことがどうして彼女に関わるの? わたしたちがすぐに幸せになったってよかったのに! それに、もしマドンナがわたしを欺いて、あなたを奪ってしまうのだとしたら、せめて、せめて、わたしは後悔する…あなたと一緒に罪を犯さなかったことを、そう、そうよ! わたしたちの血のすべてで、唇のすべてで、ひとつにならなかったことを悔いるより、地獄に落ちたほうがましだった!」

 それは、これまで彼が知っていたベネデッタとはまるで違っていた。これまで、彼女はあまりにも穏やかで、理性的で、自分の未来を整えるためにじっと待つ女性だった。自然な純潔の中に子どものような魅力を漂わせていたその姿が、今は見る影もない。恐怖と絶望が彼女の血をたぎらせ、ボッカネーラ家の激しい血統が蘇ったかのようだった。誇りと暴力、烈しい愛欲と生の渇望が、ここに極限まであらわになっていた。彼女は自分の愛、命の取り分を奪われまいと、雷鳴のように叫び、獣のように唸った。死が、愛する男を奪うことで、自分の肉を裂いていくかのように。

「どうか、お願いです、奥さま…」神父はくり返し言った。
「落ち着いてください…彼は生きています、心臓は打っています…そんなことをなさっては、あなた自身がひどくお辛くなります。」

2 件のコメント:

  1. la Madoneの訳としてはマドンナですか。聖母のほうがよくないかな。
    どうでしょうか?

    返信削除
    返信
    1. いいところに気づかれましたね😊

      原文の la Madone は、フランス語では一般的に「聖母マリア」を指す呼び方です。
      ただしニュアンスに幅があります。

      * 「マドンナ」
       イタリア語由来の呼び名で、芸術作品や信仰の対象としての「聖母像」に寄った響き。やや芸術的・親密な感じがあります。ゾラはローマを舞台にしているので、あえて「マドンナ」というイタリア語的な呼び方を残した可能性が高い。

      * 「聖母」
       日本語のキリスト教文脈で最も一般的。信仰対象として理解されやすい。余計な連想も避けられる。

      今回の場面は、ベネデッタが「聖母に乙女の純潔を捧げたい」という信仰上の観念を語っているわけで、絵画的な「マドンナ像」というよりも、信仰対象としての「聖母マリア」でしょう。
      したがって、私は 「聖母」 と訳すほうが自然だと思います。

      ただし、「マドンナ」と残すとイタリア的な舞台の香りが強まるメリットがあります。

      👉 おすすめは本文では「聖母」と訳し、注や訳者あとがきで「原文は la Madone」と触れるやり方です。

      削除

ローマ 第89回

   幸いなことに、ダリオの住まいは寝室・洗面所・サロンからなる3室続きの部屋で、枢機卿の居室に続く、テヴェレ川に面した棟の1階にあった。彼らは足音を殺しながら回廊を進み、ついに、負傷者を彼の寝台に横たえることができて、ようやく胸をなでおろした。  ヴィクトリーヌは小さく満足げに...